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後日談 灰色の水槽で、魚は二度と泳げない

『じゃあね。その大好きな彼氏と、お幸せに』


プツン、という音が鼓膜を叩いた。

その後に続いたのは、無機質な電子音だけ。

ツーツー、ツーツー、ツーツー。


私はしばらくの間、その音を聞いていた。

受話器を耳に押し当てたまま、まるでそれが世界の終わりの合図であるかのように。

駅前の喧騒が、ガラス一枚隔てた外側で流れている。

笑い声、車のクラクション、駅のアナウンス。

世界はこんなにも騒がしいのに、私の周りだけ真空パックされたように音が消えていた。


「……終わった」


ポツリと漏れた言葉は、白い息となってガラスに張り付き、すぐに消えた。

終わったのだ。何もかも。

蓮くんは、私を助けに来なかった。

怒鳴ることすらせず、ただ「邪魔だ」と言って、笑いながら電話を切った。

あの笑い声。

私の知っている、私に向けられていた慈愛に満ちた微笑みではない。

友人たちと心から楽しんでいる、屈託のない笑い声。


私がここで凍えそうになっているこの瞬間に、彼は暖かい場所で、人生を謳歌している。

私という「重荷」を下ろして、清々しい顔で。


「う……あぁ……」


力が抜け、受話器が手から滑り落ちた。

ブランとぶら下がった黒い塊が、私の今の姿と重なる。

誰とも繋がっていない。誰からも必要とされていない。

ただそこに存在するだけの、無意味な物体。


私は電話ボックスを出た。

足元がふらつく。

どこへ行けばいいのだろう。

家に帰っても、待っているのは冷たい部屋と、既読のつかないスマホだけ。

学校に行けば、針のむしろが待っている。


それでも、足は勝手に家の方へと向かっていた。

他に帰る場所なんてないからだ。

夜風が涙で濡れた頬を冷やし、肌に突き刺さる。

寒い。

蓮くんが隣にいた頃は、こんな寒さを感じたことなんてなかった。

彼が私の手を握り、マフラーを巻き直し、温かいココアを買ってくれたから。

彼の存在そのものが、私を守るシェルターだったのだ。

そのシェルターを自ら破壊した今、私は吹きっ晒しの荒野で震えるしかない。


***


翌週、私は学校へ行った。

行きたくなかった。一生部屋に引きこもっていたかった。

でも、親に無理やり叩き起こされ、制服を着せられた。

学校をサボる正当な理由なんて、私にはなかったからだ。


教室の扉を開ける瞬間、心臓が破裂しそうだった。

ガララッ、という音がやけに大きく響く。


一瞬で、教室の空気が変わったのが分かった。

ざわめきが止まり、数十対の視線が私に突き刺さる。

好奇、嘲笑、軽蔑、憐れみ。


「……来たよ、一ノ瀬さん」

「マジ? よく来れたな」

「聞いた? 公衆電話から元カレに泣きついたって話」

「うわ、重っ。そりゃ桐谷も捨てるわ」


ひそひそ話のボリュームが、あえて私に聞こえるように調整されている。

噂は光の速さで広まっていた。

私が桐谷翔くんに捨てられたこと。

その後、ストーカーまがいの行動で佐伯蓮くんに電話をかけたこと。

そして、その蓮くんにもあっさり拒絶されたこと。


私は俯き、逃げるように自分の席へと向かった。

机の上には、誰かの悪戯書きがあったわけではない。

けれど、そこには見えない「結界」が張られているようだった。

誰も近づかない。誰も話しかけない。

かつて私の周りに集まり、「美月ちゃん、そのリップ可愛いね」「今度遊ぼうよ」とチヤホヤしてくれた女子たちは、遠巻きに私を見てクスクスと笑っている。


「ねえ、見た? 今日のあの子」

「見た見た。髪ボサボサだし、目の下のクマすごくない?」

「やっぱ魔法解けたんじゃない? 元々地味だったし」


魔法。

そう、私は魔法にかかっていたのだ。

「佐伯蓮」という魔法使いがかけた、「全肯定」という名の最強の魔法に。

それが解けた今の私は、ただの惨めなシンデレラ……いいえ、シンデレラですらない。

灰かぶりのままで終わった、ただの村娘だ。


授業中、背中に視線を感じる。

桐谷翔くんの視線ではない。彼は私など存在しないかのように、窓の外を見ているか、スマホをいじっている。

クラスメイトたちの「見世物」を見る視線だ。

『転落した元マドンナ』

それが、今の私の新しい肩書きだった。


昼休み。

私は逃げるようにトイレの個室に籠った。

ここだけが、唯一の安全地帯だった。

膝を抱えて、スマホを見る。

通知はゼロ。

SNSを開くと、クラスのグループチャットが盛り上がっているのが見えた。

そこには、楽しそうな昼食の写真がアップされている。

その写真の端に、蓮くんが写っていた。


彼は笑っていた。

私の知らない男子たちと机を囲み、大きな口を開けて笑っていた。

その顔色は良く、肌艶もいい。

憑き物が落ちたように爽やかで、以前よりもずっとカッコよく見えた。


「なんで……」


画面を握りしめる指に力が入る。

私はこんなにボロボロなのに。

ご飯も喉を通らなくて、体重も落ちて、肌も荒れて、髪もパサパサなのに。

なんで、あなたはそんなに幸せそうなの?

私がいないとダメなんじゃなかったの?

私を守るのが生き甲斐なんじゃなかったの?


