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立家物語(りっけものがたり)

作者: 高島啓市監修小林摩也

かつて摂政職にあった真原氏長者道郷まさらうじのちょうじゃみちさと、天下を睥睨し公卿ら近習達の前で詠みし和歌あり。

「極むこと 我世にありし 夜を照らす 月影上がれ 思いのままに」 (私は最高の栄誉ある身だ。夜を照らす月の光よ上がっておくれ私の思いのままに)。

この和歌は時の世情をよく現していた。そして権門真原北家まさらほっけを今脅かす存在はなかった。


立花帝たちばなてい、非常に生真面目で潔癖症であられ、お気に入りの妻妾にしかお手をお付けにはなられなかった。皇后として立てられた前真原氏長者小野家おのけの娘には目もくれず、愛妾加野かのの娘との間に第一皇子と一つ下の第二皇子を設けらる。他にも皇女があられた。

第一皇子、皇后の猶子となられた。

他に十五歳程年若い源左大臣の娘との間に第一皇子より三つ下の第三皇子、五歳下の第四皇子、六歳下の第五皇子、七つ下の第六皇子を設けらる。

第一皇子、立太子礼を受けて東宮となられ、立花帝は四十歳にして譲位なされた。東宮、十五歳にて践祚。即位礼後は向陽帝こうようていにおなりになられた。

前真原氏長者小野家の娘、采配蘭院さいはいらんいんと号し皇太后となられた。父先帝、第二皇子に因公宮いなばのみや、第三皇子に勢公宮いせのみや、第四皇子に予公宮いよのみや、第五皇子に賀公宮いがのみや、第六皇子に豆公宮いずのみやと宮号をお与えになられていた。

因公宮は真原氏長者小賀家おがけの娘と婚姻し一家をなす。

向陽帝、眉目秀麗であられた。

皇后として源右大臣の娘をお立てになり、中宮に真原北家の娘、更に女御、内侍の類数知れず。

しかるに帝、虚弱であられ中々皇子は誕生されなかった。

帝、十九歳にして初子第一皇女、翌年第二皇女がお産まれになり、更に帝、二十三歳にしてようやく皇子がご誕生なされた。この間先帝、向陽帝に皇子なくば因公宮を東宮に立てようとなされるも、帝の近習これに反発しお取り止めになられた経緯あり。

因公宮には順調に王子が産まれていたゆえ先帝がそうお考えになられても不思議ではなかったのである。


因公宮、真原氏長者小賀家の息女との間に向陽四年、十八歳にして長男が誕生した。

立花先帝待望の初めての男孫であられ、自らの所領である荘園の一部をお与えなさる程のお喜びようであられた。

その後翌年に次男が同女より産まれ、向陽七年、同女に長女が誕生した。これらの王子、女王は小賀家薮柑子邸やぶこうじていにて育てられ、因公宮は自らの役割を果たしたつもりであった。兄帝に未だ皇子お産まれになられず。

ご健康状態のことも考えいつ自分が次の帝位を継ぐか分からない。

その不安の中因公宮は小賀家邸を離れ立花先帝より譲り受けた山萩山荘やまはぎさんそうに籠ったのである。宮は孤独の中これらの日々を費やしたのではない。

宮が二十歳になると二品に叙せられ中務卿へ任じられた時は父先帝の真意を図りかねた。

この頃宮は放蕩生活を始め、貴賤の別なく女性を求めていた。渡った家の数計り知れず。

かような日々を過ごす内目に留まりし愛らしき娘を見つく。父親は零落貴族であり見るも無残な家なれど放っておけない雰囲気に惹かれた宮は懊悩の思い募りとうとう一夜を共にせねば気が済まなくなるのである。その娘の気を惹こうと宮は和歌を詠むに、

「器にて 水も従う ことのほか 萎れし花も 再び咲けり」(水とは器に倣い従うもの。萎れてしまった花も器次第できっとまた咲くのでしょう)。

返歌は寂しき内容であった。

「清らかなる 流れ橋から 眺めども 汚れ知らざる 君こそあはれ」(川の流れを橋の上から眺めてもその汚れに気付くことはありません。そんなあなたこそお可哀想です)。

宮はこのことはすぐ様失念してしまう。

ある時宮は見知らぬ女御と思しき娘に声をかけられたことがあった。

兄帝と顔立ちの似ていた宮は勘違いされていると分かり、無視を決め込んだ。

ところが女御はしつこく付きまとって離れようとはしなかった。

宮は先帝の第二皇子だと言明すると相手はようやく気付いたらしく、恥じ入るでもなく奥へと下がっていった。

きっと目が悪かったのであろう。その女御、どうやら帝のお気に入りの女御らしく、えもいわれぬ色香を漂わせていた。

宮、つい悪戯心から兄帝に成りすまし夜陰に紛れ寝所に入ろうと欲したのである。

それは一時の遊び心から生じた隠れた事件、当時としては珍しくもなかったようだが。そして女御の寝所浜梨殿はまなしでんへと通い、兄帝のいない隙を付いて寝所の几帳越しに急拵えで作った和歌を献じた。

それは歌題に“心変わり”の一語を選んだものだった。

「我いつか 心変わりに いたるとも おもと憧れ 忘るまじけれ」(私もいつの間にか心変わりに至るとしてもあなた様への憧れたこの思いは忘れられそうもありません)。

返歌が即返ってきた。

「御上にて お渡りあるを 待ちはべり この身磨くは 君いうままに」(お上のためにいらっしゃること待ち望んでおります。この身を磨くのもお上のみこころのままに)。

更に宮が続ける。

「寒き果てに やがて会いにし 我らさえ 心変わりの 道半ばゆく」(寒い季節の終わりにそのまま出会ってしまった私達でさえ心変わりの道の最中を進み行くのです)。

返歌

「暑ささえ 忘る我が意を 知らぬ君 恨みたまえど 言いたまうまじ」(この暑ささえ忘れてしまう私の心をお知りにならないお上、お恨みなさってもおっしゃってはなりません)。

