第4話 もう二度と届かない声
週末の夜、駅前のカラオケボックス。
その一室は、極彩色の照明と若者たちの熱気で満たされていた。
「イェーイ! 次、蓮の番だぞ! ちゃんと歌えよー!」
マイクを突きつけられ、俺、佐伯蓮は苦笑しながら立ち上がった。
タンバリンの音がシャンシャンと鳴り響き、友人たちの歓声が鼓膜を揺らす。
テーブルの上にはフライドポテトやピザ、大量のドリンクが所狭しと並んでいる。
中学時代の友人である健太、そしてクラスメイトの男子数人と、今日初めて話した女子グループとの合同カラオケだ。
「分かってるって。……じゃあ、盛り上がるやつ行くか」
俺が選曲したのは、最近流行りのアップテンポなロックナンバーだ。
イントロが流れた瞬間、部屋の温度がさらに上がる。
「うぉー! 蓮、選曲ナイス!」
「佐伯くん、意外とロックとか歌うんだね! カッコいい!」
女子の一人が目を輝かせて声をかけてくる。
以前の俺なら、こんな状況は考えられなかった。
美月以外の女子と話すだけで、後で美月から一時間近い説教と尋問が待っていたからだ。
『あの子のこと見てたでしょ?』『私より楽しそうだった』
そんな重苦しい鎖は、もう存在しない。
俺はマイクを握り締め、腹の底から声を張り上げた。
歌詞の通りに叫び、リズムに乗って体を揺らす。
喉が震え、全身の血が巡る感覚。
楽しい。ただ純粋に、楽しい。
誰かの顔色を伺う必要も、スマホの通知を気にする必要もない。
この瞬間、俺はただの一人の高校生として、青春のど真ん中にいた。
一曲歌い終えると、拍手喝采が巻き起こった。
喉の渇きを潤すためにコーラを手に取り、ソファに深々と座り込む。
「やるじゃん蓮。お前、あんな声出るんだな」
隣に座った健太が、ニヤニヤしながら肘で突いてくる。
「久しぶりに大声出したからな。スッキリしたわ」
「だろ? やっぱ人間、溜め込むのは良くねーって。……お、女子たちがデザート頼むってよ。蓮もなんか食う?」
「んー、じゃあパフェでも頼もうかな」
平和で、騒がしくて、愛おしい時間。
俺はこの空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
これが「日常」だ。
俺がずっと犠牲にしてきた、当たり前の幸福だ。
その時だった。
俺のポケットの中で、スマホが短く震えた。
LINEの通知ではない。着信の振動だ。
(ん? 誰だろ)
画面を確認する。
表示されたのは「公衆電話」の文字。
今の時代、公衆電話からかけてくる人間なんて滅多にいない。
塾の迎えを頼む弟か、あるいは何かの緊急連絡か。
俺は少しだけ眉をひそめたが、音楽の音量が大きいため、廊下に出るのも面倒だと感じた。
「悪い、ちょっと電話」
健太に断りを入れて、俺はそのまま通話ボタンを押した。
マイクのスイッチを切り、耳に当てる。
背景では、次の曲のイントロが大音量で流れている。
「はい、もしもし」
俺は明るい声で応答した。
今の楽しい気分のままだ。
『……あ……』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、蚊の鳴くような、掠れた声だった。
ノイズ混じりのその声は、震えていた。
『……蓮……くん?』
心臓が、一瞬だけ嫌なリズムで跳ねた。
聞き間違えるはずがない。
一年半、毎日聞いてきた声だ。
泣き言を言い、甘え、時には俺を責め立ててきた、あのか細い声。
一ノ瀬美月だ。
着信拒否をしたはずだ。
そうか、公衆電話か。
彼女は俺と話すために、わざわざ公衆電話を探してかけてきたのか。
俺の胸中に浮かんだのは、怒りでも同情でもなく、ただ「邪魔された」という不快感だけだった。
せっかくの最高の時間を、なぜ終わったはずの過去に汚されなければならないのか。
俺は、部屋の外に出なかった。
静かな場所で話を聞いてやる義理など、もうこれっぽっちもないからだ。
友人たちが歌うJ-POPのサビが、BGMとしてガンガン鳴り響いている。
