第7話 負けず嫌いの君
月末に行われる体育大会が来週に近づいてきた。
海を見下ろす丘の上の白い校舎の上空には、今日もカモメの姿があった。
やたらと気温の上がった今日、グラウンドでサルゴリラのしごきに耐えた生徒たちは、解散の合図とともに給水機へ直行し、列を作っていた。
「あち―」
少し遅れて給水機へ向かおうとした私の腕を誰かが掴む。
その瞬間に、モノトーンだった視界がカラフルに彩られた。
「唄子、どうしたの?」
その問いかけに唄子は人差し指を立てて、反対方向にある水道を指さした。
「あっち? 冷たい方がいいんだけど」
ちょっと嫌な顔を見せた私に、唄子は小さく首を横に振ってから、もう一度水道の方を指さした。
「わかったわよ……」
二人並んで、あんまし冷たくない水道水で喉を潤したあと、ようやく唄子が口を開いた。
「来週の体育大会なんだけど……」
「うん。それがなに?」
何だか少しおずおずとした唄子の口ぶりに、私は少し首を傾げる。
見掛けと違い唄子は饒舌だ。近すぎる程の距離で行動を共にしてきた私は、そのことをよく知っていた。
「実は一つお願いがあるの」
「いいよ。唄子のお願いだったら何でも聞いてあげる」
いつもの調子で軽く言ってしまってから、私は心の中で顔をしかめた。
安請け合いをするのは、私の悪い癖だった。
まあいいか……。
内容も聞かず返事をしてしまったことには反省すべきだが、唄子のために出来ることなら何でもしてやりたいと思ったのは本当だった。
「それで、お願いってなに?」
「うん。実はね……」
唄子から聞かされたそのお願いの内容は、ちょっと意外なものだった。
唄子は次の体育大会の八十メートル走で絶対に勝ちたい相手がいて、そのために手を貸して欲しいと言ってきた。
よくよく聞いてみると、その絶対に勝ちたいという相手とは、クラスの中でいつも唄子の陰口を叩いている庄司真紀という女生徒だった。
庄司真紀は唄子が教師たちからいつも気に掛けてもらえているのが目障りなようで、この前の席替えの時も、わざわざ唄子の席のすぐ近くで唇の動きを読まれないよう背を向けて、嫌味をさんざん言っていた。
本人は夢にも思わないだろうが、そういった日常的な陰口は、二人で最近発見した髪の毛による限界突破作戦で、なにもかも筒抜けだった。
唄子は聴こえないふりをしながら、日々モヤモヤを貯め込んでいたのだろう。
「庄司さんか。いやな奴だけど、そんなに競争で勝ちたいの?」
「うん。あの子には絶対負けたくない」
「フーン、でもあの子って大して足速くないよ」
相談を受けつつ、私の頭の中には「?」マークが浮かんでいた。
「ねえ、それでいったい私は何をすればいいわけ?」
「うん。実はここからなの」
そして唄子は分かり易いよう順を追って説明し始めた。
「サルゴ……塩田先生って、スタートの係だよね」
「そう言えばそうかも。因みに、いまサルゴリラって言いかけてなかった?」
聞き流さずに指摘すると、唄子は「へへへ」と笑って誤魔化した。
「私たち最近、髪の毛を使って頻繁に限界突破してるでしょ。男子がしょっちゅう塩田先生のいない所でそう呼んでるのが耳に入って来ちゃって」
「まあ、あの顔と雰囲気はいかにも祖先って感じだし、仕方ないよね。で、そのサルゴ……塩田先生がどうしたの?」
言い直した私に唄子はクスクス笑い声を上げて、また説明を再開した。
「つまりね、先生ってあんましスタート上手くないの。あの電子式の銃って音しか出ないじゃない」
「うん。確かに」
「先生は私のために反対側の手に持った旗を振り下ろしてくれるんだけど、毎回ワンテンポ遅れるのよ」
「フンフン、成る程ね。つまり、限界突破している状態でスタートラインに立てれば音に反応してスタートを切れる。そうゆうことよね」
「正解。さすが相棒。話が早い」
先週タイム順で発表された八十メートル走の組み合わせでは、私と唄子は同じ組だった。そしてもちろん庄司真紀も。
唄子は授業中のタイムトライアルで庄司真紀に僅差で負けていたらしい。しかし、もし唄子のスタートが順調ならば、恐らく二人はいい勝負だろうと想像できた。
「了解。じゃあ本番は限界突破ということで」
意外と大したことの無かった唄子のお願いを聞き終えて、私が校舎へ戻ろうとすると……。
「ちょっと待って」
グイと腕を掴まれて引き止められた私は、ちょっと面倒くさそうに振り返る。どうやら話はまだ終わってなかったようだ。
「なに? まだ何かあるの?」
「まあ、ちょっとね。あのね私、勝利の方程式を完璧にしたいんだ」
「と、言うと?」
「つまりね、八十メートル走に向けてちょっと練習しよーかなーって思ってて」
「いい心掛けね。じゃあ頑張って」
「だから、ちょっと待ってって」
再び引き止められて渋々振り返る。実はその先を聞きたくなかった。
「なんだか一人で練習するのもヤダなーって。ほら、二人でなら彩夏だって綺麗な景色を眺めながら走れるでしょ。体力もついて、気持ちいい汗もかけて、ひょっとするとグループで一等賞獲れちゃうかも知れないよ」
別に体力を付けたくもないし、ベタベタするから汗もかきたくない。そして八十メートル走の一等賞には何の魅力も感じない。
しかし、願いを聞いてやると言った手前、断ることも出来ない。
「わかった。付き合えばいいんでしょ」
「ホント? やった!」
なんだか嬉しそうな唄子の顔を眺めながら、私は唄子の性格を見くびっていたことを反省していた。
ほんの少し前まで、控えめで大人しい子だと思い込んでいたこの相棒は、お喋りで頑固者で、おまけに負けず嫌いだった。