更なる宮の返歌

「時として 君を見逃す 我なれど 身にて萎むは 心変わりか」(時々あなたを見失ってしまう私ですが心変わりの病は治りつつあることよ)。

几帳の中から刹那白扇が投げ付けられた。

それが何を意味するのか咄嗟には分からずにいた宮だが、室内にて香が立てられ始めた。それを合図に招き入れられるものと判断した宮は兄帝の振りを続け、無言にて几帳を越して中へ入ったのである。

女御、黙って夜具の右側にてこちらに横顔を向け正座していた。

宮はこれらの立居振舞いには慣れていた。ただ黙って女御の左側へと身を寄せ、両肩を軽く引き寄せた。

女御は身を任せ宮のなすがままに夜具へと倒れ込む。宮、女御の余りの香気に目眩めまいを覚えた。

この女御と兄帝が夜々結んでいることに対し宮は女御を抱きながら嫉妬心が沸き上がるのを抑えることが出来なかった。

女御はされるがままであった。宮、自制し優しく女御に接することに心を砕いた。

一時が過ぎようやく事が終わると、女御は寝息を立てて休んでおられた。

宮、この女御との契りを一生胸に秘めるには余りに心遣いが足りなかったことをこの場で悔やんでいた。

出会いから別れにおよぶまでの全てにおいて。

もはや兄帝に替わってこの女御と接することはない。この女御、全てを見通しているものと思われた。

宮は放蕩暮らしを止める決意を固めたのである。

女御を残し宮は内裏を去った。そして月日は廻る。


宮はその頃山荘を離れ、三女の下通う日々を送っていた。

向陽十年、宮二十四歳にてまず三男設く。続いて別の妾二人が同年に女児を、更に四男を産んだ。

この賑わいは兄帝に待望の皇子がご誕生なされ、宮の鬱々とした気分が晴れたせいでもあった。

この慶事に父先帝ことの他お喜びになられ因公宮の弟宮である二歳下の勢公宮は二品の位と式部卿職、更に四歳下の三品予公宮に治部卿職を帝にご推薦なされ人事は発令された。因公宮の妾達はその後も順調に懐妊を重ね翌向陽十一年、三男を産んだ妾が五男を産んだ。

そして翌十二年、宮の次女を産んでいた妾が六男を出産した。

宮の子作りはここでぱたりと止んでしまう。

向陽十三年、帝突如の崩御。正に急な知らせであった。二十八歳の若さであられた。

帝の皇子をお産みになられていた中宮水葵殿みずあおいどのはご出家、寒葵かんあおい皇太后とおなりになられた。

皇女をお産みになられていた二夫人連翹れんぎょうの女御と赤芽柏あかめがしわの女御も内裏を去られた。宮中にて少なからぬ女房達も里へ還った。

祖父真原内大臣岩鏡邸いわかがみていにて養育されていた皇子僅か五歳にて践祚、ご即位なさり清城帝せいじょうていへとおなりになられた。

真原内大臣は右大臣に昇進。

内大臣に昇りし真原氏長者小一条家こいちじょうけより摂政が置かれたのである。

先々帝五十三歳にてご出家、法皇と成られた。

因公宮は宮号の変更を摂政に願い出、認められるや最初吉野宮を称し後、更に変更して寿光宮じゅこうのみやと称した。

各々三品の、寿光宮の五歳下と六歳下の弟宮達は共に出家しそれぞれ賀公入道親王、豆公入道親王と称された。

清城二年、人事の刷新が行われることとなり、寿光宮以下弟宮の勢公宮、予公宮はそれぞれ職を辞した。

帝の叔父にあたる彼らは中央政界より離れることを余儀なくされた。寿光宮は自邸に籠り、先年編んだ自身の歌集の整理に追われていた。

この時期世は末法思想におおわれ、高級貴族達の相次ぐ寺院の造営で人民は駆り出され不満・不安の感情に取り付かれつつあった。

真原北家嫡流(道郷流)の世に風穴を開けん、そう欲した中下級貴族等は立花院の下組織固めを開始した。院の政庁を定め、設置してこれを束ねる長官であるところの別当に帝在位時の近習より任命された。

更に院の五人の宮が参集し皇親として重責を担った。


法皇は摂政に対し清城帝の次の東宮に自らの孫である寿光宮の第一王子長邦王ながとおうを立てるようご要請になられた。摂政、これに反発し間繋ぎの為向陽先帝の九歳になる内親王に立太子礼を強行し先手を打ってきた。

後見に太皇太后采配蘭院を立てて立花院を封じ込めるべく画策したのである。

この女東宮と長邦王は同年齢、この立太子には不満を抱く者少なくなかった。

帝の外祖父真原右大臣は道郷流にあらず通景流みちかげりゅうであった。

摂政主導による先の立太子を批判していたため摂政に疎まれ到頭辞任に追い込まれた。

この真原北家の内紛により大臣闕だいじんけちを招き周囲を困惑させたが特段の国政への影響はなかった。

摂政、太政大臣に特進し格を保ったのである。


長邦王、父宮に似ず愚鈍なところあり。

口下手で詩歌の才の片鱗もなかった。

父宮と離れて長く前真原氏長者の邸で一つ違いの弟王備邦王びぜんおうと三つ違いの加賀女王と共に暮らすこと九年、父宮の存在すら知らず真原氏の一族として育てられてきた。しかし、清城二年に起こった立花院と真原氏との争いに巻き込まれるなか自分が誰の子なのかまだ理解するには及ばなかった。

