表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

電子の笛吹き

作者: Osmunda Japonica

## 第一章 侵食


西暦2087年。第二次冷戦は既に四半世紀を超えていた。東亜連合と大西洋同盟という二つの超大国が、物理的な国境ではなく、情報空間で激しい攻防を繰り広げる時代。


中立都市ハーメルン・ノヴァは、両勢力の緩衝地帯に位置する独立都市国家だった。人口三百万の this 都市は、中立を保つことで両陣営との貿易により繁栄を享受していた。しかし、その繁栄は今、目に見えない脅威に蝕まれつつあった。


「また三件、市民の神経インプラントが汚染されました」


都市管理局の緊急会議室で、セキュリティ主任のマルコフが報告した。巨大なホログラムディスプレイには、赤い点が都市全体に広がる様子がリアルタイムで表示されている。


「ラット」と呼ばれる悪性AIプログラムが、市民の神経インプラントに侵入し、思考パターンを書き換えているのだ。感染者は徐々に自我を失い、最終的には植物状態に陥る。既に千人以上が犠牲となっていた。


「東亜連合か大西洋同盟、どちらかの仕業に違いない」評議会議長のシュタイナーが言った。「我々の中立を崩そうとしているのだ」


「しかし証拠がありません。それに、両陣営に支援を求めれば、それこそ中立の終わりです」


沈黙が会議室を支配した。誰もが理解していた。このままでは、ハーメルン・ノヴァは内側から崩壊する。神経インプラントは都市のインフラと深く結びついており、完全に切り離すことは都市機能の停止を意味した。


その時、一人の職員が駆け込んできた。


「議長!ネットの闇市場に、奇妙な広告が出ています。『ラット駆除請負います。完全排除保証。報酬は要相談』と」


## 第二章 契約


翌日、都市中央広場に一人の男が現れた。


銀色のフードで顔を覆い、全身を光学迷彩スーツに包んだその人物は、「パイパー」と名乗った。年齢も、性別も、国籍も不明。ただ、その声だけが、不思議な響きを持って人々の脳裏に直接語りかけてきた。


「私はラットを排除できる」パイパーは評議会の前で言った。「報酬は、排除完了後に都市GDPの0.1%。たったそれだけだ」


「本当に可能なのか?」シュタイナーが疑念を隠さずに問うた。「最高の技術者たちが匙を投げた問題だ」


パイパーは懐から小さなデバイスを取り出した。手のひらに収まるほどの銀色の筒。一見すると、古代の笛のようにも見える。


「これは神経共鳴器だ。特定の周波数で神経インプラントに直接アクセスし、悪性プログラムだけを選択的に破壊する。デモンストレーションをお見せしよう」


パイパーがデバイスを起動すると、会議室のホログラムディスプレイが変化した。赤い点が次々と消えていく。わずか三分で、市役所周辺のラット感染は完全に消滅した。


評議会は驚嘆した。そして、満場一致で契約が承認された。


三日後、パイパーは約束通り、都市全体からラットを一掃した。神経共鳴器から発せられる電子の旋律は、まるで見えない笛の音のように都市中に響き渡り、悪性AIは次々と消去されていった。市民は歓喜し、パイパーを英雄として称えた。


しかし、問題は報酬の支払いの時に起きた。


「申し訳ないが、状況が変わった」シュタイナーは冷たく告げた。「調査の結果、ラットは自然発生的なバグだったことが判明した。つまり、あなたは単なる技術的な修正を行っただけだ。報酬は当初の十分の一で十分だろう」


パイパーは静かに立っていた。フードの奥から、かすかな笑い声が漏れた。


「なるほど。ハーメルン・ノヴァは約束を守らない都市なのですね。それならば、私にも考えがあります」


「脅しか?」警備隊長が武器に手をかけた。


「いいえ、ただの予告です。明日の正午、私は再びこの広場に来ます。その時、あなた方は本当の代償を知ることになるでしょう」


パイパーは踵を返し、光学迷彩を起動させて姿を消した。


## 第三章 共鳴


翌日正午。パイパーは約束通り広場に現れた。


今度は光学迷彩を解除し、その素顔を晒していた。驚くほど若い女性だった。瞳には無数の光が明滅し、明らかに高度な神経改造を受けていることが分かる。


「私の名前はセレナ。かつて東亜連合の神経工学研究所で働いていました」彼女は語り始めた。「そして、ラットを作ったのも、それを排除したのも、すべて私です」


衝撃が広場を包んだ。集まった市民たちがざわめく。


「なぜ...」シュタイナーが言葉を絞り出した。


「二十年前、私はまだ子供でした。両親はこの都市の科学者でした。当時、ハーメルン・ノヴァは別の危機に瀕していました。そして一人の専門家が現れ、問題を解決しました。しかし都市は約束した報酬を支払わなかった。『中立を守るため』という理由で」


