前日譚 サナギは蝶になり、古びた殻を捨てる
鏡に映る私は、今日も完璧だ。
緩やかに巻かれた黒髪、計算され尽くしたナチュラルメイク、制服の着こなし。どこをどう切り取っても、クラスの女子たちが羨望の眼差しを向け、男子たちが頬を赤らめる「一ノ瀬美月」がそこにいる。
「美月、おはよう。今日、顔色いいね。リップの色、少し変えた?」
教室に入った瞬間、待ち構えていたように声をかけてくる男がいる。
佐伯蓮。私の彼氏だ。
彼はいつものように、私の顔を覗き込み、嬉しそうに微笑んでいる。その笑顔は、まるで手塩にかけて育てた花を愛でる庭師のようだ。
「うん、おはよう蓮くん。よく気づいたね、新作のティントなんだ」
「やっぱり? すごく似合ってるよ。美月はピンクベージュ系が本当に似合うね。肌の透明感が際立つっていうかさ」
蓮くんの口から、淀みなく称賛の言葉が紡がれる。
それは毎朝の儀式のようなものだ。
彼に褒められ、肯定されることで、私の一日が始まる。
一年前の私なら、この言葉だけで天にも昇る気持ちになっていただろう。彼の優しさに涙し、一生ついていきたいと心から思ったに違いない。
でも、今は違う。
彼から褒められるたびに、胸の奥で小さな棘がチクリと刺さるような、微かな苛立ちを感じてしまうのだ。
『分かってるよ』
『そんなの、蓮くんに言われなくても知ってる』
そんな傲慢な声が、心の中で響く。
私は小さく息を吐き出し、作り笑顔で彼に応える。
「ありがとう、蓮くん」
彼には見えていないのだろうか。
私がもう、彼が守らなければ壊れてしまうような「弱い女の子」ではないということが。
私はもう、一人で歩ける。
それなのに、彼はいつまでも私の手を引き、補助輪付きの自転車に乗せようとする。
その過剰な優しさが、今の私には酷く窮屈で、重苦しい鎖のように感じられてならなかった。
そもそも、私たちが付き合い始めたきっかけは、私の「弱さ」にあった。
高校に入学したばかりの頃、私は世界の隅っこで怯える、地味で冴えない女子生徒だった。
中学時代の人間関係のトラブルがトラウマになり、人と目を合わせるのが怖い。教室の喧騒が耳鳴りのように響き、いつ過呼吸になってもおかしくない精神状態。
自分の価値なんてゼロだと思っていたし、消えてしまいたいとすら願っていた。
そんな私の世界に、勝手に入り込んできたのが蓮くんだった。
隣の席になった彼は、私が落とした消しゴムを拾ってくれた。
それだけのきっかけで、彼は私に話しかけ続けた。
私が無視しても、おどおどしていても、彼は決して嫌な顔をしなかった。
『一ノ瀬さんは、声が綺麗だね』
『そのノートの字、すごく丁寧で読みやすいよ』
『今日の髪型、似合ってる』
彼は、私が自分でも気づかなかった些細な長所を見つけ出し、それを「素晴らしい」と肯定し続けた。
最初は警戒していた私も、次第に彼の言葉に依存するようになった。
毎朝のモーニングコール。夜遅くまでのLINE。
学校へ行きたくないと泣く私を、彼は一時間でも二時間でも励まし続けてくれた。
『美月なら大丈夫』
『俺がついてるから』
『君は世界で一番素敵だよ』
彼の言葉は、私にとっての精神安定剤だった。彼がいなければ、私は息もできなかった。
だから、彼に告白された時、私は迷わず頷いた。
彼こそが私の救世主であり、運命の王子様だと思ったからだ。
付き合い始めてから、彼は私を「改造」し始めた。
いや、彼なりの言葉を借りれば「本来の輝きを引き出す手伝い」をしてくれた。
ファッション誌を読み漁り、私に似合う服を選び、美容院に付き添い、メイクの方法まで一緒に研究してくれた。
彼の献身は異常なほどだった。自分の小遣いを切り詰めて私にコスメをプレゼントし、自分の勉強時間を削って私の悩み相談に乗った。
その甲斐あって、私は変わった。
鏡を見るのが楽しくなり、背筋が伸び、クラスの女子とも会話ができるようになった。
そして気づけば、私は「クラスで一番可愛い女子」と呼ばれるようになっていた。
文化祭のミスコンで名前が挙がり、廊下を歩けば他クラスの男子が振り返る。
「一ノ瀬さんって、隠れ美少女だったんだね」
そんな称賛の声が、私の自尊心を急速に肥大させていった。
「サナギから蝶へ」
まさにそんな言葉が相応しい変身だったと思う。
でも、蝶になった私は気づいてしまったのだ。
空を飛べるようになった私の隣にいる彼が、相変わらず「地面を這う地味な男」のままであることに。
蓮くんは優しい。それは間違いない。
でも、それだけなのだ。
見た目は十人並み。スポーツができるわけでもない。クラスの中心人物でもない。
ただ「一ノ瀬美月の彼氏」という肩書きだけで、私の隣にいる存在。
周囲の目が変わるにつれ、私の意識も変わっていった。
『あんな可愛い子が、なんであいつと付き合ってるの?』
『もったいなくない?』
そんな囁き声が聞こえるたびに、優越感と共に、彼に対する羞恥心が芽生え始めた。
私は高みに上った。
努力して、美しさを手に入れた。
今の私には、もっとふさわしいステージがあるのではないか?