法皇、長邦王を一見するにあまり可愛いとは思われなかった。

利発なのはむしろ弟王の方であり子供ながらに和歌を吟じてみせたことがある程だった。母親である小賀家の女も弟王を贔屓していたこと長邦王は気に病んでいた。しかし、現実十歳になる頃に立花院の住まう寺院へ引き取られ、帝王学を身に付けられたことは身に余りし事だった。法皇は唯一男孫を残していた寿光宮の残る五王子を集めその養育を仙洞を置いた寺院に任されていた。

上は九歳から下は二歳まで兄弟に揉まれながら成長してゆく。

立花院にとってこれらの王子達の存在は最早欠かせぬものとなられ、優しい眼差しでもって成長を眺められることとなされた。

そんな中、将来長邦王の障りになりかねない弟王の備邦王行方知れずとなる。

皆が皆神隠しだと噂しあった。

法皇、ここに至りては長邦王にすべてを捧げるほかはなし。王の父宮は現在二十八歳でありこの子が三つになる頃に家へ通わなくなった。

ゆえに親子双方初めはよそよそしかったのであるが、院と父宮の仲睦まじき様を見るにつけ同じ家族なのだと理解に及んだのである。法皇は長邦王に向かってこう歌いかけられることが多くあられた。それは一定の音律を伴うある種の唱揺であった。その中身とは、

“天平らかにして仁となり君臨すれども統治せず、和をもって貴しとなす。我らはみんな天子が児”

長邦王その意味するところをよく知るものではなかった。

父宮はそれを立花院がお歌いになられる度に苦笑されたものだったが。

法皇はその唱揺を決して弟王達の前で披露なされることはなかった。

そして清城三年は明けた。正月、春恒例の叙位と人事の季節となった。政を独裁していた真原氏、大幅なる刷新人事を行いし昨年とは打って変わって小幅なものに留まり新体制は安定期を迎えつつあった。空位となっていた右大臣職には内大臣が昇り左大臣は元の如し。

内大臣には更に真原権大納言より昇叙。

宮廷内には波風も立たなかったのである。

元来が中下級貴族の烏合の衆扱いを受けていた院庁方、巧みな誘い口で丸め込み諸家の貴族達の翻意を促すも敵動ぜず。

真原氏側は院庁に対し焦土戦術を試みるべく彼ら中下級貴族等に対し新たに中央官庁や地方官、地下に至るまで一切官職に与ることを阻止していた。

これ程の強い引き締めを受けてどう院庁方は生き延びて来たのか。

ただ立花院の荘園より上納される租税のみが頼りであった。

院五皇子のうち荘園を預かっていたのは寿光宮のみ。弟宮達は皇族拝領の荘園より給分を受けていた。

真原氏打つべき手はすべて打つも院庁、身代を保ってみせた。

所詮敵は中下級貴族、相手にしないことだと悟ったのである。


清城四年、都において流行病はやりやまいにかかる人民少なからず。

帝、幼いゆえにお気を付けなされ、その日の朝儀にはご出席になられず一日内裏にお留まりになられた。

しかし、その日の内から帝ご体調をお崩しになられ官医がお見立ていたしたところ流行病にかかられしことが判明した。

しかもこの病に処方はなかった。

都にて病平癒のための加持祈祷が行われた。しかし、それもむなしく帝のご健康ご回復になられず、到頭ご危篤状態へと相至られた。摂政出家し太政入道となるも思い通ぜず一進一退をお繰り返しになられた。宇佐神宮を勧請した寺社最勝八幡宮にて臨時祭祀を行い一時ご危篤状態からはご平癒なされたもののお目の離せないご状態にあられることにお変わりあられなかった。

帝をよくよくお見立てすると、帝は熱病に侵され眼病をお患われていることが判明、ご失明寸前とのおんこと。

帝、幼きながらご譲位をご決断あそばした。

皇太女土岐内親王践祚し即位、松苑女帝まつぞのにょていとおなりになられた。十三歳であられた。摂政は急進派の小一条家から代わって穏健派の小野家より出たのである。長邦王東宮の地位をつかむ。生母は小賀家の娘。

依然として外戚の立場は確保していたとは言え、東宮との関係は疎遠にして既に立花院の手の内にあった。しかるに、東宮に昇ったことで正式に長邦親王となり宮中暮らしが始まった。

真原氏からは自らの息のかかった女房を宮中七殿五舎へ配置済みであり、東宮のお通りあるを待つのみであった。

立花院からはきつく真原の娘には手を付けぬよう言明されていた。更に東宮は正妃に女帝の義妹六華むつはなをめとるよう助言を受けてもいた。

こうした立花院の尽力のもと六華は東宮が十五歳となりし年に東宮妃へと迎えられた。

そして翌々年松苑五年、東宮妃は女王を産んだのである。

東宮妃六華殿、東宮との仲睦まじく健やかに過ごされていた。

六華の父向陽帝崩じて九年、母親の実父の邸にて六年間共に暮らして来たところ、立花院の招請により東宮妃として昇ったのである。正に青天の霹靂であり母赤芽柏院を大いに喜ばせた。