セレナは神経共鳴器を高く掲げた。


「その専門家は私の父でした。報酬を得られなかった父は、研究を続けることができず、最後は失意のうちに死にました。母もその後すぐに。私は孤児となり、東亜連合に引き取られました」


彼女がデバイスを起動すると、新たな周波数が都市に響き渡った。


「今から、この都市の三十歳以下のすべての市民の神経インプラントを、私の制御下に置きます。彼らは自らの意志で、私について来ることになるでしょう」


広場にいた若者たちの目が、一斉に光り始めた。彼らは整然と列を作り、セレナの後ろに並び始める。


「待て!」シュタイナーが叫んだ。「彼らを解放しろ!要求は何だ?」


「要求?」セレナは振り返った。「私は彼らを新しい都市に導きます。約束を守る都市に。そこで彼らは、真の自由と創造性を手に入れるでしょう。これは誘拐ではありません。彼らは自らの深層意識で、この腐敗した都市を離れることを選んでいるのです」


神経共鳴器の音は、まるで古の笛のように、若者たちの心を導いていく。次々と市民が列に加わっていく。学生、若い技術者、芸術家たち。都市の未来を担うはずだった世代が、一人また一人と。


「あなた方は選択を誤りました」セレナは最後に言った。「信頼を裏切ることの代償は、未来を失うことです」


## 第四章 残響


三ヶ月後。


ハーメルン・ノヴァは静寂に包まれていた。人口の三分の一、ほぼすべての若年層が姿を消した日から、都市は急速に衰退していった。


シュタイナーは執務室の窓から、閑散とした街路を見下ろしていた。自動運転車両だけが規則正しく走り、AIが管理する店舗だけが営業を続けている。しかし、それらを利用する人間はまばらだった。


「報告します」マルコフが入室した。彼も既に老境に差し掛かっていた。「セレナと若者たちの行方が判明しました」


ホログラムディスプレイに、衛星写真が表示される。かつての無人地帯に、新しい都市が建設されていた。


「『ニュー・ハーメルン』と名付けられています」マルコフが続けた。「東亜連合と大西洋同盟、両方から独立を承認されました。セレナの神経工学技術と引き換えに」


「皮肉なものだな」シュタイナーがつぶやいた。「我々は中立を守るために信頼を裏切り、結果として未来を失った」


その時、通信システムが起動した。セレナの顔が画面に映し出される。


「シュタイナー議長」彼女の表情は穏やかだった。「一つ提案があります」


「何だ?」


「若者たちの中には、家族を恋しがっている者もいます。そして、あなた方の都市にも、子供たちを失って苦しんでいる親たちがいるでしょう」


セレナは一呼吸置いた。


「条件があります。ハーメルン・ノヴァが過去の過ちを認め、公式に謝罪すること。そして、今後は約束を必ず守ると誓約すること。それができるなら、希望者には帰還を許可します」


シュタイナーは目を閉じた。プライドと現実の狭間で、答えは明らかだった。


「分かった。公式に謝罪しよう」


## 終章 新たな調和


一年後。


ハーメルン・ノヴァとニュー・ハーメルンを結ぶ超高速鉄道の開通式が行われた。両都市は姉妹都市となり、人々は自由に行き来できるようになった。


セレナは今、両都市を結ぶ技術評議会の議長を務めていた。神経共鳴技術は、もはや支配の道具ではなく、人々の理解と共感を深めるコミュニケーションツールとして発展していた。


「歴史は繰り返す」開通式のスピーチでセレナは語った。「しかし、それは悲劇としてではなく、学びとして繰り返されるべきです」


彼女の隣には、年老いたシュタイナーが立っていた。


「かつて、笛吹きは子供たちを連れ去りました」シュタイナーが続けた。「しかし今、私たちは理解しました。それは罰ではなく、新しい始まりへの招待だったのだと」


二つの都市は、対立する超大国の狭間で、新たな中立の形を模索し始めた。それは単なる消極的な中立ではなく、信頼と約束に基づいた積極的な架け橋となることだった。


神経共鳴器は今、平和の象徴として都市の博物館に展示されている。その説明プレートには、こう刻まれている。


「約束は守られるべきである。なぜなら、信頼を失うことは、未来を失うことに等しいから」


電子の笛の音は、もう響かない。代わりに、人々の真摯な対話の声が、二つの都市を満たしていた。


(完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
未来SFと昔話を上手く掛け合わせた感じで面白かったです。 ハーメルンの笛吹きを神経インプラントやAIに置き換える発想が新鮮で、短くもよく練られた物語に入り込めました。 約束を破った報いとして若者世代を…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