もっと輝いている、私をドキドキさせてくれるような「強い男」が、私の隣に立つべきではないのか?
蓮くんへの感謝はもちろんある。
彼がいなければ、今の私はいない。
でも、それは「補助輪」への感謝と同じだ。
自転車に乗れるようになった子供は、いつか補助輪を外さなければならない。
むしろ、いつまでも補助輪をつけて走っているのは、恥ずかしいことなのだ。
そんな迷いと不満を抱えていたある日の放課後。
私は運命的な出会い……いや、「再会」を果たした。
図書室へ向かう廊下の角で、私は勢いよく走ってきた男子生徒とぶつかりそうになった。
「っと、危ねー!」
咄嗟に私の腕を掴み、引き寄せてくれた腕。
汗の匂いと、制汗スプレーの爽やかな香り。
目の前にあったのは、サッカー部のユニフォームを着た、桐谷翔くんの顔だった。
彼はクラスメイトだが、今までまともに話したことはなかった。
スクールカーストの頂点に君臨する彼と、元陰キャの私では住む世界が違いすぎたからだ。
でも、今の私は違う。
「学校のマドンナ」としての自信が、私を大胆にさせた。
「ご、ごめん! 大丈夫?」
「おー、平気平気。……って、一ノ瀬か。びっくりさせんなよ」
桐谷くんはニカっと笑った。
その屈託のない、自信に満ちた笑顔。
蓮くんの穏やかで、どこかへりくだったような笑顔とは対照的な、強烈な太陽のような輝き。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「桐谷くんこそ、廊下走っちゃダメでしょ」
「へへ、部活遅刻しそうでさ。……てかお前、近くで見るとマジで可愛いな」
不意打ちだった。
蓮くんからの「可愛い」は聞き飽きていたはずなのに、桐谷くんからの「可愛い」は、まるで電撃のように私の体を貫いた。
お世辞や気遣いではなく、ただの事実として放たれた言葉。
彼は私の腕を離すと、興味深そうに私の顔を覗き込んだ。
「佐伯の彼女にするにはもったいねーな」
「え……?」
「あいつ、過保護すぎてウザくね? お前みたいなイイ女、もっと自由にさせた方が輝くと思うけど」
その言葉は、私が心の奥底で感じていたモヤモヤを、的確に言語化するものだった。
そうだ。蓮くんは過保護なのだ。
彼は私を守っているつもりで、実は私をカゴの中に閉じ込めている。
私の可能性を、私の魅力を、彼だけのものにしておきたいという独占欲で縛り付けているのだ。
「……そう、かもね」
私は思わず肯定してしまった。
すると、桐谷くんは悪戯っぽく目を細めた。
「じゃあさ、今度俺と遊ばね? 佐伯には内緒で」
それは、悪魔の誘いだった。
でも、その時の私には、新しい世界への招待状にしか思えなかった。
それからの日々は、背徳的で刺激的な色に塗り替えられた。
蓮くんには「女友達と買い物に行く」と嘘をつき、桐谷くんと会った。
彼との時間は、蓮くんとの時間とは何もかもが違っていた。
蓮くんとのデートは、常に私の体調や気分を最優先した、安全で退屈なもの。
『疲れてない? 休憩しようか』
『何食べたい? 美月の好きな店に行こう』
私が主役で、彼が執事。それが当たり前。
でも、桐谷くんは違う。
『俺、ここ行きたいから付き合えよ』
『お前、歩くの遅せーよ。置いてくぞ』
彼は私を振り回す。私を対等な……いや、彼に従う存在として扱う。
最初は戸惑ったけれど、すぐにそれが快感に変わった。
「私を特別扱いしない」ということこそが、私が「普通の、自立したイイ女」として認められている証のように感じられたからだ。
それに、彼は学校の人気者だ。