『お前はもう「他人」なんだよ』


電話での冷たい言葉が蘇る。

そう、私は彼にとって、もう視界に入れる価値もない「他人」なのだ。

その事実が、ナイフのように胸を抉る。


午後の授業が終わり、放課後のチャイムが鳴る。

私は誰よりも早く鞄を掴み、教室を出ようとした。

その時だった。


「おーい、蓮! 今日もカラオケ行くべ?」

「おう、行く行く! 今日は健太の奢りな」


明るい声が聞こえて、足が止まった。

振り返ると、蓮くんが友人たちと肩を組んで廊下に出てくるところだった。

彼の視線が、一瞬だけこちらを向いた。


目が合った。

心臓が跳ねた。

何か言われるかもしれない。

罵倒されるか、あるいは憐れまれるか。

それとも、やっぱりまだ未練があって、心配してくれるかもしれない。


そんな淡い期待は、次の瞬間に粉砕された。


彼は、私のことなど「壁の染み」か何かだと思ったのだろう。

視線は私を素通りし、そのまま何事もなかったかのように友人との会話に戻った。


「でさ、あのゲームの新作が……」

「マジで? 超楽しみじゃん!」


彼は私の横を通り過ぎていった。

肩が触れそうなほどの至近距離。

でも、彼は歩くスピードを緩めることも、表情を変えることもしなかった。

完全に、無視。

いや、無視ですらない。

「認識していない」のだ。

彼の世界地図から、「一ノ瀬美月」という国は完全に消滅しているのだ。


その事実が、どんな罵倒よりも私を打ちのめした。

私はその場に立ち尽くし、遠ざかる彼の背中を見つめることしかできなかった。

涙すら出なかった。

ただ、体が芯から冷えていく感覚だけがあった。


***


それから、季節は巡った。

夏が過ぎ、秋になり、冬が来た。

私の高校生活は、色彩を失ったモノクロ映画のように過ぎていった。


私はもう、メイクをしなくなった。

毎朝鏡に向かっても、そこに映るのは生気のない幽霊のような顔だけ。

「可愛いね」と言ってくれる人はもういない。

誰も見ていないのに、着飾る意味なんてなかった。

髪は伸びっぱなしで、毛先は傷んでいる。

制服のスカート丈も、どうでもよくなって適当になった。


かつての「学校のマドンナ」の面影は、跡形もなくなっていた。

クラスでは「空気」のような存在になった。

いじめられることすらなくなった。

ただ、誰も私に関わろうとしない。

腫れ物に触るような扱いから、次第に「そこにいるだけの風景」へと変わっていった。


休み時間、私は一人で本を読んで過ごす。

内容は頭に入ってこない。ただ、顔を上げて周りの幸せそうな空気を見るのが辛いから、文字を目で追っているふりをしているだけだ。


一方、蓮くんはクラスの中心人物になっていた。

元々、聞き上手で優しい性格だった彼は、私という「足枷」が外れたことで、その魅力を開花させたようだった。

男女問わず友人が多く、いつも誰かに囲まれている。

成績も上がったらしい。

部活には入っていないが、助っ人として頼られることも多いようだ。


そして、噂を聞いた。

彼に、新しい彼女ができたらしい、と。


相手は、隣のクラスの図書委員の子だという。

地味だけど、いつも笑顔で、穏やかそうな女の子。

私のように派手ではないし、誰もが振り返るような美少女でもない。

でも、彼女と一緒に歩く蓮くんの表情は、私といた時よりもずっと柔らかく、幸せそうだった。


ある日の放課後、私は二人が下校する姿を偶然見てしまった。

校門の近く、桜並木の下。

二人は手を繋いでいた。

