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難儀な愛

愛を知らない娘

作者: 青夏
掲載日:2026/08/16

お母様の過去を考えてたら思いついたので勢いで書いてしまった話です。「愛される娘」とシリーズ化してます!なんか皆んなちょっとずつ悪くて人間らしい!


8月19日、20日付ランキングで一桁順位いただきました!(下記は確認出来た最高位を記載してます)

読んでくださった皆様のおかげです!ありがとうございます!!

7 位[日間]総合 - すべて[日間]総合 - 短編

4 位[日間]異世界〔恋愛〕 - すべて[日間]異世界〔恋愛〕 - 短編


 

 姉は、愛情深いだけなのだと、困った様に笑って母は言った。



 姉の婚約が決まったのは、彼女が十七歳の春だった。嫡男である兄の婚儀を無事に終えて、我が家に余裕が出来たからだ。

 姉が誕生した前後の年は、流行病で乳幼児の出生率が著しく悪かったのだという。

 それは貴族とて例外ではなく、お陰で同年代の貴族子息も子女も少なかった。

 

 だから姉の婚約が一般的にはだいぶ遅くても、両親とも決して軽んじていたわけではない。


 姉の婚約者は、姉より一つ歳上の伯爵家の嫡男だった。

 その年頃の嫡子など婚約の申し込みは引く手数多だろうに、彼自身幼い頃に患った病の後遺症で長年療養を余儀なくされ、婚約者を決めることなく成人を迎えたのだそうだ。



「とても美しい方だったわ!」


 両家の顔合わせが済んだ後、頬を紅く染めた姉は、はしゃいだ声でそう言っていた。


「おめでとうございますお姉様。素敵な方でよろしかったですね」

「ありがとうへレーネ。次は貴女の番ね」

「わたくしは、まだ……」


興奮気味の姉に両手を握られたへレーネは、困惑気味に眉を寄せた。

 へレーネはまだ十四歳である。婚約など考えたこともなかった。

 しかしへレーネの誕生した年には流行病も去り、それまでの反動からか出生率は順調に回復した。兄や姉の婚約の流れを見ていた分余裕があるつもりでいたが、自分で思うよりも近い未来の話なのかもしれない。


 一気に憂鬱な気分が押し寄せてきて、へレーネは姉が立ち去った後、こっそりと一人ため息を吐いた。







 姉が婚約を結んでから一年後、兄に息子が生まれた。侯爵家の嫡子である。誰よりも父が喜んで、毎日の様に兄夫婦の邸を訪問しようとするので、母にきつく止められていた。

 こっそりと執事に命じて、通常の業務を倍にされるくらいには。


「孫が可愛いのはわたくしもです。やりすぎは嫌われますよ」

「……うっ」

「今はゾフィーの婚儀に力を入れましょう」

「……ああ、いや……」


 姉の婚儀の話が出ると、途端に父の顔が険しくなる。

 理由なら分かり切っていた。


 姉の婚約者ハインリヒ・アイゼンバーグ伯爵令息の体調が、最近優れないのだ。


 初めは、婚約してから三ヶ月後のことだった。

 観劇に行くために邸に姉を迎えに来ていた令息は、応接室で姉とお茶を嗜んでいる途中にみるみる顔色が悪くなっていったらしい。

 姉がせっかく楽しみにしていたのだからと、その日は無理をして観劇に出かけたのだが、それから寝込んでしまった。


「まだ後遺症があるのか!?」


 体調を崩したので暫く静養するという姉への手紙に、一番動揺したのは父だった。

 我が家はどうも特別身体が丈夫な家系らしく、流行病でも近しい親族を含め誰一人犠牲者が出なかった。そのため父は、病弱ということに非常に抵抗感が強かった。

 病弱、つまり後継を残せるのかどうかということに。

 姉の婚姻は嫁入りであるし、もし後継を成せなかったとしても、夫有責と見られて責められることはないだろう。親戚から養子を貰えば済む話だ。何をそんなに気にするのかと、母も、運悪くその場に居合わせてしまったへレーネも怪訝な顔で父を見た。


