第5話 席替えの日
目覚ましが鳴る前に朝目覚めるのは久しぶりだ。
きっと今日も特別な一日になる。その期待感から、アラームの鳴る三十分前にこうしてパチッと目が開いたわけだ。
こうして見ると、この部屋には明るいものが多い。
唄子がいない今、この部屋には昨日目にした鮮やかさは存在しないけれど、記憶に焼き付いたこの部屋の景色は、明るくてどこか暖かだった。
モノトーンの世界に生きている自分には、微妙なグラデーションの色彩を持つものはそれほど意味を成さない。
それは、はっきりとした模様であったり、はっきりとした明暗であったり、そういった分かり易いもの以外は判別し辛いからだ。
癒し効果のある微妙な色合いの壁紙なども、私の世界ではその役割を果たせない。
ただ、白いものは自分の目には眩しく映るので、あまり白々しい部屋の中というのも落ち着かない。従って真っ白ではない程度の壁紙をこの部屋では採用している。
それが薄いピンク色だったというのは、かなりの驚きだったけれど、それを選んだ母のチョイスは、そこそこストライクで間違いなかった。
「今日はどんな一日かな」
私は唄子の顔を思い浮かべながら部屋を出た。
お昼休み、いつもと同じベンチで並んでお弁当を食べながら、私は饒舌な唄子の話をぼんやりと聴いていた。
「ねえ聞いてる?」
「うん。聞いてるよ」
そう返しつつ、実は花壇の上を舞っている二匹の蝶に気を取られていた。
「ごめん。ちょっと上の空だったかも。実はそこの蝶々が気になって」
「蝶? あの白いのと黄色いやつ?」
「うん。なんだか綺麗で見とれちゃってた」
鮮やかな花壇の緑と青い空。
黄色と白がクルクルと入れ替わりながら舞っているのが、ただ美しかった。
「ずっと、色のついたままならいいのにな……」
独り言のような私の言葉に、唄子は箸を止めた。
そしてしばらく黙り込んだあと、唄子はゆっくりと口を開いた。
「こうしてくっ付いていれば、私たちはハンデを克服していられる。ねえ志藤さん。あの日以来ずっと自分たちに起こったことを解明しようとしてたけれど、それは後回しにして、この状態を上手く保つ方法を優先的に調べない?」
「調べる? 触れていたらいいだけだよね」
単純明快にそう返した私に、唄子はやれやれといった顔をした。
「そうだけど、どの程度触れたらいいのかとか、全然わかって無いじゃない。実際いま、制服越しに触れている状態でこうして話が出来ているわけでしょ。つまり肌の接触がなくともこの状態になるってことよ」
「確かに……」
そう言われればその通りだ。どうして今まで気付かなかったのだろう。
「発動条件を調べていけば、直接の接触という手段以外の方法も見つかるかも知れない。そう思わない?」
饒舌に持論を語った唄子に、私は惜しみない拍手を送った。
「思う思う。それ、早速調べて行こうよ」
それから二人は急いでお弁当を食べ終えて、謎の解明を始めたのだった。
五月に入ったら席替えを行う。
担任の柴田先生は連休前に宣言していたことを、今日やると言い出した。
現在、私の席と唄子の席は結構離れている。
唄子は教壇の斜め前の席で、私は廊下側の後ろから二番目の席だ。
授業中、教師の口の動きに集中しなければいけない唄子は、常に前の方の席に座る優先権を持っている。
つまり、自分よりも背の高い生徒が前にいたら、読唇術で授業内容を読み取れないのだ。
なんてすごいスキルなのだ。そう思う。
昨日教えてもらったのだが、唄子が言うには、読唇術には想像力が欠かせないらしい。教科書に書いてある内容や、黒板にリアルタイムで綴られる事柄から、ある程度教師の発言内容を想像し、絞り込んでいくのだ。
また、授業ではない普通の日常で読唇術を使う場合は、口元だけでなくその表情の変化にも着目し、どういった言葉を選択するのかを絞り込むのだと言う。
昨日、超能力の話題になった時にテレパシーなどと雲を掴むような話をしたが、こっちの方はリアルに凄いスキルだと真面目に唸らされた。
