第2話 解放された日常、満たされない渇望
美月と別れてから、一週間が経過した。
結論から言えば、俺の人生は劇的に好転していた。
大袈裟な表現ではなく、文字通り世界の色が変わったと言ってもいい。
「おーい、蓮! お前、マジで強くなってんじゃん! 前はあんなにヘタクソだったのに」
放課後のゲームセンター。
対戦格闘ゲームの筐体を挟んで、友人の健太が悔しそうな声を上げる。
画面の中では、俺が操作するキャラクターが、健太のキャラクターを完膚なきまでに叩きのめして「K.O.」の文字が浮かんでいた。
「お前が弱くなったんじゃないか? 健太」
「違げーよ! お前の反応速度が上がってんだよ。……てかさ、お前最近、顔つき変わったよな」
健太は小銭を追加投入しながら、しみじみと言った。
「顔つき?」
「ああ。なんつーか、生気が戻ったっていうか。美月ちゃんと付き合ってた頃は、いつも何かに追われてるみたいで、スマホばっか気にしてたじゃん。『あ、ごめんLINEきた』って会話中断されるし。今はそれがないから、一緒にいて楽しいわ」
健太の言葉に、俺は苦笑するしかなかった。
確かにその通りだ。
かつての俺は、美月という名の「要介護者」を支えることに全リソースを割いていた。
デート代、プレゼント代、そして何より膨大な時間と精神力。
放課後は彼女の悩み相談(という名の愚痴聞き)に付き合い、休日は彼女が行きたい場所へ連れて行き、彼女が望む言葉を吐き続ける機械になっていた。
「……まあ、憑き物が落ちたってやつかな」
「ははっ、違いねえ! 憑き物にしては極上の美少女だったけどな。ま、俺はお前の今の顔の方が好きだぜ。ほら、次行くぞ!」
健太との他愛ない会話。
ゲームの電子音。
周囲の喧騒。
そのすべてが心地よい。
以前なら、ゲームをしている最中でもポケットの中のスマホが震えるたびに心臓が跳ね上がり、美月からの「辛い」「死にたい」「助けて」というメッセージに怯えていた。
だが今は、スマホは鞄の底で静かに眠っている。
俺を縛る鎖は、もうどこにもないのだ。
ゲームセンターを出た後、俺たちはラーメン屋に入った。
こってりとした豚骨スープの匂いが食欲をそそる。
俺は奮発して「全部乗せ」を注文した。
財布の中身を気にする必要もない。
美月とのデート代が浮いた今、高校生の俺にとっては大金とも言える金額が手元に残っている。
「うめぇ……!」
熱々のスープを一口飲み、俺は心からの声を漏らした。
ただのラーメンが、こんなにも美味いなんて。
自分の稼いだバイト代を、自分のためだけに使い、自分が美味いと思うものを食べる。
そんな当たり前のことが、これほどの幸福感をもたらすとは知らなかった。
「蓮、今度の日曜、クラスの連中でカラオケ行くけど来るよな? 女子も何人か来るらしいぞ」
「おう、行くよ。たまには騒ぎたい気分だしな」
以前なら即座に断っていた誘いだ。
美月が「他の女の子がいる場所に行かないで」と不機嫌になるからだ。
だが今の俺には関係ない。
俺は自由だ。
誰に遠慮することなく、青春を謳歌する権利がある。
ラーメンの湯気の向こうで、俺はこれからの日々に思いを馳せた。
新しい趣味を見つけようか。
バイトを増やして、欲しかったバイクの免許を取ろうか。
勉強に本腰を入れて、志望校のランクを上げてみようか。
可能性は無限に広がっている。
俺の人生は、ようやく俺の手に戻ってきたのだ。
***
一方その頃。
一ノ瀬美月は、駅前の華やかなカフェにいた。
向かいに座っているのは、新しい恋人である桐谷翔だ。
窓際の席、夕日に照らされたラテアート、そして学校一のイケメン彼氏。
インスタグラムに投稿すれば、間違いなくクラス中の女子から「いいね」と羨望のコメントが殺到するシチュエーションだ。
「ねえ翔くん、見て見て。このケーキ、すっごく可愛くない?」
美月はスマートフォンで撮影したばかりの写真を見せる。
桐谷はスマホの画面を一瞥し、ストローを口にくわえたまま短く答えた。