「……この婚約は重大な政略結婚だ。国王陛下も御心を砕いてくださっている」

「まぁ!」


 父の沈痛な声音に、まるで初めて聞いたかのように母が目を丸くした。


「婚約を結んだ時とは状況が変わったのだ」


 気まずそうに母から視線を逸らして、吐き捨てるように言った父の言葉は、確かに嘘ではなかった。


 当初は家格と年齢の釣り合いで結ばれただけの婚約だった。

 しかしここ最近、急激に隣国との緊張感が増していた。

 豊富な農場を保有し王国の四分の一ほどの食料生産を担う侯爵家と、海運事業で富を成した伯爵家との繋がりは、戦時に向けて重大な意味を持つ。

 いつの間にか、絶対に破談に出来ない縁組と化していたのだ。


「ゾフィーとハインリヒ殿に子が生まれれば、男女問わず辺境伯家との縁組が王命で結ばれる」

「!」

「……」


 なるほど。それだと養子で済ますわけにはいかない。父が動揺するわけだ。

 すでに辺境伯家では、有事を見越して数人の子を成している。外堀は完全に埋められていた。


「アイゼンバーグ伯爵令息様のお身体が、早くよくなるとよろしいですわね……」

 

 これ以上の長居は無用だと、へレーネは当たり障りのない言葉を口にしてその場から立ち去った。








 婚約から半年後、姉が母と外出している際にアイゼンバーグ伯爵が邸を訪れた。

 応接室で何やら父と二人深刻な表情で話し込み、伯爵が帰宅した後も額に手をあてて何やらずっと考え込んでいた。




「ただいまへレーネ」


 玄関ホールで満面の笑みの姉に声をかけられたへレーネは、すぐに笑みを浮かべる。


「お帰りなさいお姉様。素敵なドレスになりそうかしら?」

「ええ!楽しみだわ」

「ゾフィーはこだわりが強いから時間がかかって大変よ」

「まあっ!お母様ったら」

「ふふふ」


 今日姉は、母と一緒に婚礼衣装の打ち合わせに行っていた。本来なら邸で行うのだが、豊富なドレスがある店舗で行ないたいという、姉たっての希望で。


「ハインリヒ様は気に入ってくださるかしら」


 ぽっと頬を染めて夢見心地で呟く姉は、まさに恋する乙女そのもので。

 へレーネには恋というものが全くわからなかったけれど、きっと幸せということなのだろうと納得していた。


 それに何より、悪い人ではないけれど、感情の起伏が激しく少々厄介な姉の機嫌が婚約以降ずっと良いのだ。

 こんなに喜ばしい事はなかった。

 感情に波風を立てず、ただ穏やかに、静かな環境で暮らせることこそが、へレーネの何よりの願いだったのだから。







「なぜっ!?なぜなのですっ!!お父様っ!どうしてっ!!」


 婚約から一年後。

 半年後に婚儀を控えていた姉の婚約は、白紙に戻された。


 勿論姉の荒れ様は凄まじかった。

 普段スプーンより重いものなど持ったことがないだろうに、父から婚約の解消を告げられた応接室では花瓶が倒れ、割れた破片や踏み躙られた花が床に散らばっている。


 どうせこうなることを見越した上で、執務室ではなく応接室にしたのだろうから、父は相変わらず強かだった。


「ゾフィー!可哀想に……!でも仕方がないのよ、ハインリヒ様はお身体が……」

「そんなっ……!」


 芝居がかった様子で、母が大袈裟なまでに涙ながらに姉を抱きしめる。でも多分目尻は乾いている。


 その隙にへレーネは侍女を呼んで床の惨状を処理する様に伝えた。


 抱き合う母と姉越しに、物言いたげな父と目があったが、すぐにわざと逸らしてやる。

 さすがにこの事態は父が収めるべきだからだ。 

 へレーネの態度に無言の圧を感じたのか、コホンとわざとらしく一つ咳払いをして、父は徐に口を開いた。