無事女王が産まれ産後の肥立ちもよく乳母に女王を託した六華は一時の自邸での静養を経て、宮のお渡りあるを待つのみであった。

宮のことを知る上で欠かせぬ歌力はそこそこであり母親より日頃鍛えられていた六華にとって宮に対しさほど魅力を感じるものではなかったが、通われる内につい気を許してしまうのは宮の人柄のせいでもあり再び懐妊してしまうのであった。

このとき宮は和歌を遺しておられた。「先々の 我が子こしらえ 産まれくる 男の子女のおのこめのこも 構うものかな」(将来産まれてくる我が子が男の子であれ女の子であれ私は一向に構わないのです)。

東宮夫妻の仲睦まじき様は宮中に知れ渡り真原氏は蚊帳の外に留め置かれた格好となった。

そして松苑七年春を過ぎ、六華は第二子を産むべく自邸にて緩りと過ごされていた。

待ち望まれた王子誕生なれどまたしても女王であった。この時真原氏密かに呪詛をかけし噂広まり女帝のお怒りを買った。

責任をとる形で小野家摂政職を辞した。

女帝、真原氏より摂政をお置きになられず。朝政は滞った。

真原氏は経緯を見守ったが女帝、叔父筋の東宮父宮である寿光宮にご相談なされると寿光宮は次の弟宮である勢公宮を皇親摂政として置くよう献言した。

女帝、これをご承諾なされた。

真原氏うなずかざるを得ず。

寿光宮自ら身を引いたことで真原氏よりの摂政職断絶は実現されたのである。


真原北家の没落は漸進的に進んだ。摂政職常置の任は解かれるも依然として高位高官を占めていたゆえ一族の衰えは目立たなかったのである。

院庁再興叶い、毎年の人事に当たり大幅なる人事移動の発令を画策していた。これら中下級貴族の選任に当たり院庁方は自派の貴族達の長らくの功を称え次々と官職に任じていった。

外堀を埋められる形となった真原氏等は一部の高級官僚を除き、地方へと左遷されて行くのである。

法皇は摂政宮と諮り寿光宮に再び中務卿を、予公宮に式部卿を任命する旨女帝より宣旨をお下しなされた。東宮、立花院の血筋を強く受け継ぎ六華とのみ長年にわたり契りを結んでこられた。産まれたのは女王十女にて遂に王子には恵まれなかった。

なかったというのは六華が懐妊の兆しなしに月の物が止まり女としての役目を終えられてしまったからである。

しかし、宮にはそのような事情はお分かりではない。夫婦生活も以前程ではないにしろ相変わらず続いていた。

困った六華、いつか言わねばと思いながらもなかなか切り出せず悶々と日々を過ごすことが多くなられた。普段とは違うその様子に無頓着な宮もさすがに気付かれて何事かとようやく声をかけられたのである。事行う前に六華は宮に和歌を送られた。

「男のおのことて としごろ契り 交わす今に(まに) 遂に果たせじ 産まるものかな」(男の子と思って長い歳月契りを交わしたけれども最後の最後まで産むことを成し遂げたでしょうか、いえ成し遂げてはいません)。

この和歌を送られても宮はそのことにはあえて触れずに共に休まれた。まるでそれが最後の契りを結ぶ夜であるように。

事実六華、それ以来宮のお渡りを拒んだ。二年にも及び宮はすっかり意気消沈していた。六華には何ら悪気はない。それどころかどうか妾腹しょうふくにて王子を産ませれば良いのにとさえ思っていた。

この事母赤芽柏院の知るところとなり六華は東宮妃失格だとなじられた。

子が産めぬなら産むに相応しき女房を側女にせよとはっきり申せと言うのである。六華、心中では許せどもはっきり態度を示すことはためらっていた。

宮に未だ思いを致していることを自覚した六華は宮に女房を付かせるべく自らの最も信頼のおける女房に宮の世話を託したのである。宮、ここに至っては諦めざるを得なかった。この女房顔立ちは普通なれど体付きはふくよかであった。

宮はこの女房と幾夜を共に過ごし女房は間もなく懐妊、東宮に昇りて二十六年、ようやくの王子誕生となった。女房は沢蘭さわあららぎの局と称された。

その間、物心両面にて宮を支え続けた法皇は崩御なさっていた。故院の諸皇子、皆一品の位に付き長年女帝を輔弼したのである。

それにしてもこの院の崩御により真原北家との暗闘にけりをつけることが叶わずにいた。

彼等は宮中の儀式・行事を主な家職とし、それを盾に官庁人事にあらがっていたところの訃報。

この時とばかり彼等は仕事を放棄してきたのである。急ごしらえの公卿に何が出来るのかお手並み拝見というように。

正に国政史上未曾有の危機、ここ四百年間も枢要職を任されてきた彼等である。能力において人後に落ちないとの思い込みは激しかった。しかし、女帝ここで大胆にも思い切ったご決断をお下しになられた。

