6 椎木仁那
少女の名前は椎木仁那、中学三年生の14歳だった。
父親の事は殆ど覚えていない。仕事人間であまり子供の世話をする人じゃなかった上に、幼稚園の低学年の頃に出ていった。
一度だけ、酒に酔った母親が父親は他の女性の元へ言ったのよと言っていたのを覚えているがそこからは母親と二人の生活が続いていた。
小学校の高学年の時に、新しい父親よ、と優しそうな男性を家につれてきた。
新しい父は優しかったが、たまに自分を見つめる嫌な視線を感じてしまいどうしても馴染むことが出来なかった。
だけど、その後産まれた弟は可愛く、自分にも懐いてくれた。次第に新しい家族を徐々に受け入れていた。新しい義父の作る家庭というものに必死に馴染もうともしていた。
その後、母親が妊娠をして、段々とお腹が大きくなっていく中、仁那は毎日お手伝いを頑張っていた。
そんな中の事故だった。
遠ざかる意識の中、異世界という言葉が頭に残っていた。
朦朧としている割に、妙にハッキリとその事が頭に残り、まだ死んでないのに異世界転生でもするのかと、違和感が残っていた。
……。
……。
――なんだろう……いい気持ちがする……。
少しづつ仁那の意識が覚醒し始めていた。羊水の中にプカンと浮かんでいる感覚は、まるで母親の胎内に居るような心地よさを感じていた。
――生まれ、変わるの?
気を失う最期の『異世界』という言葉が妙に心に残っていた。何か心地よい液体の中で、さに生まれようとしているのか。そんな事を考えながら、ふと呼吸をしていることに気がつく。
――何? ……これは。
水の中で自分がマスクのようなものを付けられているのに気がつく。手は……動く。
羊水が酸素マスクに入り込まないようにとしっかりと結わえられていたのだが、それが酷く締め付けられるようで思わず手でマスクを剥ぎ取ろうとする。
ボコボコボコ……。
んグッ。
ずらされたマスクから羊水が流れ込み、仁那は思わずその羊水を飲んでしまう。
苦しさでもがくと、案外と水槽の底は浅い。無我夢中でマスクを剥ぎ取り体を起こすと、ゲホゲホとむせ込む。
「あ、レクター様っ!」
「分かっておる。……思ったより早かったな」
仁那が覚醒したことでレクターとカエスが慌てたように対処をしようとするが、気管に羊水を入れてしまいむせ返っている仁那にはそれどころじゃなかった。
「管はどうします?」
「もう大丈夫だ、はずせっ」
「はいっ」
仁那の体にはところどころに管が刺さっていた。今だに咳き込んでいる仁那に近づくとそれを一本づつ抜いていく。
「痛っ」
「我慢してっ! あと二本だからっ」
乱暴に針を抜かれ、仁那が思わず声を上げるがそのままカエスは管を抜き終わる。
――え?
仁那が痛みのあった場所に目をやると、自分が一糸まとわぬ姿で居るのに気がつく。
「きゃっ……」
目の前には見知らぬ二人の男。仁那は必死に自分の大事な場所を隠そうとする。
「大丈夫じゃ、落ち着くのじゃ。カエス。羊水を抜け」
「は、はい」
仁那が入っていたのは風呂のような陶器製の水槽だった。カエスが屈んで何かをするとゴゴゴと水が抜かれていく。水が減っていくと更に自分の体が露わになるように感じ、仁那は慌てて二人から距離を取ろうと水槽の隅に後ずさりする。
「タオルをもってこい」
カエスが持ってきたタオルを渡されると仁那は慌ててそれで体を包む。少し気持ちが落ち着いた仁那は、二人を見つめる。
「あの……私は……」
「覚えているか分からんが、お主は死の瀬戸際に居たんじゃ。どうじゃ? 今は痛いところなどあるか?」
「えっと……お医者さん、ですか?」
「医者……医療師の事じゃな。それとは違う。ワシ等はどちらかと言うと、探求者じゃな」
「探求者?」
「ワシの名はレクターという、この国では賢者と言われておる。そしてこいつは助手のカエスじゃ」
「賢者、助手……」
