第3話 砂上の楼閣、崩壊
季節は夏へと移ろい始めていた。
湿気を帯びた生温い風が、校庭の木々を揺らしている。
教室の窓からは、サッカー部の掛け声とボールを蹴る音が聞こえてくる。
その活気ある風景とは対照的に、一ノ瀬美月の心は、どんよりとした曇り空のように重く沈んでいた。
あの日、蓮に連絡が取れないことを知ってから、美月の焦燥感は日増しに強くなっていた。
「全肯定」という安全装置を失った彼女は、不安定な自己を保つために、桐谷翔という新たな柱に必死にしがみつこうとしていた。
だが、しがみつけばしがみつくほど、桐谷の心は離れていく。
それはまるで、握りしめた砂が指の隙間から零れ落ちていくような悪循環だった。
「ねえ翔くん、今週末こそデートしようよ。ずっと部活で忙しかったじゃん」
昼休み。美月は桐谷の席まで出向き、甘えるような声を出した。
周りの女子生徒たちがチラチラと見ているのを感じる。
『あの子、また行ってる』『桐谷くん、ちょっと迷惑そうじゃない?』
そんなひそひそ声が聞こえてくるような気がして、美月は背筋を伸ばし、努めて「愛されている彼女」を演じた。
桐谷はスマホでサッカーの試合動画を見ながら、気のない返事をした。
「今週は予選前だから無理。てか、お前もテスト前だろ? 勉強しなくていいのかよ」
「勉強なんていつでもできるもん。私、翔くんに会いたくて我慢してたんだよ? 少しは私の気持ちも考えてよ」
美月の声に、無意識のうちに非難の色が混じる。
以前なら、ここで蓮が『ごめんね、寂しい思いさせて』と謝り、代わりのプランを提案してくれた。
しかし、桐谷はスマホを机に置き、冷ややかな目で美月を見上げた。
「あのさ、俺はお前の暇つぶし道具じゃねーんだわ。自分の機嫌くらい自分で取れよ」
「え……」
「お前、最近重いよ。LINEもしつこいし。『今何してるの?』とか『私のこと好き?』とか、一日何回送ってくんだよ。ガキじゃあるまいし」
教室が一瞬、静まり返った気がした。
桐谷の声は大きくはなかったが、その鋭利な言葉は、周囲の耳にも届いていたはずだ。
美月の顔から血の気が引いていく。
「重い」。
それは、恋愛において最も言われたくない言葉の一つだ。
「……だって、翔くんが全然連絡くれないから。私、心配で……」
「心配? 信用してないだけだろ。そういうの、マジで疲れるから」
桐谷は再びスマホに視線を戻し、イヤホンを耳に突っ込んだ。
会話終了の合図だ。
美月はその場に立ち尽くすしかなかった。
恥ずかしさと惨めさで、顔が燃えるように熱い。
逃げるように自分の席に戻ると、机に突っ伏して震えを堪えた。
(違う、私は悪くない。翔くんが冷たいのがいけないの)
(蓮くんなら、こんな酷いこと言わなかった)
(なんで……なんで私ばっかりこんな目に遭うの?)