松苑二十六年春、譲位をご決行なされ東宮践祚、即位礼後は太白帝たいはくていとおなりになられた。この時節より他はなかったのである。


太白元年、帝の弟王豊邦王ぶぜんおう摂邦王せっつおう江邦王おおみおう讃邦王さぬきおうそれぞれ立花賜姓を受け立花豊邦、立花摂邦、立花江邦、立花讃邦と名乗った。

この者らは故院の元有職故実を身に付けさせられていたゆえ、真原北家退場後の即戦力として

長弟 豊邦とよさき 正二位 右大臣 左近衛大将に推任 三十三歳   次弟 摂邦ともさき 従二位 内大臣 東宮大夫 右近衛大将に推任 三十三歳

三弟 江邦もりさき 正三位 大納言 兵部卿に推任 三十二歳

末弟 讃邦はるさき 従三位 中納言 検非違使別当 右衛門督に推任 三十一歳

へと宛がわれた。以上の人事を主だって帝に推任し認められた摂政宮職を辞し、自らの女王冬青そよごを帝に嫁した。中務卿宮と式部卿宮は留任。

六華殿、皇后へおなりになられこの春産まれた皇子を猶子となされた。

真原北家の目論見とは何だったのか。

政務の委任権そのものである摂政職の回復を念願とし新政権に揺さぶりをかけるも、その中枢を占める立花四兄弟の結束固く国政は機能し始めるのである。

大和、山城、摂津、河内、和泉の五畿を支配下においた新政権、真原北家ことごとく排除すべく早速検非違使に命じ五畿内にて留まれしこれらの者を捕縛、そのまま放逐した。真原北家、地盤である近江、伊勢、志摩、伊賀、若狭、越前にて捲土重来を期し退かざるを得なかった。

播磨、丹波、但馬、丹後、淡路に国守を置く播磨源家は親真原北家派であった。この他紀伊に国守を置く真原一族宝峰家たからみねけより立花豊邦は正室遠子とおこを得ていた。院御遺領の四国は賊徒が攻めかかり田租をわたくししていた。この事を知った太白帝、本来自らに帰するこれら院御遺領の一件無視に及ばず追討の綸旨りんじをお下しなされた。

四国へ直接連絡海路を確保していたのは淡路。明石の瀬戸と大鳴門を隔てて阿波へと至る淡路国の領主である淡路介はこの綸旨を無視、四国の国情も知らせぬ有り様。帝、これにお怒り遊ばし淡路守を召し出され淡路介を討てとの勅命をお下しなさるも源淡路守は都より去り任国へと逃げたのである。お怒りごもっともと立花四兄弟も得心いたし、淡路守の主家筋である播磨源家と話しの出来る交渉役が求められたがとりあえず立花中納言が播磨守の屋敷岩躑躅邸いわつつじていへと向かうこととなった。

これを饗応した播磨守、酒食を勧めるばかりで中々本題に入れないでいた。

一夜を無駄に過ごした中納言、敵の思う壺にはまり三日間ほど留まるも何ら成果も得られず。

帝には誠に申し訳なきことにて恥じ入るよりない末弟、しかし兄達が向かっても結果は変わらなかったであろうと思われた。帝は前摂政宮の娘冬青殿をお気に召され、毎夜通われておられるようだった。

しかるに朝政の及ぶ範囲は五畿のみにて帝にはその危機感はお有りになられなかった。

右大臣、岳父を頼り紀伊国へ自ら交渉のため向かうのだった。紀伊水道より阿波を目指すのは余りにも危険が伴う。紀淡の瀬戸を利用されるがよろしかろうという話であった。

右大臣と岳父旧姓真原改め宝峰家当主紀伊守は雄之水門おのみなとに向かい淡路島を遠く睨んだ。

いずれこの港より討伐軍を送り出すことになる手筈を紀伊守と取り決めるのだった。


太白二年、帝冬青殿との間に一男設けらる。河国かわち親王である。一時帝の気を逸らせることが出来たがすぐさま父宮へと愚痴をこぼされる有り様にて右大臣、意を決し帝より紀伊守を討伐将軍にご任命なされ淡路へと兵を繰り出させたのである。淡路へ乗り込んだのは夜中過ぎ、敵の警戒より味方の注意を逸らすためだった。無事上陸を果たす。土地勘のある者を雇い入れていたので国府の位置はおよそ掴めていた。一気に攻めかかる討伐軍、敵は無警戒であったゆえ労せず国府を攻め取った。淡路守ならびに介は逃亡。どこぞへと去る有り様にて、これをもって四国は本州と分断された。

紀伊守まず四国へ使者を遣わし敵方の反応を窺った。相手は賊徒より担がれた朽木弾正くつきだんじょうなる者を首領に据えていた。この者は使者を追い返し四国切り取りたくば自力でもってせよと回答してきた。元来院御遺領の荘園を貪った悪党である。淡路より阿波を臨むに大鳴門を越えてゆかねばならない。海の難所であった。大軍をそれぞれ小舟に分け、軍馬を乗せた大船を操り、これも夜間にて阿波にたどり着くも敵警戒怠らず。すぐさま矢が飛んできた。一気に臨戦態勢へとなる敵味方。これらの矢が飛来する方角を見定めるに砦のあるを見いだした。阿波一国の国取りのためにはこれらの砦いちいちを切り取らねばならないことが予想された。正に難儀なことであった。阿波領内にて二十三ヵ所もの砦を築いていた朽木某、賊徒を配置し手強かったものの討伐軍はそれらの砦一つ一つを落としていくよりなかった。紀伊守大軍に物言わせまんまと敵を寝返らせることに成功。元々賊徒の衆、有利な方に付くのは道理である。この敵方の裏切りもあり阿波攻めは三ヶ月で終結した。国府の回復と砦の破却を済ますと一万に膨らんだこの大軍は紀伊守の統率に及ばず勝手の仕放題だった。

