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第42話 祖母と家政婦

 合宿を終えて一週間が経った。

 八月半ばの暑さはとにかく半端ない。

 見慣れた海岸線には青い空とコバルトブルーの海。

 やかましいくらいのクマゼミが、自転車をこぐ私の気分をさらに暑苦しくする。

 私と唄子はこの一週間、お互いの家に行き来し、夏休みの宿題をコツコツやっていた。

 そして今日は、私が唄子の家へと自転車を走らせていた。


「あっつい」


 額から汗をダラダラ流しつつ、インターフォンのボタンを押すと、しばらくして唄子が涼しい顔で出てきた。

 唄子は私の手を取って中に招き入れる。


「暑かった?」

「見たらわかるでしょ」


 自転車を広い庭に適当に停めて、唄子に続いて大きな屋敷に足を踏み入れると、家政婦の美津江さんがにこやかに迎えてくれた。


「いらっしゃいませ、彩夏さん」

「おはようございます」


 もう何度か唄子の家にお邪魔しているが、この家政婦の美津江さん以外の人を私は見たことが無かった。

 母親は仕事が忙しく留守がちだと聞いていたので、きっと今日も不在なのだろう。

 唄子は手話で何やら美津江さんとやり取りした後、私をエアコンの効いた自分の部屋へと案内した。


「ご両親は今日も仕事?」

「うん。母はたいがい出掛けてるの」


 何気ない返答に、私は少し引っ掛かりを覚える。

 そう言えば、唄子はあまり両親のことを話さない。また、母親のことはたまに聞かされるが、父親に関することを私は聞いたことが無かった。

 きっとその辺りは、あまり詮索しない方がいいことなのだろう。


「それにしても、唄子の家ってでっかいよね。美津江さん、掃除大変そうだね」

「掃除は週に一度、専門の業者が来てくれるの。美津江さんには普段使いの部屋をいつも綺麗にしてもらってるわ。あと美津江さんには……」


 言葉の途中で、唄子はパッと私の手を放した。


 トントントン


 ノックの音がして、大きなドアノブが何度か動いた。

 こうしてこの特徴的なドアノブを何度か動かすことで、美津江さんは入室の意図を事前に唄子に知らせていた。


「失礼します」


 お茶菓子の載った盆を持って、美津江さんが部屋に入って来た。

 限界突破している時の唄子は常人には聞き取れない音を聴くことができる。恐らく唄子は彼女の足音をいち早く耳にして、会話を中断したのだろう。


「今日はケーキをご用意致しました。どうぞゆっくりしていって下さいませ」

「ありがとうございます」

「わたくしはもう少しいたしましたら小一時間ほど買い物に出ます。申し訳ありませんが、お嬢様をよろしくお願いいたします」

「はい。わかりました」


 私がここへ来る度に、美津江さんは決まって買い物に出掛ける。

 綺麗にケーキ皿とアイスティーをテーブルに並べ終えて、美津江さんはにこやかに部屋を出ていった。


「ああやって私が友達と気兼ねなく過ごせるよう、気を遣ってくれているのよ」

「やっぱりそうか」


 薄々そう思っていたが、やっぱりそうだった。

 私は出されたアイスティーを飲んでひと息つく。


「ふー、ちょっと涼しくなった。そう言えば美津江さんが入って来る前に、何か言いかけてたよね」

「そうだったわね。少し祖母の話をしておこうと思ったの」

「祖母?」


 唄子が自分から家族の話をするのは初めてだった。

 そういった意味合いも含めて、私は唄子の祖母に興味を抱いた。


「うん。おばあ様は三階に住んでいてね。足が悪くって階段を上り下りするのが辛そうなんだけど、海を眺めるのが好きで、いくら言っても一階の部屋に引っ越してくれないのよ」

「頑固者ってこと?」

「そうね。ブレない人って言い方もあるわ」


 つまり唄子と似ているということか。

 一度決めたら絶対に譲らないこの相棒の性格は、祖母譲りなのかも知れない。


「おばあ様は美津江さんに頼りきっててね。しょっちゅう三階の自室に呼ばれては、色々と身の回りのことをさせられているの」

「なんだか大変そうだね」

「それでね、家政婦の仕事以外の余計な仕事を増やさないよう、私もできるだけ自分のことは自分でするって決めたの。ボランティア部の部員が自分のことを疎かにする訳にはいかないでしょ」