彼女の中で、被害者意識が膨れ上がっていく。
自分は愛されるべき存在であり、大切に扱われるべきヒロインのはずだ。
それなのに、現実は理想とかけ離れていく。
そのギャップを埋めるために、彼女はさらに桐谷への執着を強めていった。
***
数日後の放課後。
事態は最悪の形で破裂した。
その日、美月は部活終わりの桐谷を待ち伏せしていた。
昇降口の陰に隠れ、彼が出てくるのを待つ。
手には、手作りのお弁当が入った包みを持っていた。
料理なんて得意ではなかったが、ネットでレシピを調べ、早起きして作ったものだ。
これを渡して、健気な彼女をアピールすれば、きっと彼も喜んでくれる。
そして、「やっぱり美月はいい女だな」と見直してくれるはずだ。
そんな浅はかな期待を胸に、彼女は一時間以上も立ち続けていた。
ようやく、部活のジャージを着た桐谷が、チームメイト数人と談笑しながら出てきた。
「翔くん!」
美月は笑顔を作り、彼の前に飛び出した。
桐谷たちが足を止める。
「……なんだ、美月か。まだ帰ってなかったのかよ」
桐谷の表情は、明らかに「面倒くさい」と語っていた。
チームメイトたちが気まずそうに顔を見合わせ、ニヤニヤしながら少し離れる。
「うん、翔くんに渡したいものがあって。これ、お弁当作ってきたの! 練習後でお腹空いてるかなって」
美月は包みを差し出した。
ピンク色の可愛らしい風呂敷に包まれた、重箱のような弁当箱。
家庭的で献身的な彼女。完璧な演出のはずだった。
しかし、桐谷はそれを受け取ろうとしなかった。
彼は呆れたようにため息をつき、頭をかいた。
「はぁ……。お前さ、空気読めよ」
「え?」
「これから部活の連中と飯食いに行く約束してんだよ。そんな重いの渡されても困るんだけど」
「で、でも、一生懸命作ったんだよ? 卵焼きとか、翔くんの好きな甘い味付けにして……」
「だから、頼んでねーじゃん」
桐谷の声が一段低くなる。
そこには明確な苛立ちがあった。
「あのさ、美月。お前、自分のことばっかだな」
「え……?」
「俺のためとか言いながら、結局『弁当作って健気な私』を認めてほしいだけだろ? 押し付けがましいんだよ、その善意」
美月の手が震え始める。
周りの視線が痛い。
チームメイトだけでなく、下校中の他の生徒たちも足を止めてこちらを見ている。
「そ、そんなことないよ……。私、ただ翔くんに喜んでほしくて……」
「じゃあ、俺が今『いらない』って言ってるんだから、引くのが正解だろ。なんでそこで『でも』とか食い下がるわけ? そういうところがウザいって言ってんの」
ウザい。
決定的な一言が、美月の心臓を貫いた。
彼女の目から、大粒の涙が溢れ出す。
泣けば許される。泣けば相手が折れる。
それは蓮との関係で培われた成功体験だった。
しかし、その涙は桐谷の神経を逆撫でするだけだった。
「泣けば済むと思ってんのかよ。……お前、中身空っぽだな」
桐谷は冷酷な目で美月を見下ろした。
その目は、人間を見ている目ではなかった。
道端の石ころや、邪魔な雑草を見るような、無機質な目だった。
「顔は可愛いけど、それだけ。中身はただの『かまってちゃん』じゃん。佐伯って奴がどんだけお守りしてたか知らねーけど、俺はお前の親じゃねーよ。カウンセラーでもねーし」
佐伯。
蓮の名前が出た瞬間、美月の体がビクリと跳ねた。
そうだ、蓮なら。蓮ならこんな時、優しく涙を拭いてくれた。
『美月が頑張って作ったんだね、ありがとう』と、どんなに不格好な弁当でも喜んで食べてくれた。
「……蓮くんは、優しかったもん」
思わず口をついて出た言葉。
それは、現在の彼氏に対して言ってはいけない禁句だった。
桐谷の表情から、完全に温度が消えた。
「ああ、そう。じゃあそいつの所に戻れば?」
「え……?」
「俺、もう無理だわ。お前みたいな自立してない女、付き合ってらんねー。別れようぜ」
別れよう。
その言葉は、あまりにも軽く、そして鋭く放たれた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 嘘でしょ? 謝るから! 私が悪かったから!」
美月は慌てて桐谷の腕を掴もうとした。
だが、桐谷はその手を冷たく振り払った。
「触んな。……あーあ、俺も見る目なかったな。顔につられて損したわ」
桐谷は吐き捨てるように言い残すと、美月を一瞥もせずに背を向けた。