その喧騒の中で、俺は冷ややかに言った。
「なんだ、美月か」
俺の声のトーンが変わったことに気づき、健太が不思議そうな顔を向けてくる。
俺は片手で「大丈夫」と合図を送った。
『よ、よかった……繋がった……。蓮くん、私、ずっと連絡したのに……なんで出てくれなかったの?』
美月の声は、泣いていた。
鼻をすする音と、過呼吸気味の息遣いが聞こえる。
かつての俺なら、この声を聞いただけで「どうした? 大丈夫か?」と飛び出していただろう。
だが今の俺には、それが演技がかった「悲劇のヒロインごっこ」にしか聞こえなかった。
「ブロックしたからだよ。別れたんだから、当たり前だろ」
『そ、そんな……。酷いよ……。私、蓮くんに謝りたくて……』
「謝る? 何を?」
『全部……。私、間違ってたの。翔くん……ううん、あの人、最低だった。私のこと全然大事にしてくれなくて、酷いこと言って……私を捨てたの』
嗚咽が混じり、言葉が途切れ途切れになる。
要約すれば、「新しい彼氏にフラれて傷ついたから、慰めてほしい」ということだ。
あまりにも身勝手で、あまりにも幼い。
『私、気づいたの。本当に私のことを愛してくれてたのは、蓮くんだけだったって。蓮くんがいなきゃ、私ダメなの……。ねえ、お願い。会いたい。今すぐ会いに来て……』
彼女は本気で信じているのだ。
泣いて縋れば、俺が以前のように「よしよし」と頭を撫でてくれると。
自分が裏切ったことなど、涙一つで帳消しにできると。
その傲慢さが、今の俺には滑稽で仕方なかった。
俺は、テーブルの上のコーラを一口飲んだ。
炭酸の刺激が喉を通り抜ける。
「ごめん、無理」
短く、明確な拒絶。
『え……?』
「今、友達と遊んでるんだ。すげー盛り上がっててさ。抜けるとか無理だから」
『と、友達……? 私がこんなに辛いのに? 私より、友達の方が大事なの!?』
美月が金切り声を上げる。
その言葉に、俺は思わず失笑してしまった。
「ははっ、何言ってんだよ美月」
俺の笑い声が、受話器を通して彼女に届く。
「当たり前だろ。お前はもう『他人』なんだよ。俺にとって、ここにいる友達の方が一億倍大事に決まってるじゃん」
『他人……? 蓮くん、嘘でしょ? あんなに好きって言ってくれたじゃん! 君しかいないって……』
「言ったよ。あの時はね。でも、それを踏みにじって捨てたのはお前だろ?」
俺は残酷な事実を突きつける。
怒鳴るわけではない。あくまで淡々と、事実確認をするように。
「お前が言ったんだよ。『私にはもっとふさわしい人がいる』って。『蓮くんはただの保護者だ』って。忘れたわけじゃないよな?」
『それは……その場の勢いで……本気じゃなくて……』
「本気だろうが勢いだろうが、言葉は消えないんだよ。それに、お前が望んだことだろ? 『一人で大丈夫』だって」
『大丈夫じゃない! 無理なの! 私、一人じゃ何もできないの! 蓮くんがいないと、私、生きていけないよぉ……!』
子供のような泣き叫ぶ声。
かつては、この依存心こそが俺を縛り付けていた。
彼女には俺が必要なんだという責任感が、俺の目を曇らせていた。
だが今、その声を聞いて思うのは、「重い」という感想だけだ。
桐谷の言ったことは正しかったのかもしれない。
彼女は中身が空っぽで、誰かに寄生しなければ立てない人間なのだ。
そして、その寄生先は、もう俺ではない。
「……なぁ、美月」
俺は少しだけ声を低くした。
友人たちの歌声が、サビのクライマックスを迎えている。
『ずっと友達でいようなんて~♪』
そんな歌詞が、皮肉のように聞こえた。
「俺さ、今すっごく楽しいんだ」
俺は、心からの本音を伝えた。
「お前の機嫌を取らなくていい。夜中に起こされなくていい。好きな時に好きなことができる。お前と別れてから、毎日が最高に充実してるんだよ」
『……やめて……聞きたくない……』
「だからさ、邪魔しないでくれる? 俺、この時間を無駄にしたくないんだわ」
美月の息が止まる気配がした。