「ハインリヒ殿は体調の回復が見込めない。これは仕方のないことだ」

「……お父様っ!」


 父の言葉に姉は真っ青な顔色を更に悪くした。


「だが、そう嘆くな。お前には別の縁談がある」

「……は」


 呆けた様にポカンと口を開けたまま、姉は父を見ていた。


「喜べ!エヴァンズ侯爵家の嫡男だ。お前と同じ歳で先月留学から帰ってきたばかりだ」


 エヴァンズ侯爵家は裕福で軍閥にも力を持つ。それに広大な領地で、我が家よりも多くの食糧生産を担っていた。その嫡子との縁談なのだ。


 確かに父の言うとおり良縁だった。


「で、ですがっ、わたくしはハインリヒ様とっ!」


 我に返った姉が、混乱する中父に抵抗を口にした。


「しかし、ハインリヒ殿からもお前の幸せを願うと」

「!!」

「ねぇ、ゾフィー……わたくしは伯爵家よりも侯爵家とのご縁に賛成よ。爵位で貴女に苦労をして欲しくないもの」

「お母様っ!?」


 畳みかけるような、母の娘を思うが故といった発言に、へレーネは内心舌を巻く。

 姉がどう抵抗したところで、婚約の解消も新たな婚約も父が了承している以上覆らない。それなら爵位の上下から納得させようと試みる母は、流石侯爵夫人として長年辣腕をふるってきただけのことはある。


「いやっ……いやですっ……いや……」


 きっと姉の泣き声が止む頃には、事態は収束しているだろう。

 へレーネは事の成り行きを報告するように密かに頼まれていた兄へ手紙を書こうと、そっと気配を消して部屋を退室した。

 背中に向けられた父の視線は、勿論気づかなかった事にして。








 一年後、何とか姉とエヴァンズ侯爵令息との婚儀を上げた後、父に執務室へと呼び出された。


「お前の婚約が決まった」


 父の言葉に、逃げられなかったと悟った。


「お相手は、アイゼンバーグ伯爵令息様ですか?」


 特に動揺する様子も見せずにそう訊けば、父は愉快そうに片眉を上げた。


「そうだ。両家の婚姻は王命だからな」


 この一年の状況から、今回は初めから王命とされたらしい。

 へレーネは別に構わなかったが、あの令息はそれで良いのだろうか。二度、同じ家との婚約解消など流石に許されないというのに。


「ご体調はよろしいのですか?」


 拒んだりはしない。侯爵令嬢としての責務は果たす。ただ、父に嫌味を言うくらいは許されるだろう。


「直接会って確かめれば良い」

「……」


じっとりと睨めつけると、父はばつが悪そうに視線を逸らしたのだった。





「ご無沙汰しております。ハインリヒ・アイゼンバーグです」


 およそ一年振りに邸を訪れた伯爵令息は、見違えるように健康的で美しかった。

 艶やかな黄金の髪も、深い海の様な瞳も、以前は痩せ細っていた身体も、今ではしっかりと筋肉が付き、まるで彫刻の様な容姿をしていた。


 せっかくだからと、何がせっかくなのかはわからないが、中庭のテラスに腰掛け、二人は向かい合っていた。


 沈黙が重い。


 そもそもへレーネはハインリヒと二人きりで話したことはおろか、姉と一緒ですらほとんど顔を合わせたことがなかった。


 話すことなどないのだ。


「あの……」


とはいえ既に二人は婚約者である。無言というわけにはいくまい。意を決してへレーネが口を開いた瞬間、目の前のハインリヒが卓に額を打ちつける様に頭を下げた。


「えぇっ!?」


 いや、多分打っている。凄い音がした。

 どうしたものかとへレーネがおろおろと辺りを見回すと、遠くで控えていた侍女が、問題ないとハンドサインを出していた。


(問題、ない!?)