蓮くんが何かを言い、彼女が鈴を転がすように笑う。

そして、彼女がマフラーを直し、蓮くんが照れくさそうに頭をかく。


「……あ」


喉の奥から、乾いた音が漏れた。

あの場所は、私の特等席だったはずなのに。

あんな風に笑い合うのは、私と蓮くんの役目だったはずなのに。


どうして、あそこにいるのは私じゃないの?

私がもっと彼を大切にしていれば。

私が調子に乗らず、彼の優しさに感謝していれば。

今頃、あそこで笑っていたのは私だったはずなのに。


「もしも」の想像が、頭の中を駆け巡る。

もしもあの時、桐谷くんなんて選ばなければ。

もしもあの時、「別れよう」なんて言わなければ。

私たちは今でも、一番のカップルとして幸せに過ごしていたはずだ。

クリスマスも、バレンタインも、卒業式も、ずっと一緒にいられたはずだ。


でも、現実は残酷だ。

タイムマシンなんてない。

私が選んだ選択肢の先にあったのは、この灰色の孤独だけだ。


二人の姿が見えなくなるまで、私は電柱の陰から見つめていた。

胸が張り裂けそうで、息が苦しい。

後悔という名の毒が、全身に回っていく。


「うっ……うぅ……」


涙が溢れてきた。

久しぶりに流す涙は、熱く、そして苦かった。

私は失ったものの大きさを、今更ながら痛感していた。

ダイヤモンドをドブに捨てて、ただのガラス玉を拾った愚かな私。

そのガラス玉すらも砕け散り、手元には何も残っていない。


***


家に帰り、冷え切った部屋のベッドに潜り込む。

スマホの画面を見る。

通知はない。

私の世界は、あの電話の日から止まったままだ。


天井を見上げながら、私は蓮くんの言葉を反芻する。


『君は素晴らしい』

『君ならできる』

『君は世界で一番可愛いよ』


かつて私を支え、私を作り上げてくれた言葉たち。

それはもう、二度と私に向けられることはない。

私の心に空いた巨大な穴は、誰にも埋められない。

蓮くんにしか埋められなかった穴だからだ。


私はこれから、どうやって生きていけばいいのだろう。

自信も、プライドも、愛も、希望も、すべて失ったまま。

この先、大学に行っても、社会に出ても、私はずっと「何か」が欠落したまま生きていくのだろうか。

誰かと付き合っても、きっと蓮くんと比べてしまう。

そして、彼以上の人が現れることなんてないのだと絶望するのだ。


「……会いたい」


誰もいない部屋で、虚しく呟く。

届かない声。叶わない願い。


私は体を丸め、毛布を頭から被った。

暗闇の中だけが、今の私にお似合いの場所だ。

サナギから蝶になったつもりでいたけれど、私はただ、誰かの手の上で踊らされていただけだった。

その手が離れた今、私は地面に落ちて、誰にも見向きされずに朽ちていくしかない。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


誰に向けたものかも分からない謝罪を繰り返す。

蓮くんはもう、私の謝罪なんて求めていない。

彼は幸せになったのだから。

私という不幸の種を切り捨てて、本物の春を手に入れたのだから。


窓の外では、冷たい雨が降り始めていた。

その雨音は、私の嗚咽をかき消すように、静かに、絶え間なく降り続いていた。


私の明日は、きっと今日と同じ灰色だ。

そしてその次も、その次の日も。

「肯定」という光を失った私の世界には、もう二度と、太陽が昇ることはないのだ。

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