「ん、うまそうじゃん」
「……それだけ?」
「え、他に何があんの? 食えば?」
桐谷の反応は、あまりにも淡白だった。
美月の中で、小さな違和感がチクリと刺さる。
(蓮くんなら……)
無意識のうちに、比較してしまう。
もしこれが蓮だったら。
『本当だ、すごく可愛いね。でも美月の方が可愛いかな』
『美月のセンスっていいよね、写真撮るの上手いし』
そんな風に、ケーキだけでなく、それを選んだ美月のことも、写真の腕前も、すべてをセットで褒めてくれたはずだ。
美月が欲しいのは「ケーキの感想」ではない。「私への称賛」なのだ。
「翔くんってば、もっと気の利いたこと言えないの?」
美月は冗談めかして言ってみる。
少し拗ねたような表情を作れば、相手が慌てて機嫌を取ろうとする──それが彼女の中の「常識」だった。
しかし、桐谷はその「常識」の外にいる人間だった。
「気の利いたことってなんだよ。俺、食レポとか苦手だし。てか、早く食わねーと溶けるぞ」
桐谷は全く意に介さず、自分のアイスコーヒーを飲み干した。
彼はスマホを取り出し、誰かとLINEを打ち始める。
美月が目の前にいるのに、だ。
「……ねえ、誰と連絡してるの?」
「ん? ああ、部活の後輩。明日の練習試合の件」
「ふーん……。デート中なのに?」
「急ぎの用件だからな。悪い」
「悪い」と言葉では言うものの、その視線はスマホから離れない。
美月は胸の奥がモヤモヤするのを感じた。
蓮なら、デート中はスマホなんて絶対に見なかった。
常に美月だけを見て、美月の話に耳を傾け、相槌を打ち、美月が主役である空間を作り上げてくれていた。
(でも、翔くんは蓮くんとは違うもんね)
美月は自分に言い聞かせる。
蓮は優しかったが、それは「弱くて冴えない男」だからこそ、必死に私に尽くしていただけだ。
でも翔くんは違う。
彼は学校の人気者で、サッカー部のエースで、自分という確固たる芯を持っている。
だから、私に媚びたりしない。
そういう「強い男」を選んだのは私自身だ。
彼が私を選んでくれたこと自体が、私のステータスなのだから。
「そうだ、翔くん。今度の週末、映画観に行かない? 新作の恋愛映画、気になってて」
「あー、悪い。週末は部活の遠征だわ」
「えっ、また? 先週も練習だったじゃん」
「しょうがねーだろ、レギュラーなんだから。お前も応援に来るか? 暑いけど」
応援に行く。
つまり、炎天下のグラウンドで、彼が活躍する姿をただ見ているだけ。
もちろん、彼がかっこいいのは知っている。
でも、美月が望んでいるのは「彼のかっこいい姿を見る」ことではなく、「彼にお姫様扱いされる」ことなのだ。
「うーん……日焼けしたくないし、パスかな」
「そ。じゃあまた今度な」
会話が途切れる。
沈黙が気まずい。
以前なら、蓮が必死に話題を探して提供してくれた。
美月はそれに乗っかるだけでよかった。
けれど今は、自分から話題を振らなければ、桐谷は黙々とスマホをいじり続けるだけだ。
「……ねえ、今日の私、どうかな?」
耐えきれず、美月は切り札を切った。
外見を褒めてもらうこと。
それは美月にとって、精神安定剤のようなものだ。
今日は桐谷のために、新しいリップをつけ、スカートの丈も少し短くしてきた。
「可愛い」の一言があれば、このモヤモヤも吹き飛ぶはずだ。
桐谷はようやく顔を上げ、美月を見た。
そして、無造作に言った。
「ん、普通にいいんじゃね?」
「ふ、普通……?」
「変じゃないってこと。似合ってるよ」
それだけ言って、彼はまた視線を外した。
美月の心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちそうになる。
「普通」なんて言葉、一番聞きたくない言葉だった。
蓮なら、髪の巻き方の違いにも、メイクの nuance の変化にも気づき、言葉を尽くして絶賛してくれたのに。
(なんで? なんで褒めてくれないの?)
(私、学校のマドンナなんでしょ? 翔くんの自慢の彼女なんでしょ?)