 問題しかないが?と、困惑していると、へレーネの鼓膜にハインリヒの震える声が届いた。


「申し訳ない……僕の我儘に貴女を巻き込んでしまった」


 へレーネは頭を下げたままのハインリヒをじっと見つめた。旋毛が二つある。


「頭をお上げください。このままではお話しできませんわ」

「……ありがとう」


 顔を上げたハインリヒは、泣きそうな顔をしていた。額は真っ赤に腫れている。どうしてもそこに、視線がいってしまいそうになる。

 へレーネは誤魔化す様に、視線を手元へ落とした。

 

「あの、今回の婚約は王命ですし。わたくしは謝られるような事は何も……」


 ないのだと言おうとしたのだ。


「違う……僕のせいなんだ」


 けれどその前に、ハインリヒの悲痛な否定の言葉に遮られた。


「あの……?」


 困惑するへレーネが視線を上げてハインリヒを見ると、彼は悲しそうに笑っていた。


「つまらない話だけど聞いてくれるかい?」


 断ったら多分、この人は壊れてしまう。

 そんな予感がした。


「……はい」


 だからへレーネは、頷くことしか出来なかった。




 ハインリヒの話とは、姉ゾフィーとの婚約期間での関係性についてだった。

「僕からの一方的な話だけどね」と、律儀に断った上での。


「……えっと、なる、ほど?」


 聞き終わったへレーネは思わず額を押さえた。

 いや、勿論ハインリヒ側の話でしかない。きっと色々都合よく改ざんされているに違いない。


 それにしたって。


 とりあえず後で真偽のほどを確認しなくては。


 小さく息を吐いて動揺する心を落ち着かせると、へレーネはまっすぐにハインリヒに視線を向けた。


「アイゼンバーグ伯爵令息様」

「できれば、ハインリヒと」

「え」

「嫌なら、仕方ないけど」

「え、えっと……」


 弱っている年上の男性を追い詰める趣味はない。へレーネは大人しく呼び名を変えた。


「ではハインリヒ様。いくつか確認させてください」

「はい」

「まず初めに、姉から毎日手紙が届き、お返事を強要されたと?」

「強要というか、出来れば欲しいと……」

「返事をしないと?」

「泣きながら邸にやって来たね……」

「わぁ……」


 すぐに姉付きだった侍女に確認しよう。


「では、夜会で姉以外と踊ってはいけないというのは?」

「……母や伯母とか、どうしても複数人と踊るのが必要な際は許してくれたよ」

「……妙齢のご令嬢と踊ったことは?」

「一度、王太子殿下に妃殿下と踊るように命じられたことがあってね……いや、殿下も妃殿下を他の男と踊らせたくなかったからで……」

「それで……?」


 もはや訊くのが恐い。


「帰りの馬車の中で髪を振り乱してね……」

「!!」


 へレーネは耐えられずに両手で顔を覆った。

 婚約期間、穏やかな姉に安心し切ってハインリヒへの態度など気に留めてもいなかった。

 これは家族の罪とも言える。


 遠い目で過去を振り返るハインリヒに、ひたすら申し訳なかった。


「あの、もう結構です。後は家の者に確認させますから……」


 居た堪れなくて視線を落とすと、ハインリヒがふっと息を吐く気配がした。


「信じてくれるのかい?」

「え?」


 思わず視線を上げれば、不思議そうにへレーネを見つめるハインリヒが、そこにはいた。


「僕は何度も婚約解消を願い出ていたんだよ」


 婚約して半年後、急激に痩せ細り出したハインリヒを心配した両親に問い詰められて、ハインリヒは全てを打ち明けていた。


「貴族なのにね。情けないことに、政略結婚の義務を放棄しようとしたんだ」


 けれどそれは失敗している。あの時点ではまだ、婚約解消の決め手にはならなかった。

 父親同士の話し合いで、婚約は継続された。


 しかしハインリヒの体調は悪化する一方で、虚ろな目でまともな受け答えすらままならなくなった息子の様子に、伯爵夫妻が婚約破棄を決意した時だった。


 エヴァンズ侯爵家からの婚約の打診が届いたのは。


 願ってもない良縁だった。

 しかも姉妹どちらが相手でも構わないという。それとなく国王陛下の心象を探ってみても、国防の面からエヴァンズ侯爵家との縁組は望まれていた。