仁那はレクターの言葉を聞いてすぐに思い当たる。「異世界」確か意識を失う前にそう聞こえた。そして目の前にいる老人は自らを「賢者」と名乗っている。すぐに点と点が結ばれていく。
「転生?」
「転生? ……いや、違うな。お主はこの世界に召喚されたのじゃ」
「召喚……。やっぱり異世界なのですか?」
「まあ、お主の世界から見ればここは異世界じゃな。ふむ。状況の判断が早くてよろしいな」
仁那の反応にレクターが嬉しそうにうなずく。
自分は命を失うような怪我をしたということは理解していた。トラックに轢かれたのだ。本来だったらそれで死ぬはずだったのが、異世界に召喚された事でこの生命を生きながらえる事が出来たのだ。魔法がある世界だからこその奇跡だと感じた。
そう考えると、目の前の二人は自分を助けてくれたということだ。
仁那は少しづつ落ち着いていく。
……
……
例によってカエスがレクターに命じられ、仁那の為に服を用意する。服と言ってもシンプルな、まるで入院患者が着るようなひらひらとした薄い服だったが、それを着ることでようやく一心地つく。
来ていた中学の制服は、擦り切れたり血だらけだったりで、もうすでに処分されていた。
カエスが食べ物などを用意してくれるということで、部屋から出ていく。仁那が地下室の隅にあるソファーに座りぼーっとしながら頭の中を整理していると、「にゃあ」という声が聞こえた。
「あっ 猫さん……」
あの時にトラックに轢かれそうだった猫だ。なにはともあれ猫が無事だったことにホッとした仁那は、猫に向かって手をのばす。
猫が逆らうこと無く仁那に撫でられるのを見て、レクターが目を見開く。
「良かった……。でも君もこの世界に召喚されちゃったのね」
仁那は猫を持ち上げると自分の腿の上に載せ、ゴロゴロと喉を鳴らしながら甘えたような声を出していた。
「一応、消化の良さそうな物を……へ?」
ちょうどそこへ帰ってきたカエスが膝に猫を乗せてなでてるのを見て言葉を失う。
「チェシャ猫が? なんで?」
「え?」
「そいつは、基本的に誰もさわれないはずなのに。懐いている?」
「チェシャ猫? この子の事ですか?」
「あ、ああ……そいつは――」
カエスがチェシャ猫についての説明をする。聞くにつれ、仁那の顔色が悪くなる。
「もしかして……」
「ん?」
「私がこの子を助けたのって意味が無かったのですか?」
「助けた?」
「トラックに轢かれそうになっていて、思わず助けようと飛び出してしまって……」
「にゃあ」
仁那の言葉に、腕に抱かれたまま気持ちよさそうにしていた猫が声を出す。カエスがそれを見て、「うーん」と悩む。
「そのトラックというのが危険なんだね?」
「はい……」
「だったらそれは良かったのじゃないかな。人に触らせる事が無いと言われるチェシャ猫がこうして君に触らせているというのは、感謝もしているという事だ。君の治療にも――」
「カエス!」
カエスがチェシャ猫の爪を使った話をしようとしたところでレクターが言葉を遮る。慌てて口を閉ざすカエスに変わりレスターが言葉を続ける。
「チェシャ猫は神の使いとも言われておるんじゃ。その猫がこうして君に懐いておる。何か良きことが有ると思うぞ」
「神の使い……」
仁那がマジマジと猫を見つめるが、猫は至って普通の猫にしか見えなかった。
喉を軽くいじると、ゴロゴロと気持ちよさそうにしていた。
「まだ覚醒したばかりだ、色々と頭も混乱しとるじゃろ。今日はよく休め。そのソファーくらいしか無いが良いか?」
「だ、だいじょうぶです」
「トイレはその戸の向こうじゃ、朝にまた来るが……一人で大丈夫か?」
「えっと……この子が居てくれるので」
「……そうか、毛布はこれを使うが良い」
「ありがとうございます」
仁那には今自分に何が起こっているか、全く分からなかった。だけど今はレクターの言うことを聞くしか無い。
あくびをしながら「やっと寝れる」と出ていくカエスをただ黙って見送った。