阿波に配されていた朽木兵庫なるを捕らえて拷問にかけるも敵軍大将の情報は掴めなかった。

味方の軍は紀伊守の下八千に減りはしたものの優々閑々前進する内再び兵が集まり始めた。

讃岐攻めにて敵軍やはり砦を全土に築いていた。ここにてもいちいちを陥落させるよりなく人海戦術を試みる討伐軍。相次ぐ敵方の裏切りありて讃岐攻めは完了したかに思えた。

しかし敵将は罠を仕掛けてきた。阿波領内の奥の陣に敵方息を潜め虎視眈々と討伐軍の油断するのを待っていたのだ。

これを率いる朽木武蔵、背後より討伐軍へ攻めかかった。

味方は総崩れとなり紀伊守は命からがら逃れ阿波国へ落ち延びたのだった。残った兵二百騎程と壊滅的打撃を受けたのである。紀伊守一騎にて淡路を経て任国へ帰国。

右大臣、このことを聞きつけ慚愧ざんきに堪えない風の紀伊守をかばった。淡路国は帝より新任国守を臨時の人事にて発令、当地へ留まった僅かな者共は在庁官人として配置され改めて在地領主が向かうこととなった。

源家の勢力圏は事実上こうして侵略されたのである。新国守には宝峰家より分家した宝石川家を任命し四国攻めに尽力してもらうべく期待は大きかったのである。四国の切り取り宝石川淡路守に一任されることとなる。淡路守、伯父である紀伊守へと指南を請うた。

紀伊守阿波攻めの武勇を聞かせるも、讃岐にて最後の砦を囲ったところの油断を戒めるべく言い含めた。

隠し砦の位置のおおよそを示し讃岐に配置された敵将朽木武蔵なるを討てと甥に託したのである。

太白三年、帝の第三皇子誕生、雍国やましろ親王である。生母冬青殿。

早速淡路守、任地へ向かい大鳴門を経て一路軍勢を率い阿波国へ夜間に出立した。

敵の警戒行き届き篝火かがりびが遠くからも確認出来た。夜襲を仕掛けるのも難儀、軍勢淡路へ一端引き下がった。

淡路守、天候の悪くなる日をひたすら待った。上陸が可能ならば天候の荒れた日に限るとの確信があったからである。

一週間過ぎ二週間過ぎた星も月も見えぬ真っ暗な夜の明け方外は大雨が降っていた。いよいよ四国攻めの好機到来である。

ずぶ濡れになりながら阿波国へと至った淡路守の軍勢、国府付近まで接近し敵の様子を窺うに敵方一千程が国府内にて身を寄せあっていることが分かった。

ならばと国府周囲を取り囲み一斉に大声を張り上げた。四面楚歌となりし敵方、狼狽し国府から飛び出るところを淡路守の軍勢が各個撃破。その繰り返しにて敵方遂に降参し捕虜となった。この者らのなかから一部を味方に引き入れ総勢七千程の兵にて懸案の讃岐攻めに取りかかるのである。

確かに讃岐国内に設えられた各砦は驚く程容易に落ちた。これが敵の戦略と知らずに攻めこんだ伯父を馬鹿にすることは出来ない淡路守。

最後と思われる砦を前に配下の者らを周辺に配置し周囲の警戒怠りなきよう命じた。

どこかに潜んでいる隠れた敵方とのにらみ合いは続き次第に消耗戦へと至る。

その内敵陣のおおよその位置を掴んだお味方勢、一か八かの夜討ちを仕掛けることが軍議にて決められた。敵からは駐屯しているように思わせるため篝火は絶やさず、軍勢のみ移動させ敵陣を目指した。闇夜にありて合図を決め敵味方双方半ば混乱を来しつつも討伐軍、阿波領内に置かれた隠し砦を落とし朽木一族の奸臣朽木武蔵を討ち取ることを果たした。

院御遺領とは阿波・讃岐・伊予三ヶ国にて土佐は含まれず。されど賊徒の首領たる朽木弾正を捕らえねば今次の派兵の意味を成さない。しかし、帝からは四国のうち阿波・讃岐・伊予を回復せよとの勅命。

その三ヶ国こそ院御遺領だからである。伊予において再び砦が待ち構えていた。敵の最後の防衛線らしく抵抗も一際激しかった。

最初の砦を落とすのに難儀をした後、その先の砦の攻防厳しいいくさとなった。

一つ一つの砦の攻戦にて度々目にする大将らしき姿、恐らく朽木弾正その人かと思われた。

砦一つ落ちる度ごとに馬上にて去りし敵将、その首級さえ捕ればこの戦は終わる。何とかこの者を捕らえようと試みるも脚の速い馬にて取り逃がすこと数度。

致し方なく砦攻めに専心しなければならなかった。

この戦天候に影響されつつも兵馬を休めることなく突き進んだ。緊張の弛緩こそ避けねばならない事態だったのである。それこそ敵に塩を送るに等しいことであった。

数日降りしきる雨の中討伐軍兵を進め一つ一つ砦を攻め落とした。

しかし、それも余りにきりのなきものにて味方軍にも攻め疲れの様相を呈し始めていた。

人馬いよいよもって休めなければならず、これを機会に朽木弾正に対し講和の意向を示すべく書状をしたため使者を遣わすこととした。しかし、弾正これを受け入れず。まだ数多くの砦が背後に存在していたからだろうと察せられた。

この僅かな交渉の間だけでも兵馬を休めること叶い味方軍に再び喝がかかった。そして再び砦攻めが開始された。討伐軍、勢い付き残る砦をことごとく攻め滅ぼしていく。

弾正の逃げ足さすがに衰え伊予国に残りし砦の数も後僅かなものとなった。

弾正、先の講和状の三つの条件である、これまで捕らえた賊徒等の捕縛の解放まず一件。次、弾正自身の仕置き賊徒に担ぎ出された旨証を立てれば特段のとがには及ばぬこと二件。更に朽木兵庫の申し出たとおり一族の土佐国における所領の回復の願い出、これを受諾するよう土佐国行政官に申し立てることを約定すること三件。以上の申し出を確約することを条件に降伏を承諾した。

