第30話 夏の予定
視界がモノクロになった瞬間に、なにが起こったのかを私は悟った。
人形たちが集まる場面で、唄子の周りに人が集まったことで、私と唄子を繋いでいた髪の毛に誰かが引っ掛かったのだ。
私の指先には髪の毛の端がある。つまり、いま唄子の指からは摘まんでいた髪の毛が離れてしまっている状態だ。
小人の台詞の後には白雪姫の台詞が続く。
このままでは唄子は声を発することができない。
私を振り返った唄子が、顔中で助けを求めている。
手を伸ばしたいが、康太の体が丁度私と唄子の間に割って入るように邪魔している。
考えている時間はない。私は咄嗟に足を蹴りだした。
「ウッ」
私のつま先は康太の脇腹をかすめて、唄子のまあまあ大きな尻に突き刺さった。一瞬小さな呻き声を上げた唄子の口から、そのまま白雪姫の台詞が出て来た。
「ありがとう。私、頑張ります」
最終日の人形劇は、ヒヤッとした場面もあったが、園児たちの盛大な拍手で幕を閉じた。
「もう、あんなに思い切り蹴らなくてもいいでしょ」
最後の挨拶を終え幕が下りると、唄子は恨みを込めて私を小突いてきた。
「でも助かった。ありがと」
舞台を片付け終えて、学校に小道具を持ち帰った私たちは、部室で盛大に打ち上げを行った。
とはいってもお菓子とジュースでだが、こんな感じで、みんなで一つの目標をやり切って飲むジュースは本当に格別だった。
「ねえ、アーちゃん、どうしてウーちゃんの尻を蹴り上げてたの?」
やっぱり訊かれた。
劇の真っ最中、突然尻に蹴りを入れたのだ。それは不審がられるだろう。
私は瑞希先輩の質問を適当にはぐらかす。
「いやあ、ちょっと気合を入れてやろうと思って……」
「ふーん、それにしても尻に痣ができそうなくらい思い切りいってたよね」
「ホントね。なんだか痛そうだったわ」
隣でこの葉先輩も共感する。事情を知っている康太は口をつぐんだままだ。
律子先生には劇中に何があったのか言っていなかったが、なんとなく察してくれたようで、ここで話題を変えてくれた。
「七月恒例の人形劇も終わったし。みんなも夏休みに入れそうね。どう? 海とか行くの?」
夏休みに海というキーワードに、瑞希先輩が真っ先にはしゃぎ出す。
「めっちゃ行きたい。やっぱ夏と言えば海。新しい水着買ったし、これから夏を満喫ね。ね、この葉」
「その前に明後日、瑞希は追試でしょ」
「そうでした……」
そう言えば瑞希先輩は赤点を二つ取っていた。
現実を突きつけられて、瑞希先輩の夏は一旦遠ざかった。
「海か……」
隣でポツリと呟いた唄子の顔には、分かり易い期待感が浮かんでいた。
なんだか楽し気な夏のイメージを唄子が思い浮かべているのは間違いない。
しかし、私の中で海と言えば、あの地獄の特訓をしてバカヤローと叫んだ夕方の海しか浮かんでこない。
「でもねー、先立つものがないのよねー」
この葉先輩が小さなため息をつく。
学校からの援助で、人形劇自体にお金はかからなかったのだけれど、育ちざかりの私たちは多少の飲み食いは仕方がない。
遠征する度にちょっとずつお小遣いを使っていた私たちは、夏本番前に早くも金欠気味だった。
「バイトでもしようかな」
ポテトチップスを齧りながら、この葉先輩が真面目な顔で言った。
私たちとは違い、高校生はアルバイトという手段がある。
ボランティアはいくら頑張っても金銭面での報酬はないので、中学生の私たちは金欠のままだ。
唄子と二人で弁当持参で、あのバカヤローの海にでも泳ぎに行こうか。そんなことを考えていると、律子先生がお菓子を広げた机の上に一枚の用紙を置いた。
「何ですか?」
私は用紙を手に取って、書いてあることを読み上げてみる。
「ボランティアに携わる皆様に、夏季研修のご案内……」
それはボランティアに関するスキルを身につけるために行われる、研修会の案内だった。
「学生でも参加しやすいよう、夏休みに行われる研修よ。中高生は大人の責任者がいれば参加できるようになっているわ」
「でも、これって、ちょっと遠いですよね」
「それでいいのよ」
何だか意味ありげな律子先生に、全員が注目する。
「遠方から来る人のために、ここには宿泊所が設けられてるの。つまり合宿できるってこと」
「合宿ですか!」
唄子と私は同時に声を上げた。
予想どおりの反応だったのか、律子先生はフッと笑って解説を続ける。
「ボランティアの人材育成に学校側は協力的だから。遠征費用と宿泊費用はボランティア団体と学校から助成してもらえる。それと、研修所の場所を見て」
「海の近くですね」
「そう。研修所は海に面してるの。そこに書いてあるけど、最終日は朝から地域の人たちと一緒に海岸掃除をして、そのあと交流イベントのようなものが行われるの。美味しいものも振る舞われるし、海で泳ぐのも自由。どう? 行きたくなった?」
唄子はまたあの目を私に向けてくる。
「行こうよ彩夏」
もう行くって決めてるんでしょ。
ちょっと不安はあるものの、唄子と同じく好奇心に満たされてしまった私は「いいよ」と返した。
「瑞希ちゃんと、この葉ちゃんは?」
「勿論行きます」
あっさりと律子先生に返事をした先輩たちは、早速盛り上がり始めた。
「この機会にこの葉も水着買っちゃいなよ」
「いや、私は前から着てるのでいいかな……」
「そう言わずにさ、あんたけっこうスタイル良いじゃない。高校生になってから、ずいぶん育っちゃったんでしょ」
「もう、エッチ」
そして先輩たちは突然気付いた。
この部室に男子が一人いたことを。
康太はなんだか居心地悪げに、うつむいてジュースをチビチビ飲んでいる。
「えっと、なんかごめんね。ははは……そう言えば、山田君は今日までだったんだよね」
忘れていたが、康太はボランティアサークルの正式部員では無く、仮サークル部員だった。
律子先生もそのことを今思い出したのか、ちょっと困った表情になった。
「えっと、山田君、今日までお疲れ様。まあ、時々また顔を出してね」
「あの……そのことなんですが……」
康太は私たちの顔色を窺うように、続きを口にした。
「野球の方の都合がつくときは、その……ここに来させてもらってもいいでしょうか?」
「ここに来るって、またお手伝いしてくれるってこと?」
「はい。というか、兼部させてもらえないかな……なんて……」
まさかの入部希望に、お菓子を食べていた手が止まった。
「運動部との兼部って大変そうだけど、本当にいいの?」
「はい。やってみたいんです」
真剣な表情。どうやら意志は固そうだ。
律子先生はニコリと笑って、少年の意思表示に応えた。
「許可します。ようこそボランティアサークルへ」
こうしては新入部員を迎え、私たちは三人になった。