彼女の最後の希望──「蓮はまだ私を待っている」という幻想が、粉々に砕け散った瞬間だっただろう。
『助けて……蓮くん……お願い……』
消え入りそうな、絶望に満ちた声。
その声に対して、俺が返せる言葉は、もう一つしかなかった。
彼女の門出に贈った、あの言葉の繰り返しだ。
「頑張れよ、美月。君なら『一人で大丈夫』だろ?」
そして、俺は最後に、最高に優しく、最高に残酷な引導を渡した。
「じゃあね。その大好きな彼氏と、お幸せに」
『待っ──』
俺は通話終了ボタンを押し、即座に電源を切った。
画面が暗転し、美月の存在が完全に遮断される。
俺の手の中で、スマホはただの黒い板に戻った。
ふぅ、と息を吐く。
少しだけ胸が痛むかと思ったが、驚くほど何も感じなかった。
むしろ、最後のゴミをゴミ箱に捨てた時のような、清々しささえあった。
「お、蓮! 電話終わったか?」
健太がマイクを持って振り返る。
俺は満面の笑みで頷いた。
「ああ、終わった。ただの間違い電話だったわ」
「なんだよそれ、紛らわしいな! ほら、次、蓮の番だぞ! 女子からのリクエスト入ってるからな!」
「マジか! よっしゃ、歌うか!」
俺は立ち上がり、マイクを受け取った。
モニターには、アップテンポな応援歌のタイトルが表示されている。
俺は大きく息を吸い込み、リズムに合わせて体を揺らした。
さようなら、美月。
冷たい夜の街で、震えながら俺を呪うがいい。
あるいは、自分の愚かさを悔やんで泣き続けるがいい。
どちらにせよ、それはもう、光の中にいる俺には届かないノイズだ。
俺の歌声が、部屋中に響き渡る。
歓声と手拍子が、俺を包み込む。
これが俺の人生だ。
誰にも邪魔させない、俺だけの輝かしい未来だ。
俺は、もう二度と振り返らない。
***
一方、駅前の公衆電話ボックス。
受話器を握りしめたまま、一ノ瀬美月は呆然と立ち尽くしていた。
『ツーツー、ツーツー……』
無機質な電子音が、耳元で虚しく鳴り響いている。
切られた。
一方的に、容赦なく。
「……嘘……」
唇が震える。
信じられなかった。
あの優しかった蓮が。私のためなら何でもしてくれた蓮が。
「邪魔だ」と言った。
「お幸せに」と笑った。
背後から聞こえてきた楽しげな音楽と、友人たちの笑い声。
彼は本当に、私のことなど微塵も気にしていなかった。
私がここで凍えそうになっている間、彼は暖かい場所で、誰かと笑い合っていたのだ。
「あ……ぁ……」
手から受話器が滑り落ち、ブランとコードで吊り下がる。
カラン、と乾いた音がして、使い切れなかった10円玉が返却口に落ちた。
ガラスに映る自分の顔を見る。
ボサボサの髪。腫れ上がった目。血色の悪い唇。
そこには「学校のマドンナ」の面影など、欠片も残っていなかった。
ただの、捨てられた惨めな女。
「一人で……大丈夫なわけ……ないじゃん……」
美月はその場にしゃがみ込んだ。
コンクリートの床は冷たく、その冷気がスカート越しに肌を刺す。
足元には、誰かが捨てた吸殻と、枯れた虫の死骸が転がっていた。
自分も同じだ、と思った。
桐谷には拒絶された。
蓮には見捨てられた。
学校に行けば、好奇の目と嘲笑が待っている。
家に帰れば、孤独な部屋が待っている。
逃げ場は、もうどこにもない。
「全肯定」という魔法が解けた世界は、あまりにも寒く、暗く、残酷だった。
「助けて……」
誰もいない電話ボックスの中で、美月は小さく呟いた。
しかし、その声に応える者はいない。
彼女が自らの手で切り捨てた「精神的支柱」は、もう二度と戻ってこない。
駅前の喧騒が、ガラス越しに聞こえてくる。
幸せそうなカップルが通り過ぎていく。
世界は、美月を置いてきぼりにして、当たり前のように回っていく。
美月は膝に顔を埋め、声を押し殺して泣き始めた。
その涙が枯れる頃、彼女がどうなっているのか。
それは誰にも分からないし、今の蓮にとっては、知る由もないことだった。
夜風が吹き抜け、公衆電話の明かりだけが、ポツンと彼女を照らし続けていた。




