第一章:封印された浄化槽
「道成さん、見てください! あの門柱、黒漆塗りに銀の鋲打ち……。これは装飾などという生易しいものではありません。外界との因果を断ち切り、不浄を物理的にボルト締めするための呪理적構造です! 魔を撥ね退けるのではなく、むしろ磁石のように周囲の『負』を吸い込むための呪術的意匠です! あれこそが、九条村全体の厄を引き受け、地下深くで処理する『巨大な浄化槽』としての百鬼家の証。ああ、なんて美しくもおぞましいエコロジーなんでしょう!」
井戸つむぎは、雪深い山道にそびえ立つ重厚な屋敷を仰ぎ見て、鼻息を荒くした。彼女の持つフィールドノートは、まだ屋敷に入る前だというのに、門の構造に関する緻密なスケッチと、興奮で震えた走り書きですでに数ページが埋まっている。 一ヶ月前、道成の実家である九条家で、一族の誇りであった「巨大鏡餅消失事件」を物理的・民俗学的に解体し、家門の権威を粉々に粉砕した彼女の瞳には、以前にも増して不穏な、そして純粋な学術的熱が宿っていた。
「つむぎ……頼むから、今日だけは大人しく『客』として振る舞ってくれよ。萬斎先生は僕の大学時代の恩師だし、何より九条家と百鬼家は江戸時代から続く、目も合わせないほどの犬猿の仲なんだ。君がここでまた『怪異の正体は~』なんて暴き始めたら、僕の立場どころか、九条家の面目が文字通り消滅する」
隣でハンドルを握る九条道成は、胃のあたりを強く押さえながら、消え入りそうな声で呻いた。 彼らが向かっているのは、九条村のさらに奥、陽の光が届かない深い谷底に位置する百鬼家の本邸。そこは、神聖な祭祀と「陽」の側面を司る九条家とは完全な対照をなす場所だ。村の忌まわしい穢れ、行き場のない怨念、葬るべき罪のすべてを閉じ込め、人知れず浄化し続けるという「陰」の聖域。その門をくぐること自体、九条の人間にとっては禁忌に近い行為だった。
「わかってます、わかってますとも。私はただ、室町時代から六百年、一度も途切れたことがないという伝説の儀式『不還の追儺』を、この目で見届けたいだけですから。外部の人間が立ち入ることはおろか、記録に残すことさえ許されない、究極の監禁環境……。ああ、論文の神様、この素晴らしい隔離施設に私を招いてくださって感謝します!」
「監禁とか施設とか言うなよ。……それに、萬斎先生が君を呼んだ理由も気になる。あの偏屈な先生が、わざわざ『あの九条の恥晒しを連れてこい』なんて……」
車を降りた二人の前に、巨大な鉄の門が、凍てついた音を立てて重々しく開いた。 雪を吸い込んだような静寂の中、出迎えたのは、血色の悪い無表情な青年・豆田守だった。彼はつむぎの丁重な挨拶も、道成の気まずそうな会釈も完全に無視し、つむぎのブーツに付いたわずかな雪の塊を、まるで致命的なウイルスでも見るかのような冷徹な眼差しで睨みつけた。
「……汚れを、敷地内に持ち込まないでください。不純物は、儀式の精度を下げます」
守は銀のピンセットと小型のブラシを取り出すと、つむぎの靴の溝に挟まった砂利や雪を、執拗なまでに払い落とし始めた。 「(……なんて素晴らしい潔癖症! 単なる掃除ではありません、これは聖域の純度を保つための強迫観念的防衛機制、そして境界線に対する過剰なまでの感応性です!)」 つむぎのペンが、早くも新品のフィールドノートの紙面を、インクの染みで汚していく。
屋敷の広間では、当主の百鬼萬斎が、威圧感という名の重力を周囲数メートルに撒き散らして座っていた。その背後には、最新式のハイスペック・タブレット端末を無造作に弄る娘の鈴が、退屈そうに胡坐をかいている。彼女の耳にはノイズキャンセリングヘッドホンが装着され、古色蒼然とした屋敷の中で、彼女の周囲だけがサイバーパンクのような異質な空気を放っていた。
「九条の若造、よく来たな。貴様の親父の無能ぶりを論文に書いたというから、少しは見込みがあるかと思ったが、相変わらず情けない面だ。……そしてその、九条の伝統を白日の下に晒したという『呪いの学者』が、貴様か」
萬斎の鷹のような鋭い視線がつむぎを射抜く。
「はい! 井戸つむぎです! 萬斎先生の蔵書である『追儺考』の異本、特に永正年間の写本における『鬼の体内組成』の記述について、ぜひ夜通し血を吐くような議論をさせていただければと――」
「議論など不要. 今夜、貴様らには文字通り『本物』を味わってもらう。論理など、この闇の前では塵に等しい」
萬斎は不敵に、そしてどこか残酷な慈愛を込めて笑い、背後の鈴に合図を送った。 「鈴、道成に『それ』を渡せ. 今夜、九条の血がどこまで耐えられるかテストだ」
鈴が面倒そうに持ってきたのは、鼻を突く強烈な生臭さと、潮風にさらされた死の臭気を放つ、異様なヘッドギアだった。四方には干からびた鰯の頭が釘打たれ、その眼球部分には小型カメラの超広角レンズが埋め込まれている。さらに、装置からは無数の光ファイバーが垂れ下がり、道成の視覚をジャックする構造になっていた。
「……えっ、何ですか、この世紀末な呪具は」
「最新型・対鬼防衛システム『イワシ・アイ・マークⅡ』」 鈴が感情の欠落した声で淡々と説明する。 「父さんの古い根性論や紙の札じゃ、現代の『情報の穢れ』としての鬼は防げない。だから、私が民俗学をバイナリデータに変換して改造した。道成さん、これをつけて屋敷中の結界の隙間をスキャンして。鰯の腐敗臭が鬼の検知センサーを攪乱し、レンズが不可視のスペクトルを可視化するから。……まあ、精神が汚染される前に死なない程度に頑張って」
「嫌だ! 絶対に嫌だ! なんで僕が、こんな死臭の漂うイワシの頭を被って徘徊しなきゃいけないんだ!」と、えづきながら叫んだ。
道成の悲痛な叫びも虚しく、冬の短い日はあっけなく沈んだ。 その瞬間、屋敷中のすべての窓に、どろりとした血を思わせる朱色の墨で、「逆さ札」が塗りつけられ、分厚い鉄板を仕込んだ雨戸が完全に閉ざされた。
「これより夜明けまで、いかなる理由があろうとも、一言の発声も、互いの存在確認も禁ずる。このルールを破れば、貴様ら自身が屋敷の『外』に排出できない『鬼』そのものになると心得よ」
萬斎の地を這うような声が響くと同時に、屋敷内のすべての現代的な照明が、鈴のタブレット操作一つで遮断された。
「不還の追儺」――逃げ場のない完全なる密室、そして一寸先も見えない完全なる沈黙. つむぎは暗闇の中で、静かに、そして歓喜に全身を震わせながら、赤外線暗視モードに切り替えたスケッチブックを広げた. 彼女の耳には、闇の奥から聞こえる濡れた布を引きずり、複数の関節を軋ませるような「何か」の足音が、最高の調べとして響いていた。




