第9話 体育大会
唄子の負けず嫌いは筋金入りだった。
あれからほぼ毎日私は唄子に付き合わされ、太腿とふくらはぎを襲う筋肉痛に歯を食いしばりながら、とにかく若さと根性で、あの砂浜を走り切った。
特訓の後、沈みゆく夕日に向かって必ず叫んでいた「バカヤロー」も昨日で終わり、とうとう私たちは本番の日を迎えたのだった。
少し風はあるものの、良く晴れた体育大会当日。
丘の上に建つ白い校舎のグラウンドに、たくさんの父兄が集まった。
眼下にコバルトブルーの海を臨む、見晴らしだけは良いこの学校が、これほど賑やかになるのは、この時ぐらいだろう。
「ねえ唄子」
教室で体操着に着替え終えた唄子に、私は他の生徒が出て行ったのを見計らって声を掛けた。
「うん、なに?」
唄子は周囲を確かめてから、小な声で返してきた。
私は片手で唄子の腕を掴みつつ、空いている方の手で唄子の後頭部を指さした。
「ポニーテールにしてるじゃない」
「え? ああ、これね」
唄子はちょっと恥ずかし気に笑いながら、私の指摘に答えてくれた。
「三つ編みは走ってる時けっこううっとおしいんだ。ただそれだけ」
「ふーん、いいじゃないそれ。そっちの方が似合ってるかも」
「そう? なんだか変な感じだし、今日だけなんだけどね」
それから唄子と共にグラウンドに出た私は、父兄の一団の中に家族の姿を探す。
すると、隣にいた唄子が私よりも先に、観覧に訪れていた母をスッと指さした。
「あそこだよ」
周囲を気にしながら、唄子は私にだけ聴こえるよう、そう囁いた。
「あ、ほんとだ」
大きく手を振ると、向こうも私を探していたのか、手を振り返して来た。
「今日はお父さんも観に来てるんだ。お母さんの隣にいる緑のラインの入ったポロシャツを着てるのがそうだよ」
「お父さん、けっこう背が高いね」
唄子ははにかみながら遠目の二人に会釈を送る。
「唄子の方は?」
その問いかけに、唄子は小さく首を横に振った。
「うちは今日は仕事だから」
「そっか。それなら仕方ないよ」
中学生の体育大会ともなると、それほど観覧に集まらないのが普通なのかも知れない。
こっちへ越してくる前の学校ではどうだったのだろう。
唄子からは東京生まれの東京育ちだと聞かされていた。
逆に集まった人の多さに彼女は驚いているのかも知れない。
なんとなく唄子の横顔に目を向けていた時、ノイズ混じりの放送が流れて来た。
「本日はお忙しい中お集まり頂き、まことにありがとうございます。ただいまから風ノ巻中学校、第六二回体育大会を開催いたします」
こうして独特の高揚感の中、体育大会は始まった。
風ノ巻中学の体育大会における八十メートル走は、午前に行われる競技の目玉であった。
とはいっても、主に父兄が盛り上がるだけで、生徒たちの注目を集めているのは一部の陸上部の男子だけだ。
タイム順でグループを割り振りしている関係上、足の速い男子は最終組に登場する。
その中に二宮悠人という女生徒からちょっとモテている男子がいた。
私の知る限り、クラスの女子の半分は二宮派だ。
足が速くって、ちょっと顔の具が整ってはいるが、私には彼の良さがさっぱり分からない。
足が速いだけなら犬の方が早いし、顔の具に関しても、別に本人が努力して手に入れたわけでもない。
何となく周りが囃し立てるものだから、本人も俺ってカッコいいんじゃね。なんて思っていそうな感じが見え見えだ。
と、まあ、私はそんな感じだけれど、女子の人気を集めているのは間違いない。
大概の女子からすれば、それまでに登場する雑兵たちは、所詮前座でしかない。
ましてや、女子の足の遅いグループで競争する私や唄子など、親以外は殆ど関心ないに違いない。
「あやかー! ガンバレー!」
とうとう八十メートル走の順番が回ってきて、私がスタート位置に向かうと、観覧席のお父さんが恥ずかしげもなく声援を送ってきた。
もともと声量のある人なので、その声はグラウンド中に広がった。
やめてー!