彼と一緒に街を歩いていると、すれ違う女子高生たちが彼を見て、そして隣にいる私を見て、羨ましそうな顔をする。
それがたまらなく誇らしかった。
『見て、私が選ばれたの。あの桐谷翔の隣にいるのは、私なの』
その優越感は、蓮くんとのデートでは決して得られない麻薬だった。
ある日の夜、桐谷くんの部屋で。
私たちは一線を越えた。
罪悪感? いいえ、ほとんど感じなかった。
むしろ、「ようやく本物の恋を見つけた」という高揚感の方が強かった。
事の後、ベッドで煙草を吸う彼の横顔を見ながら、私は確信した。
この人こそが、私の新しいステージにふさわしいパートナーだ。
強く、カッコよく、私を刺激してくれる人。
蓮くんのような「過去の傷を舐め合うだけの関係」は、もう卒業しなければならない。
もちろん、蓮くんが私を支えてくれたことは事実だ。
だからこそ、私は彼のためにも別れるべきなのだと、自分に言い聞かせた。
彼はずっと私の保護者役をやらされている。
私が彼から離れることで、彼もまた「ただの介護係」から解放されるのだ。
そう、これはお互いのためなのだ。
「翔くん、私……蓮くんと別れるね」
「ん? ああ、そうすりゃ。俺もコソコソすんの面倒だし」
「うん。私、翔くんの自慢の彼女になりたい」
「ま、今の美月なら悪くないんじゃね? 連れて歩いても恥ずかしくないし」
「悪くない」。
その少し突き放したような言い方すら、今の私には心地よかった。
彼は私に媚びない。それが彼の強さであり、私が彼に惹かれる理由なのだ。
蓮くんのことは、正直どうでもよくなっていた。
彼が傷つくかもしれない?
でも、それは彼が弱すぎるせいだ。
男なら、去っていく女を笑顔で見送るくらいの度量を持つべきだ。
それに、私がこれだけ魅力的になったのは私の努力の結果であり、彼にとっても「自分の彼女がこんなにイイ女になった」という事実は悪い話ではないはずだ。
私はスマホを取り出し、蓮くんとのLINEのトーク画面を開いた。
そこには、昨夜彼から送られてきたメッセージが未読のまま残っていた。
『明日のテスト、頑張ってね。美月なら絶対大丈夫だよ。終わったら美味しいケーキ食べに行こう』
相変わらずの全肯定。相変わらずの甘やかし。
画面越しに伝わってくるその湿っぽい優しさに、私は鼻白んだ。
今の私に必要なのは、甘いケーキじゃない。
ヒリヒリするような刺激と、周囲からの羨望の眼差しなのだ。
私は画面を閉じ、決意を固めた。
明日、学校で彼に別れを告げよう。
きっと彼は泣いて縋るだろう。
『行かないでくれ、美月』
『君がいないと生きていけない』
そう言って、私の足元に膝をつく彼の姿が容易に想像できた。
少し可哀想だけれど、仕方がない。
私は蝶になってしまったのだから。
地を這う幼虫と一緒にい続けることはできないのだ。
「ごめんね、蓮くん」
私は口先だけで謝罪の言葉を呟いた。
その響きには、一片の誠実さもなかった。
あるのは、古い殻を脱ぎ捨てて飛び立つことへの期待と、自分が「選ぶ側」に回ったという傲慢な喜びだけ。
明日の放課後。
それが、私の新しい人生の始まりだ。
蓮くんという重荷を下ろし、桐谷翔という翼を手に入れて、私はもっと高く、もっと遠くへ羽ばたくのだ。
そう信じて疑わなかった。
自分が捨てようとしているものが「重荷」ではなく、私という人間を地面に繋ぎ止めていた「命綱」だったとは、微塵も気づかずに。
窓の外には、不穏な雲が広がり始めていたが、自信に満ちた私の目には、輝かしい未来しか映っていなかった。




