再震と百鬼園
その日の午前中、Webの何かで中央構造線に関して目にしたのだったか、そこから派生して、臼杵―八代構造線のことを調べたのだった。
そうして、臼杵―八代構造線に沿うように存在する日奈久断層帯にもちらりと目を向け、十年前の大地震をふと思い起したりもした。
その夕方に、十年ぶりの大きな揺れが故郷を再び襲った。
非常に驚いた。
午前に調べたことが現実となったという意味はもとより、先の地震からわずか十年で又かという思いがあったからである。あれほど大きな地震だったのだから、しばらくは無いものだという先入観に囚われていたのが、見事に覆された。
当地熊本の五高を出た物理学者、寺田寅彦が発した警句として「天災は忘れられたる頃來る」というものがある。
随筆『天災と國防』にも「畢竟さういふ天災が極めて稀にしか起らないで、丁度人閒が前車の顚覆を忘れた頃にそろそろ後車を引出すやうになる」と述べられているが、今回は忘れた頃どころか、十年前の記憶も生々しいところに再びどかんとやられたのだから堪らない。
調べてみると、十年前の地震では、断層帯の北側の一部が壊れたのみで、その南側の割れ残りを危惧する専門家の指摘などは、当該地震の直後から行われていたものらしい。
その重大な警鐘を露程も認識せずに、根拠を欠いたお気楽な先入観に僕は囚われていたのである。
こんな勘違いは、僕自身も全くそうだが、往々にしていろいろな人がそれこそ数え切れぬほどにやらかしているのだろうという思いを新たにした。
この断層帯は、さらに南側に延びて八代海へと続くが、頻発する余震の活動域も南西方向に拡大しているとのことで、十年前にあったように、大きな揺れが間を置かずに再来せぬものかと何とも懸念される。
今回、色々な被害が報道され心が痛むが、僕には内田百閒の常宿であった松濱軒の倒壊が何とも悲しい。人命などに絡む出来事ではないので、太平楽との誹りを受けるやも知れぬが――
僕が進学のため郷里を離れたのは、十八歳、当時の法制ではまだ未成年であった。それ以降、郷里には居住したことが無いので、生まれ育った所とは言えど、僕は県内の観光地などを、ほとんど知らない。阿蘇や天草なども、小学生以前に一、二度訪れたことがあるぐらい。
長じて、帰省する折なども、空港や駅と実家とを往来するばかり。有名な温泉などもいろいろとあるのに、もったいないとは思いつつも、どうしても、実家に滞在することが優先される。まあ、地元に帰るということは、ある種、そのような圧を受けてしまうというわけでもある。
灯台下暗しとはちょっと違うけれども、こんなことは何も僕だけではなく、他の人においても、往々にしてこのようなところかも知れぬ。
閑話休題。
さて、件の松濱軒は、内田百閒の『阿房列車』などにしばしば登場するのだが、先述のとおり、僕は郷里をあまり知らぬので、八代を訪れたことも一度しかなく、そのときは時間も無かったため、もとより、この旧跡を見たことがない。
八代城主が元禄元年に造った御茶屋であり、戦後は昭和天皇の行幸にも宿として使われ、数年間は旅館として営業していたらしい。
ちょうどその頃、內田百閒が大いにここを気に入り、しばしば投宿したと言われる。
現代では、さながら乗り鉄、或いは、呑み鉄とも称せらるるべき百閒の旅のお供は、国鉄職員で、編集者、文筆家たる顔も持つ、ヒマラヤ山系こと平山三郎。口の悪い百鬼園先生は、宿の仲居さんにも、御当地さんや油紙女史といった、何とも珍妙なるあだ名をつけたというが、現代ではこんな振舞はハラスメントとして糾弾されよう。
百閒文学の愛好者として、いつかはこのゆかりの地に足を運び、先生が御当地さんやヒマラヤ山系などの人達と、親しく歓談している様子を髣髴したいと思っていたのだが、到頭、叶わぬ仕儀となってしまった。
歳月は人を待たずというが、災害も人を待ってはくれなかった。
<了>