 それならば。


 姉をエヴァンズ侯爵家に嫁がせればよい。

 新たに妹をハインリヒの婚約者に立てて。


 そこに当事者の意思などは必要なかった。



「……父が了承したことですから」


 へレーネは力なく笑った。

 きっとエヴァンズ侯爵家から婚約の打診が来た時、父は小躍りするくらい喜んだに違いない。


「我が家も大喜びで応じたからね」

「それは、仕方ないかと……」

「……」

「……」


 沈黙が二人を包んだ。


「へレーネ嬢」


 ハインリヒが先に口を開く。


 名前呼びを許しただろうか?

 伯爵家の一人息子だという彼は、存外他者との距離が近い。その点が不幸にも姉を暴走させる一助になったのだとしたら、とことん相性が悪かったとしかいえない。


「君を巻き込んだことは、本当に申し訳ないと思っている。僕が言っても信用出来ないと思うけど、必ず大切にすると誓う」


 真っ直ぐに向けられる視線からは悔恨と決意と、ほんの少しの怯えが見えた。


「僕の婚約者になって欲しい」

「もうなってますわ」


 真摯に告げられた言葉に、けれどあっけらかんとへレーネは答えた。


「ん?いや、えっと……そうなんだけど」

「?」

「まあ、いいか」


 これから頑張ればと、ハインリヒは声を上げて笑った。

 思えばこんな笑顔を見たのは初めてだなと、へレーネはぼんやりと思った。









「どういうことよっ!?」


 へレーネの婚約が決まってから三か月後。

 姉は先触れなしに実家の邸を訪れた。


 今までよく隠し通したものだ。


 目の前で無惨に叩き落とされたティーカップを見ながら、へレーネはそんなことを思った。

 ただの現実逃避である。


「ゾフィー落ち着きなさい。お前はもうエヴァンズ家に嫁いだ身だ」


 執務室の自席から諭す様に父の声が飛ぶ。

 今回はへレーネと今後のことについて打ち合わせをしている時にゾフィーが襲来したため、父の執務室は被害を免れなかった。

 いい気味である。


「お父様っ!!ハインリヒ様のお身体が悪くて回復の見込みがないからと、わたくしとの婚約を解消しましたのよ!?」

「そうだ」

「それがなぜっ!へレーネとの婚約になるのです!?」


 姉の気持ちもわからないではない。

 姉が知ったらこうなることは、予想がついていた。

 色々と問題はあれど、姉は確かにハインリヒを愛していたのだから。


「奇跡的に回復したからだ」


 お前との婚約を解消したから健康を取り戻したのだと言わないだけ、父にはまだ姉への愛があるようだ。

 腹芸は貴族の嗜み。父の顔からは真実味しか感じられなかった。


「どうしてっ……わたくし待ったのに……」


 ハンカチを握りしめる姉の手に、血管が浮き出ている。これ以上興奮するのはよくない。

 姉は今、大事な身体なのだから。


「そういうこと……?」


 ふと、姉が閃いたといったように自問自答を始めた。虚ろな目にはもはや誰も映っていない。

 ただ自身の妄執に囚われてしまっている。


「へレーネあなたっ!」


 急に矛先が来た。

 身構えた時点で遅かったのだ。


 姉の血管の浮き出た右手で、へレーネは思い切り頬を打たれていた。


「っ…!」


 口の中を、どろりと不快な鉄の味が充満する。慌てて駆け寄って来た父がハンカチをへレーネの口元にあてた。


「ゾフィー!」


 父の怒鳴り声が執務室に響き渡る。


「わたくしは悪くないわっ!姉の婚約者を奪うなんてっ!恥を知りなさい!!」


 恐慌状態の姉が喚き散らしている。

 もうどうでもいいから早く帰って欲しい。

 ここで子を流されでもしたらエヴァンズ侯爵家との仲も悪くなりかねない。

 へレーネは、嵐が過ぎ去るのをただじっと待つことにした。


「お前は何を言ってるんだ……?」


 しかし瞬時に割り切れたのはへレーネだけだったようだ。

 父は呆然と姉を見ていた。

 まるで怪物でも見るかの様に。



 コンコン



 誰かが扉を叩いた。

 ほどなくして顔を見せたのは母だった。

 