弾正、捕縛され都にて改めて審議に及んだ。結果この者鬼界ヶ島へ流された。

帝、大いに溜飲を下げられた。院御遺領の回復と共に在地領主が新たに置かれたのである。


太白四年、春 冬青殿皇子死産。産褥悪く間もなく薨去。享年十七歳。

帝、喪に服し朝政をお控えになられた。

今年度をもって本来ならば弟達の官位は昇叙されてしかるべきところを冬青殿の喪中ということもあり、繰延になった。ついでに都や地方官人事も繰延されたのである。

五畿・四国合わせて帝のもと統治されし国は八ヶ国、豊邦岳父宝峰家の治める紀伊・淡路を合わせても十ヶ国にしか及ばず。

一方、朝廷に対し不満を示す真原北家側の治める領地は六ヶ国。この真原北家寄りの播磨源家の領地四ヶ国を足して十ヶ国となる。およそ近畿にて両者の勢力は均衡を保ってはいなかった。

女帝在位時即ち立花院政期は勅命に非ずとこれらの人事にあらがってきた彼等だったが、太白帝の御代となりて人事は一時凍結、公卿人事のみ改められたという経緯があった。

朝廷の儀式・行事に通じていた立花兄弟は見事帝、ひいては父宮の期待に応えてみせた。

冬青殿亡くなりし服喪が明けいよいよ真原北家・播磨源家の一掃人事は発令された。真原北家の領地は関東へと差し替えられ新たに武蔵・上総・下総・相模・安房・伊豆への任地替えが、播磨源家には三河・遠江・駿河・信濃への任地替えが決められた。

ようやくにて近畿における左遷人事が実現したのである。そして、四人の弟達の五年に渡る功をもって昇叙が決められた。

長弟 立花豊邦 従一位行左大臣 左近衛大将元の如し

次弟 同摂邦 正二位 右大臣 東宮大夫 右近衛大将元の如し

三弟 同江邦 従二位 内大臣 兵部卿辞任

末弟 同讃邦 正三位 大納言 検非違使別当・右衛門督辞任

更に第一皇子和国やまと親王立太子礼を行い東宮傅に式部卿宮を宛がう人事が発令された。

三公が五年振りに揃い大納言以下中納言、参議の欠員も埋まり満座集う中での公卿会議が行われた。

議題は先帝の頃より懸案の立花院御慰霊の寺院建立について帝へ御意向伺い奉る時日を取り決めるというものだった。帝、この頃内裏にてお籠りになられること多く冬青を亡くされた後はめっきり口数も少なくなられ公事にも余り関心をお示しになられなくなった。

公卿等はゆえに立花院の御慰霊が是非とも必要だと感じているようだった。

左大臣、帝に謁見を申し入れるも帝にその意志はあられなかった。どうやら侍従にもお顔を見せてはおられないらしい。では女人にてはと思い内侍司を召し出しても冬青亡くなりし後、誰一人とてご寝所を共にした女性はないとのこと。

左大臣、正にお手上げ状態だった。

ここに至りては中務卿宮の出番とあって父宮、帝に詰問された。

「譲位の意志でもあるのか」との問いに「その意あらず」とお答えになられた。帝はやはり立花院御慰霊の寺院建立にご関心はおありのご様子であられた。

「では左大臣と謁見せよ」と父宮が言うも、父宮から左大臣に申し付けるよう逆に懇願された。

何故左大臣と顔を合わせぬと不審がる父宮に帝は真原北家の仕置きに対し後悔の思いを述べられ始めた。

ご実母のご実家小賀家を巻き込む形の左遷人事はやり過ぎだったとお嘆き遊ばしたのである。

父宮、得心するも今となってはもう遅いのだと判らせようとするも帝はお耳をお貸しにはなられなかった。確かに本来ならば中務卿宮の正室であり帝のご生母、ゆえに皇太后宮へと迎え入れられてもおかしくはない立場。中務卿宮にとり当に忘れてしまった女性ではあったが冬青のことはそれとして小賀家のことには確かに配慮至らなかったこと左大臣に請け合うことを約定した父宮だった。

中務卿宮早速に左大臣と面談を求めるために左大臣宅であるところの飯桐邸いいぎりていを訪ねた。そして帝の真意を伝えたのである。

左大臣は驚いた様子だった。良かれと思った今般の人事がまさか宸襟しんきんを悩ませていたとは知る由もなかったのである。

しかし一端太政官より発令された人事は元には戻せない。

小賀家の女しかし聞くところによると既に死去しているとの噂も流れていた。

安否確認もとれないほどの正にばたばたの南関東下向だったのである。旧摂政家が名字の頭文字に何ゆえ「小」を冠したか、それは祖先道郷を大真原と呼称したのに対しその後に続いた摂政家を小真原と卑下したことに端を発する。道郷流、長らえて百有余年。しかしながらその権勢欲衰えずと言えど、家職たる摂政の地位は正式に松苑院の御代にて勅令により剥奪されていた。

この事太白帝がお考え直しておられるならば立花院の御意志を挫くことになる。この事をおそらくお悩みになられていたものと察せられた。

父である中務卿宮、立花四兄弟と善く善く話し合い今後の政策方針が帝のご意向に添えぬ可能性のある時、中務卿宮は帝と太政官との仲立ちを請け負うことを左大臣に約定した。

帝、ご当初その事に大変驚かれた。父宮が「故院の志を何とする」とたしなめると帝ご反発なされた。しかし中務卿宮は冷静であった。「汝の子が幼きに真原の者らが政務を執ること想像いたせ」この訓戒は帝の心に響いたようであられた。