私は俯いたままスタート位置に並ぶ。
盛り上がってもいいけど、お願いだから静かに盛り上がって!
スタート前にいらぬ動揺をしてしまった私の腕を、隣のレーンの唄子が指でツンツンと押してきた。
「うん。分かってる」
打ち合わせどおり唄子は、五十センチほどの髪の毛の端を摘まんで準備していた。
私もその端を指で摘まむ。
すると、一気に視界がカラーに変わった。
「頑張ろうね」
私がそう声を掛けると、唄子は無言で頷いた。
スタートラインに立った私たちに緊張の瞬間が訪れる。
「よーい」
そして引き金を引かれた電子式のピストルが、安っぽいスタート音を響かせた。
「いけー!」
お父さんの声が私の背中を押した。夢中でスタートを切った私は、脚を動かしながら髪の毛を摘まんでいた指を放した。
上手くいった。
モノトーンに戻った視界の隅に、腕を振って走る唄子の姿がある。
順調にスタートができたことを確認しつつ、私たちは必死でゴールを目指した。
八十メートル走はあっという間だった。
とにかく前を向いて走っていたので気付かなかったが、私と唄子はグループの女子たちをどんどん引き離し、最終的に一騎打ちのような構図でゴールに走り込んだ。
つまりは、打倒庄司真紀から始まったあの砂浜での地獄の特訓が、私たちを大きく成長させていたということだ。
そして今、一着の旗の前で、唄子は爽快な笑顔を私に向けていた。
周囲にたくさん人がいるので、ひと言も声を発してはいなかったが、その顔には「どうよ!」と書いてあるみたいだった。
そして、唄子に陰口を叩いていた庄司真紀は、6人中5位という残念な結果で競技を終えたのだった。
女子の部が終わって、男子の八十メートル走が始まった。
序盤は退屈だったけれど、後半になるにつれ、走る男子のスピードが明らかに速くなってきた。
最終組は恐らく全員陸上部。
別にモテ男の二宮君を観たいわけでは無いが、わが校最速男子たちの熱い闘いを私もちょっと楽しみにしていた。
生徒の観覧席から男子の走る姿を眺めていると、隣に座る唄子に腕をツンツンされた。
こうしてツンツンされると、モノクロとカラーが交互に入れ替わる。
私は小さく唄子に「どうしたの」と尋ねた。
すると、唄子は腕を取って、そのまま誰もいない校舎の中へと私を引っ張り込んだ。
「なに? どうしたの?」
「いや、ちょっとね。ねえ気付いた? 八十メートル走の最終組の男子に」
「は? 男子って、二宮君のこと?」
その名前を出すと、唄子は軽く首を傾げて見せた。
「なに言ってるの? 最終組に並んでたでしょ。このあいだ彩夏が幼馴染だって言ってた野球部の男子が」
「康太が? ホントに?」
全然気付いていなかった。
勝手にグループ全員陸上部だと決めつけていたけれど、思わぬ野球部の伏兵が潜んでいたようだ。
「ねえ彩夏、応援してあげなよ」
「え? やだよ。恥ずかしい」
「山田君だっけ? この間の練習のとき彩夏が手を振ったら、彼、ちょっと走るペース上がってたよ」
「そう? 多分気のせいだと思うけど」
「なんだか気乗りしないみたいね。あっ、もしかして二宮君を応援してる? ごめん、気付かなくって」
妙な勘違いをして気を回した唄子に、私はすかさず全力で否定した。
「いやいやいや、ナイナイ。ああいう薄っぺらいのには興味ないの」
「なら応援してあげなよ。ひょっとすると打倒二宮のダークホースかも知れないよ」
「まあ、応援ぐらいなら……」
まあ幼馴染だし、応援するくらい別にかまわない。
それに、期待薄ではあるが、野球部の伏兵が陸上部の強者を負かしている様も観てみたい。
まあ、無理だとは思うけど。
そして、私たちがグラウンドに戻ったタイミングで、男子八十メートル走の最終組がスタートラインに並び始めた。