「耳が痛いわー」


 お母さんに結構頼っている私には、かなりグサリときた。

 それにしても、ここが亡くなった祖父の家だということは聞いていたが、祖母がこの上の階に住んでいるというのは初耳だった。


「美津江さんは、おばあ様のお気に入りでね。ちょっとした用事で呼んでは話し相手になってもらってる感じなの。春に引っ越してきた私には良くわからないけど、二人には特別な絆の様なものがあるんだと思う。あ、ごめん、先にケーキ食べよっか」


 宿題をしに来たのだが、いつの間にかおばあ様と美津江さんの話になっていた。

 私たちは全く宿題に手を付けないまま、アイスティーを飲み、苺の載ったケーキを頂いた。


「何これ、めっちゃ美味しい」


 滅茶苦茶美味しかったので、どこで売っているのかと尋ねると、美津江さんの手作りだと聞かされ、もう一度吃驚した。


「美津江さんって、才女なのね……」

「フフフ、そうなの」


 美津江さんの話をしている時、唄子はなんだか楽し気だ。

 もう少し私も、美津江さんのことを知りたくなった。


「ねえ、唄子と美津江さんの出会いっていつ?」

「ずっと小さかった頃よ。このおじい様の家は母の実家でね、夏休みには毎年母とここへ来ていたの。大体一週間ほど滞在しては、いつも美津江さんにお世話になっていたんだ」


 唄子はどこか懐かしい表情で思い出話を語り始めた。


「私が小学校三年生くらいの時だったかな、帰省した時に美津江さんが手話で話しかけてきのは。その時は本当にびっくりしたわ。他のお手伝いさんはハンデのある私に、あまり拘わらないようにしていたから……」


 唄子にとって美津江さんはきっと特別な存在なのだろう。

 親しみと尊敬の様なものが唄子の口調から窺えた。


「手話で話せるようになって、美津江さんとはとても親しくなった。同時期におばあ様も私に手話で話しかけてきて、さらに吃驚させられたの。どうして手話ができるのっておばあ様に聞いたら教えてくれたんだ。手話を勉強なさいって美津江さんに言われたって。自分が先に手話をマスターしますから私に付いて覚えて下さいって」

「美津江さんすごいね。じゃあ、おばあ様も手話を」

「うん。美津江さんほどスムーズじゃないけどね」


 唄子はスッと立ち上がって窓の外に目を向けた。

 どうやら今、美津江さんが買い物に出たようだ。


「美津江さんには本当に感謝している。家族のことを知るにはまずお話ししないとって、疎遠だったおばあ様と私を近づけてくれた。あの人は私が孤独にならないように、いつも気に掛けてくれていたんだ」


 楽しげに語る唄子に私は少し安堵していた。

 両親との関係とかはまだ良く分からないけれど、美津江さんがいることで、少なくともこの家は唄子にとって居心地の良い場所なのだ。

 そして唄子は私の手を取ったまま、笑顔で訊いてきた。


「今日もいい?」

「うん。いいよ」


 美津江さんが出掛けると、決まって唄子はあのピアノのある防音室に私を連れ出す。

 宿題を後回しにしているのが気に懸かるけれど、美津江さんが出掛けている時がチャンスだった。


「ところで、おばあ様は大丈夫なの?」

「防音室の音は三階には聞こえないから大丈夫。でも、もし私が歌ってるのを聞いたら、きっと腰を抜かすでしょうね」

「寿命を縮めるといけないから、よくよく気を付けないと」

「フフフ、大丈夫よ。おばあ様は美津江さんがいない時には下に降りてこないから。美津江さん、出掛ける前におばあ様にも声を掛けている筈よ」


 そして唄子は私の手を引いて部屋を出た。


「今日は何の曲を弾いてもらおうかな」


 唄子は弾む様な足取りで階段を降りて行く。

 こうして今日もまた、グランドピアノのある防音室で、秘密の時間が始まるのだった。

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