「鳴瀬、お前は同じ席でいいか?」
突然話しかけられたからだろう、唄子はもう一度とお願いしますというニュアンスの手話を先生に返した。
「ああすまん。席替えをするが、お前はそこでいいか?」
今度は理解したのか、唄子は首を横に振って見せた。そして、今座っている席のもう一つ窓側の席を指さした。
「分かった。じゃあお前はそこな」
担任の柴田は四十代の男性教師だ。数学の教師だが体を動かすのが好きらしく、いつもちょっと日に焼けているどこかしら体育教師っぽい先生だった。
客観的に見て、ちょっともっさりしているものの、柴田は良い先生だと私は評価していた。
五つ星評価なら、星3つともう半分あげてもいい。
授業はいつも眠たくなるが、先生はいつもいい距離感で生徒たちと接してくれる。丁度自分たちと同じくらいの娘がいるという話をしていたので、自然とそういった感覚が身についているのかも知れない。
「じゃあ席替えするぞー」
そう宣言した先生は、小ぶりな段ボール箱を教壇の上に乗せた。
「この中に席の番号を入れた紙を折り畳んで入れてある。一人ずつ引いていけ」
先生がそう声を掛けた時、唄子は私を振り返った。
もう、分かってるわよ……。
唄子の視線に促され、私はおずおずと手を上げた。
「あのー」
席替えで盛り上がっていた矢先、突然水を差した女生徒に、クラス全員の視線が集まる。
「どした? 志藤」
先生は一旦、席替えの進行を止めて、手を挙げた私の方を向いた。
私は喉の渇きを覚えつつ、口を開いた。
「あの、私、実は少し手話を勉強してまして……と、言ってもまだまだなんですけど……」
「ほう、手話を、それで?」
何だか歯切れの悪い私に、先生は腕を組んで少し首を傾げた。
「それでその……鳴瀬さんのアシスト、出来たりしないかなあ、なんてちょっと思ってて……」
先生はようやく察したようで、明るい笑顔を見せた。
「なんだ、そういうことか。もっと早く言いなさい」
「すみません……」
にこやかな先生とは対照的に、クラスの皆はなんだか訝し気な顔を私に向けていた。
それはそうだろう。普段特に彼女と仲良くしている印象のない私が、突然こんなことを言いだしたのだから。
「志藤、おまえは鳴瀬の隣だ。それでいいな」
「はい……」
「よーし、あとの奴らはみんな順番にくじを引けー」
赤面したまま席に着いた私を、唄子が振り返る。
小さくナイスと口を動かした唄子に、私はグッ握ったこぶしの親指を立てて返した。
「上手くいったね」
放課後の海岸沿いの通学路。並んで歩いていた唄子は、周囲に誰もいないのを確認してから、弾むような声を上げた。
「もう、めっちゃ緊張したじゃない」
ご機嫌な様子の唄子に、私はわざと恨みがましいような顔を向けてやった。
実は予め、席替えをする時は席を近づけようと、二人で計画を立てていた。
つまり、お互いが近くの席にいれば、その気になれば接触は容易にできる。例えば教科書を忘れたふりをして席をくっ付ければ、誰にも気付かれることなく、とても自然に、二人はハンデを克服できるのだ。
「鳴瀬さんの計画どおり、ああは言ったけど、私、殆ど手話なんてできないよ」
「いいのよ。これから勉強すればいいだけのことじゃない」
その場の方便で済むと考えていた私は、サラリと返した唄子に、もの凄く渋い顔を向けた。
「え? まじで? やんないといけないの?」
「うふふふ。クラス全員の前で宣言しちゃったし、もう引っ込みつかないよね」
「まじかー」
もしかして最初から私に手話を覚えさせようとしてた?
真意はどうあれ、上機嫌な唄子の横顔からは、確信犯の雰囲気がプンプン漂っていた。
「唄子の……せいだからね」
仏頂面のまま初めて下の名前で呼んだ私に、唄子は驚いたような顔をした。
「ごめん。でもちゃんと手話、マスターしようよ。ね、彩夏」
初めてお互いに下の名前で呼び合った私たちは、少し恥ずかしげな顔を見せあう。
二人で歩く海岸沿いの通学路は、とても鮮やかでどこかドラマティックだった。