そして今一度この愚息に帝室と真原北家との連綿と繋がる家系図を示し両家の深すぎる縁を諭した。

真原氏祖雄継おつぐの三家、北家・南家なんけ衛士家えじけの概略をも示した。帝の長弟の正妃遠子の父は南家大殿流おおとのりゅう宝峰家の出であること、衛士家は代々衛門府・兵衛府四衛府にて高級将校を輩出する家柄であること。何故真原北家嫡流を遠ざけなければならないかを懇々と言って聞かせたのである。

帝の生母の出自小賀家は真原北家道郷流の小一条家より分家して出来た家であり、同じ道郷流でも途中で枝分かれした小野家とは異なり本家の小一条家と軌を一にする傾向もままありはした。小一条家が剛なら小野家は柔、その間で振舞い下手なる小賀家。

真原氏長者としてこの三家を含め摂政職常置に至りてここ二百年程の長きにわたり摂政職に与ってきた。北家さらに公卿堂上をもほぼ独占、権門として威勢を張ってきたのである。政を私し、末法思想と共に彼ら高級貴族達はせっせと造寺に励んだ。

彼らの経済力の元は在地領主への徴税による税収だった。さらに売位売官の横行により国家財政の破綻は裏付けられることとなるのである。

この真原北家嫡流への委任統治の証こそ摂政職常置に他ならなかった。ゆえに立花院以下、帝の父宮の兄弟、さらには帝の弟達の尽力の下遂に真原北家は都より放逐されたのである。

この事いちいち帝にご納得していただく必要はなかった。臣下さえしっかり手綱を握っていればよかったからである。


太白五年、太政官は帝に対し立花院御慰霊の新寺院建立について伺いを立ててきた。

帝、これをご応諾なされ勅にて改めてご内意を太政官にお下しになられた。

ご本尊いかにとの左大臣の問いに帝、薬師瑠璃光如来ではとのお答え。

左大臣即座に公卿会議に諮ることとし帝はご承知なされた。その会議にて土地の選定がなされ、地鎮の儀式次第、起工式、落慶の時日が予め定められた通りに工事は執り行われる運びとなった。

本尊薬師如来座像を金銅仏として仏師に発注、眷属けんぞくの十二神将については一木造りにてこれも同じ仏像制作集団に発注したのである。

本尊・眷属の制作が済めばそれを納める金堂造りが起工される運びとなっていた。

真原北家の遺した各寺院程華奢なものではなかったこれらのこしらえではあるが帝がご実見なされるに立花院に相応しき慎み深い情趣があると大層お気に入られた。

合わせて七堂伽藍を整え、極々短時日にてほぼ予定通り落慶法要の日を迎えた。帝、太政官と示し合わせた通り寺の正称に天寿山橘華寺てんじゅさんきっかじとお名付けになられた。宗派は特段ない。広く民衆の信仰を受ける為だった。この寺院内の塔頭瑞花院にてこの年四十一歳になる、寿光宮の長女加賀女かがめが出家して尼僧となっていた。加賀女、今まで何不自由なくこの年まで暮らしてきた。この女王婚姻を二度経験したが、二度とも夫に先立たれてしまった。

一度目は互いに好きあった相手であり、家格は相手が遥かに劣ったが幸せな日々を送っていた。先夫は決して他女と交わる真似はせず心より信頼のおける相手だったのである。ところが、先夫流行病に罹り呆気なく亡くなってしまった。

この時の悲嘆はかつて経験したことなく、自分も後を追おうとまで思い詰める程だった。二人の間には一女を授かっていた。この児のためにも死ぬわけにはいかなかったのである。

加賀女と娘は自らの実家にとどまっていた。

悲しみの癒えぬ間に再婚話が持ち掛けられた。加賀女これを拒否するも相手は同族真原家の出であり、加賀女の母方の祖母が太鼓判を押す程の男性ではあったが所詮自分はこぶ付き。それを知りながら相手は積極的に求婚してくる。かようなるものが女王としての付加価値の一端だったのである。

成程、地方官を極官とする南家の男性ではあったが真原家の者らしく誇りに充ちていた。

先夫との差に戸惑いを隠せない加賀女。しかし、幾度か和歌のやり取りをする内に相手のことが気に入ってしまったのである。「彼方から 声聞こゆるは 二人して 奏づる姿 見つかるるゆえ」(あちらから声が聞こえてくるのは我々二人の音楽を奏でる姿を見つけられたからです)。

「此方より ほかに聞こえし 上手なる 打ちし鼓の 音も立つなり」(こちら俗世間の外より評判の名人の打ち鳴らした鼓の音も高く響いているようです)。

この歌力に惹かれた加賀女、真原の男が三日通うを確かめ後朝の文の使いを送られて婚姻は成立。再び一女を設けた。

しかし、相手はその内加賀女の下へは通わなくなり先年到頭先立ってしまった。運命の暗転に加賀女だんだんと世を儚み出家を本気で考え始めていた。

洛外にて橘華寺の創建されるを聞き及び、身を寄せようと思い立ったものを、その年政変が起き真原北家は南関東へ下向することが決まった。

さらには母親が倒れ病の床に就いたのである。

加賀女、母の臨終に付き添いその死を看取った。

そのこと小賀家当主、加賀女の従姉妹与り知らず。

ようやく橘華寺塔頭にてついの住処を手に入れたのである。そこにて季節の移ろいを感じながら加賀女は何を思っていたのだろう。

浮き世を離れ日々の些事を日記に記していく。

もう随分前から始めた習慣であったが母の看取りの忙しさで見失ってしまったこれらも少なくなかった。

―――了

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