チームメイトたちが「おー、翔、マジかよ」「泣かせちゃったじゃん」と茶化しながらついていく。
彼らの笑い声が、遠ざかっていく。
美月は、昇降口の真ん中で一人、取り残された。
手には、行き場を失ったお弁当。
足元には、粉々に砕け散ったプライド。
周囲の視線が、針のように突き刺さる。
『フラれたんだ』『ざまぁみろ』『あの子、勘違いしてたもんね』
幻聴なのか現実なのか分からない嘲笑が、頭の中を反響する。
「う……うぅ……」
美月はその場に崩れ落ちた。
足に力が入らない。
涙が止まらない。
視界が歪み、世界がぐるぐると回る。
過呼吸の発作が起きそうになり、彼女は必死に胸を押さえた。
怖い。
一人が怖い。
誰か助けて。誰か私を肯定して。
誰か「君は悪くない」と言って。
「……蓮くん」
喉の奥から絞り出したのは、やはりその名前だった。
桐谷に拒絶され、周囲に見世物にされ、自己肯定感がマイナスまで急落した今、彼女の心に浮かぶのは、かつて自分を全肯定してくれた唯一の存在だけだった。
「蓮くん、助けて……」
美月は震える手でスマホを取り出そうとしたが、指が滑ってコンクリートの床に落としてしまった。
画面にヒビが入る。
それはまるで、彼女の今の心の有り様を映し出しているようだった。
***
翌日から、一ノ瀬美月は学校に来なくなった。
部屋に引きこもり、カーテンを閉め切り、布団の中でうずくまるだけの日々。
母親が心配して声をかけてくるが、「放っておいて」と叫んで追い返す。
彼女の頭の中では、桐谷の言葉がリフレインしていた。
『中身空っぽ』
『ウザい』
『親じゃねーよ』
それは、彼女が心の奥底で恐れていた真実だった。
自分には何もない。
可愛くなった外見も、自信に満ちた振る舞いも、すべて蓮という土台の上に築かれたハリボテだった。
土台がなくなれば、城は崩れ落ちる。
当然の帰結だった。
(私が悪かったの?)
(ううん、違う。翔くんが冷たいだけ。周りが意地悪なだけ)
自己防衛のために他責思考に逃げ込もうとするが、心の空洞は埋まらない。
孤独感が、冷たい水のように足元から浸食してくる。
スマホを見る。
桐谷の連絡先は消していないが、彼から連絡が来ることは二度とないだろう。
SNSを開けば、学校の噂話が目に入るかもしれない。
「一ノ瀬美月、捨てられたってよ」「学校来れないらしい」
そんな書き込みを見るのが怖くて、彼女はネットを遮断した。
完全なる孤立。
暗闇の中で、美月は一つの光を求めていた。
佐伯蓮。
彼だけが、この暗闇から私を救い出してくれる。
彼なら、今のボロボロになった私を見ても、きっと優しく抱きしめてくれるはずだ。
『大丈夫だよ、美月。俺がいるよ』
そう言ってくれるはずだ。
(だって、蓮くんは私を愛してたもん。一年半も、あんなに尽くしてくれたんだもん)
(私が「戻りたい」って言えば、きっと喜んで受け入れてくれる)
それは、溺れる者が藁をも掴むような、あまりにも都合の良い妄想だった。
しかし、今の美月にとって、それが唯一の希望であり、精神を繋ぎ止める最後の蜘蛛の糸だった。
彼女は自分が蓮にした裏切りを、都合よく矮小化していた。
「ちょっとした過ち」「若気の至り」。
誠心誠意謝れば、元通りになれる。
なぜなら、彼は「優しい蓮くん」なのだから。
「電話……しなきゃ」
美月はヒビの入ったスマホを握りしめた。
ブロックされていることは知っている。
でも、手段はあるはずだ。
公衆電話からかければいい。
あるいは、別の番号を使えばいい。
ベッドから這い出し、鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、かつての「学校のマドンナ」の面影もない、髪はボサボサで目が腫れ上がり、顔色の悪い幽霊のような少女だった。
これが本来の私。
蓮がいなければ、私はただのこれっぽっちの存在。
「……蓮くんの声が聞きたい」
その欲求だけが、彼女を動かしていた。
彼女は震える手で着替え、帽子を目深に被り、夜の街へと出る準備を始めた。
外に出るのは怖い。人の目が怖い。
でも、それ以上に、この孤独が耐えられなかった。
彼女はまだ知らなかった。
蜘蛛の糸の先には、極楽など存在しないことを。
彼女がこれから聞くことになる声が、救いの言葉ではなく、地獄への引導であることを。
砂上の楼閣は既に崩壊し、残っているのは瓦礫の山だけだということに、彼女はまだ気づいていなかった。




