第8話 青春だな
放課後になって、八十メートル走の練習をするべく唄子に連れて来られたその場所は、延々と続く砂浜だった。
「なんで海なのよ!」
体操着でストレッチをする唄子に、これまた体操着の私が、ややキレかけで抗議する。
「これって昭和の青春ドラマかスポコンに出てくるやつじゃない。砂浜を走るなんて聞いてなかったわ」
「いや、潮風を感じながら、砂浜を走ったら気持ちいいかなーって」
今日は唄子の提案で、一度家に帰ってから自転車をこいでここまで来た。
学校から近い私の家の付近では、誰かに目撃される心配がある。
自分の家からほど近い所に、手頃な場所があるからそこで練習しようと唄子が提案した時に、実はちょっと嫌な予感はしていた。
「確かにここなら人目に付きにくいかもだけど、そうならそうと先に言ってよね」
「潮風と波の音。気持ちいいわー」
まるで人の話を聞いてない。もう裸足になって波打ち際を走る気満々の唄子に、私はさらに不満をぶつける。
「海岸沿いの県道を走るものだとばかり思ってたのに、蓋を開けて見ればこれかい。あのね、砂浜って足を取られて、それはもう大変なの。根性はつくかも知れないけど、尋常じゃなくしんどいんだから」
「そうなの?」
キョトンとした顔の唄子が妙に憎たらしい。
最近こっちへ引っ越してきた唄子には、砂浜の恐ろしさがわかっていないみたいだ。
「あのね、唄子は知らないかもだけど、海は色々大変なんだって。ほら、あのビーチバレーだって一説によれば普通のバレーボールより何倍も過酷だって言うでしょ。つまりビーチバレーがしんどい最大の原因は……」
「えっと、紫外線?」
「人の話、聞いてなかったんかい!」
思わず関西人のようなツッコミをしてしまった。
そして、お気楽な感じの唄子を恨みつつ、用意していた髪の毛を指に括りつけた。
「唄子も括って。一度走ってみないとわかんないみたいだから付き合ったげる。すぐに私の言ってたこと思い知っちゃうんだからね」
「もう、彩夏ったら大袈裟なんだから」
軽く笑い飛ばした唄子に、私はチッと舌打ちをする。
そして、指に髪の毛を括ってから、唄子はまだ冷たい五月の海に足を浸した。
「きゃー、きもちいいー」
「そう言ってられるのも今だけよ」
「よーし、いくよー」
聴こえている筈なのに全く耳を貸さず、唄子は元気よく波打ち際を走り出した。
そのあと私の予言どおり、僅か五分ほどで唄子のはしゃぎ声はビーチから消えたのだった。
走り始めて、おおよそ二十分くらい経たった時点で、二人は砂浜に手をついてへたり込んでいた。
「ハアハア、い、言ったとおりだったでしょ」
肩で息をしながら、私は勝ち誇ったように唄子に声を掛けた。
「ハアハア、い、今は声を掛けないで」
普段大した運動もしていない私たちは、あっという間にスタミナを使い切ってしまった。
傾き始めた夕日が浜辺を照らし、へたり込んだ二人の姿を浮き上がらせる。
大して走っていないが、これだけ見ると本当にスポコンのワンシーンのようだった。
だが、この時の二人には、夕日の美しさに見とれる余裕など微塵も残っていなかった。
「言ったでしょ。これだから砂浜はスポーツに向いてないんだって。唄子もこれでわかったでしょ」
「自然って、思ってた以上に過酷だわ」
「もういいでしょ。ここまでしなくったって庄司さんくらいになら勝てるって」
諭したつもりだったが、何故かその言葉に反応した唄子はガクガクと膝を震わせながら立ち上がった。
あれ? ひょっとして。
「絶対負けないんだから……」
滴る汗を腕で拭った唄子の目には、闘志がみなぎっていた。
どうやら意図せずして、負けず嫌いに火を点けてしまったようだ。
汗だくの唄子は、同じく汗びっしょりの私の腕を掴んで、無理やり立たせた。
「彩夏、私あなたの言葉で目が覚めた。さあ行くわよ」
「もうやだー」
そして私たちは、夕日に向かって再び駆け出した。
それからはまるで我慢大会のようだった。
波の音はきっと穏やかで心地よく、遠くまで続く夕日の砂浜はきっと目を奪われるほど美しかったのだろう。
しかし、息も絶え絶えに脚をもつれさせながら走る二人には、そんな穏やかさや美しさに浸る余裕もない。
執念で砂浜に足跡を付けていく唄子に続いて、ただ一刻も早く、この地獄から解放されたいという一心で私は脚を動かし続けたのだった。
「バカヤロー!」
練習を終えて、汗と潮風でベタベタになった私は、取り敢えず腹に溜まった不満を夕日の綺麗な海に思い切りぶつけておいた。
すると、唄子も真似したくなったのか、同じように海に向かって大声で叫んだ。
「バカヤロー!」
そして、気持ちよく大声を上げた唄子に、私は最後にこう言ってやったのだった。
「馬鹿野郎はあんただっての」