 母は室内を素早く見回し状況を確認すると、姉に近づいてその手を握った。


「ゾフィー……可哀想に」

「お母様……!」


 母は本心から痛まし気に姉を見つめていた。侯爵夫人の胆力はどんな状況でも揺るがない。


「貴女は愛情が深いだけなのよね……ただそれを、受け止められる方は少ないの」

「……お母様?」


 幼子のように姉は首を傾げた。


「でももう大丈夫よ。エヴァンズ侯爵令息のことは愛してないのでしょう?なら上手くいくわ。貴族は政略結婚こそ正義ですもの」


 満面の笑みを浮かべる母に信じられないとでもいうように、姉は目を瞠いた。

 そうして力なくその場に座り込んだのだった。








「ごめんっ!本当にっ!ごめっ」


 姉が馬車に押し込められて帰った後、母から知らされたというハインリヒが邸を訪れた。

 ヘレーネの腫れ上がった顔を見た彼は絶句した後泣きながら謝って、さっきから自主的にへレーネの顔を濡れたタオルで冷やしている。


「いえ、ハインリヒ様のせいではありません」


 これは間違いなく家族の問題だ。

 表面上上手くいっているからと、長年放置してきたツケが回ってきただけだ。

 ただ責任は両親にとって欲しいと、正直へレーネは思っていた。


「絶対大事にするからっ。僕は生涯君だけだと誓う」


 さっきから思いつめたハインリヒの発言が重い。

 へレーネはただ静かに穏やかに、感情の波が緩やかな人生を送れればそれで満足なのだ。


 愛など恐ろしいものは、永遠に知らないままでいい。


「あの、ハインリヒ様」

「うん?」


 そろそろ訂正しておいた方が良さそうだ。


「わたくしは、人生に愛を求めておりません。義務と責任を果たし、ただ穏やかに暮らしていければそれで十分なのです」


 ハインリヒが目を丸くする。

 時が止まったかの様に固まってしまった後、ハッとした様にへレーネの手を握りしめた。


「君はまだ愛を知らないってことだよね」

「あの……?」

「大丈夫。僕が生涯をかけて、君に愛を示すからね!」

「……」


 きらきらとした瞳に見つめられて、へレーネはもう一切の反論を諦めた。


 ハインリヒはもしかして、大きくわけると姉と同じタイプの人間なのではなかろうかと、ちらりと持ち上がった疑いは瞬時に打ち消して、へレーネはにっこりと笑ってハインリヒの手を握り返した。


 姉のお腹の子も、そのまた先に生まれてくるであろう子も、どうか穏やかな生涯をおくれますようにと、願いを込めながら。


お読みいただきありがとうございます!

もしよろしければ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎での評価やブクマ、リアクションなどしていただけると嬉しいです!

感想も励みになります!


*誤字報告もありがとうございます。

直したりそのままだったりですがありがたく拝見してます!

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― 新着の感想 ―
この姉のような知り合いがいました... 怖いですよ...まじで....容姿は良いので 恋人はできるのですが、やはり束縛と嫉妬が 酷いので、最後は逃げられていましたね。
痩せ細り倒れるまで頑張ったのだからハインリヒを責める気にはなれません。 怪物と婚約継続したところで破滅しかないでしょうから。 いろんな人が少しずつ悪いというより姉の怪物っぷりが際立ってたと思います。
当時といういか世界観的に既婚者がそんないろんな女性と踊ることってあるんか?
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