(もっと大事にしてよ。もっと私を見てよ)
渇望感が、喉の奥からせり上がってくる。
それはまるで禁断症状のようだった。
「全肯定」という甘い蜜を吸い続けてきた彼女にとって、桐谷のドライな対応は、水のない砂漠に放り出されたような苦痛だった。
デートの帰り道。
駅の改札で別れた後、美月は一人で電車に揺られていた。
窓に映る自分の顔は、不満げに歪んでいる。
せっかくのデートだったのに。
一番幸せなはずの時期なのに。
なぜか、心の中は穴が開いたように寒々しい。
(なんか……疲れたな)
ふと、そんな感想が漏れる。
以前は、デートの後は心が満たされて、明日も頑張ろうという気持ちになれた。
それは蓮が、私の心のタンクを満タンにしてくれていたからだ。
でも今は、タンクから燃料が漏れていくだけで、誰も補充してくれない。
帰宅し、自分の部屋のベッドに倒れ込む。
天井を見上げていると、今日の桐谷の態度がフラッシュバックする。
『食えば?』
『普通にいいんじゃね?』
悪気はないのだろう。彼はそういう人間なのだ。
でも、今の美月には、その「悪気のなさ」が残酷な刃となって突き刺さる。
「……蓮くん」
無意識のうちに、その名前を呟いていた。
もし今、蓮に連絡したらどうなるだろう。
『今日の彼氏、全然話聞いてくれなくてムカつくの』
そう愚痴ったら、彼はなんて言うだろうか。
『それは辛かったね。美月は頑張って可愛くしてるのに、見る目がないな』
きっと、そう言って慰めてくれるはずだ。
だって彼は、私がいちばん辛かった時に支えてくれた「絶対的な味方」なのだから。
別れたとはいえ、あんなに私を好きだった彼のことだ。
私が弱音を吐けば、心配して飛んでくるに違いない。
(ちょっとだけ……話聞いてもらおうかな)
(友達として、ね。復縁するわけじゃないし)
美月は自分に言い訳をしながら、スマホを手に取った。
都合のいい思考回路だった。
自分が彼を捨てたこと、酷い言葉で傷つけたことは棚に上げ、「彼はまだ私を待っているはずだ」という根拠のない自信にしがみつく。
そうでもしなければ、今の不安に押し潰されそうだったからだ。
LINEのアプリを開く。
トーク履歴の一覧をスクロールする。
しかし。
「……あれ?」
指が止まる。
ない。
毎日一番上にあったはずの「佐伯蓮」の名前がない。
履歴を遡っても、検索しても、出てこない。
「え、嘘でしょ……?」
心臓が早鐘を打つ。
削除した覚えはない。
ということは、相手がアカウントを変えたか、あるいは──。
美月は震える指で、電話帳を開き、彼の番号を呼び出した。
通話ボタンを押す。
『プー、プー、プー……』
無機質な電子音が響くだけで、繋がらない。
何度かけても同じだ。
着信拒否。
「なんで……?」
スマホを握りしめたまま、美月は呆然とした。
ブロックされている。
あの蓮くんが。
私のことを「君は素晴らしい」と毎日褒め称え、私のために生きていたような彼が。
私を拒絶している?
「そんなの、ありえない……」
美月の中で、「蓮はいつでも戻れる安全地帯」だという前提が崩壊した。
彼は怒ってすらいない。
ただ静かに、私を人生から消去したのだ。
部屋の静寂が、急に恐ろしくなった。
今までは、この静寂を埋めてくれる言葉があった。
どんなに落ち込んでも、スマホの向こうには必ず私を肯定してくれる存在がいた。
それが「当たり前のインフラ」だと思っていた。
だが、そのインフラはもう止まっている。
「やだ……やだ、どうしよう」
美月は毛布を頭から被り、体を丸めた。
桐谷との関係に対する不安。
そして、それを埋めてくれるはずの「逃げ場」が消滅したという事実。
二つの恐怖が、じわじわと彼女の心を侵食し始める。
スマホの画面が光る。
期待して見ると、それはクラスのグループLINEの通知だった。
どうでもいい会話が流れていく。
その中に、蓮の名前はなかった。
美月は知らなかった。
彼女が捨てたのは、単なる「地味な彼氏」ではなく、彼女の精神を支えていた「唯一の柱」だったことを。
そして、その柱を失った天井が、今まさに崩れ落ちようとしていることを。
(翔くんに……もっと好かれなきゃ)
(翔くんが私を認めてくれなきゃ、私には何もない)
焦りが思考を歪めていく。
蓮という支えを失った美月は、今度は桐谷という新しい支えに、より強く、より重く、しがみつこうとしていた。
それが、彼にとって最も嫌われる行為だとは気づかずに。
夜はまだ始まったばかりだ。
しかし美月にとって、その夜は果てしなく暗く、長いものになりそうだった。
彼女のスマホは、もう二度と、彼女が望む甘い言葉を通知することはない。




