第2話 繋がった二人
不可思議な体験をした私と鳴瀬唄子は、お互いにしばしの感動を味わったあと、何故こんなことが自分たちの身に起こったのかを掘り下げて話し合おうとした。
しかし、当たり前のように鳴り響びいた無情な予鈴に邪魔されて、いったん私たちは話を中断し、再び昼休みに中庭で落ち合うことを約束した。
そして、唄子が私の腕から手を放した瞬間だった。
「あっ!」
私の視界を埋めていたカラフルに彩られた景色が一変した。
見慣れたモノトーンの世界が、突如として戻って来たのだった。
その味気なさに私は愕然となる。
唄子の顔に目を向けると、彼女も自分と同じなのか戸惑いを顔中で表していた。
得体の知れないものを放っておくのは本当に気持ちの悪いものだ。
しかし中学生である自分たちは、今やるべきことを優先せざるを得ない。
私は唄子と一度顔を見合わせて、私は保健室に、唄子は更衣室に向かって駆けだした。
保健室の先生は良くも悪くも教科を受け持つ先生とは雰囲気が違う。
大江律子。いつもそうなのだが、この飄々とした緊張感の欠片も無い三十代前半の先生は、学校という枠の中に捉われることなく生きたいように生きている、ある意味羨ましい人だ。
しかし、保健の先生としては優秀みたいで、肘と膝の怪我を見せると、なかなかの手際で処置してくれた。
「他に痛いとことかない?」
ガーゼを当ててテーピングを施し終えた先生が、私の顔を見つめる。
距離が近い。
眼鏡の奥のいたずらっ子のような瞳は、思春期の女生徒の反応を愉しんでいるかのようだった。
「はい、特には……ありがとうございました」
壁に掛けらている時計を気にした私に、先生は余裕を感じさせる物腰でこんなことを言って来た。
「まあ、ゆっくりしていきなさい。授業中にクラスに戻るのってなんだか嫌じゃない?」
「はあ、まあ……」
暗にサボったらと誘っている。先生としてどうかという言動だけれども、それが自然と板についている。きっとこの先生にはそれが当たり前なのだ。
「丁度コーヒーを淹れようと思っていたところなの。あなたもどう?」
「あ、はい。じゃあ、いただきます」
ポニーテールの髪を揺らして席を立った先生を私は目で追う。
こうして見ると、大江律子は結構美人だ。
あまり化粧っ気が無い分、その素材の上等さが引き立っていると言えるだろう。
中学生の無自覚な青臭さとはかけ離れた、目に見えない成熟した女性の空気感を持ちつつ、どこか掴みどころのない独特の雰囲気を彼女は持っている。
この歳まで独身なのは、こうした浮世離れした印象が世の男性に結婚に至る最後の一歩を踏みとどまらせているからなのかも知れない。
いや、それよりも、彼女自身がせかせかしている社会人の男性と、根本的にそりが合わないといった方が、適切なのかも。
「熱いわよ。気を付けて」
「どうも……」
机に置かれた湯気の立つコーヒーカップを手に取り、私は先生としばしの余暇を過ごす。
この明るい保健室で、こうして湯気の立つ白いカップに口をつけているのが、この白衣を着た先生には良く似合っている。私は変な所で彼女に共感を覚えていた。
「志藤さんは、下の名前はなんていうの?」
カップに口を付けようとした私に、先生は唐突にそう聞いてきた。
体操着にでかでかと書かれているのは、2―A、志藤だけなので、当然下の名前は知らないわけだ。
「彩夏です。彩色の彩に夏です」
「へえ、カラフルないい名前ね」
何気なく褒めてくれたみたいだが、実際は色覚に異常のある私には、そのようなカラフルな名前など似合わない。
色鮮やかな名前を持つ自分が、モノトーンの世界しか知らないというのは、ちょっとしたお笑い草だ。
いや、そうではない。ついさっき起こった不思議なひと時に、私はとてつもないこの世界の色を目にしてしまった。
鳴瀬唄子……。
彼女に触れられたあのひとときだけ、私の世界は彩られた。
いったいあれは何だったのだろう。
「まあゆっくり飲んでいって。ちょっといい豆で淹れたのよ」
「あ、はい。いただきます」
白いカップに黒い液体。
どちらかと言えば、苦いコーヒーよりも紅茶の方が好きだった。
私は生まれてこのかた、コーヒーというものの色を目にしたことがない。茶色い液体であることは知っているが、そもそも茶色という色自体を知らないのだ。
それにしても、先生が淹れてくれたこのコーヒーは、とてもいい香りがする。
きっとその色を見ながらこの芳醇な香りを愉しめれば、もっと素敵なのだろう。
そんな想像をしつつ、私はカップに口をつけた。
「ウッ」
舌の上に広がったその苦さは、少しばかり想像を超えていた。
「あっ? 苦かった? お砂糖入れないとやっぱり無理だよね」
そうかなと思ってはいたが、やはり砂糖が入っていなかった。
「私は砂糖は入れない派なんだけど、確かここにスティックがあったような……」
ごそごそと薬品の入ってある戸棚の奥を探して、砂糖のスティックをつまみ出した。
「普段エスプレッソを飲み慣れてて、濃いめが好きなのよ。志藤さんにはまだ早かったみたいね」
手渡された砂糖のスティックを一本入れて、しっかりかき混ぜたあと、恐る恐る口をつけてみる。
まだ苦い。よくこんなものを砂糖なしで平気で飲めるものだ。
「すみません。もう少しお砂糖頂けませんか?」
もう一本スティックをもらい半分ほど入れると、ちょっとはましになった。
「どうかしら?」
「はい。甘くていい感じです」
そして、半分ほど使ったスティックを返そうとした時に、少し手を滑らせてしまった。
白いテーブルの上に砂糖の粒がパッと広る。
「あっ」
そそっかしさに恥ずかしさを覚えながら、掌でこぼれた砂糖を集めていく。
「すみません」
「いいのよ。でも蟻が来ちゃいそうね。ちょっと手伝ってくれる?」
先生は引き出しから取り出したビニール袋を机のふちで広げた。私は机の上で掌を滑らせてその中に砂糖を落としていく。
「ホントにすみません」
気恥ずかしさもあって、それから少し急いでコーヒーを飲み切り、私は保健室を出た。
それから、更衣室で着替えを終えたあと、クラスメートの注目を集めるのを覚悟しつつ教室へと戻ったのだった。
お昼休み、約束したとおりに、鳴瀬唄子は中庭で私を待っていた。
彼女の手には、お弁当の入った巾着。
私はというと、むき出しのお弁当箱を手にしていた。
「へへへ、ごめんね」
そう言っておいたのは、少し遅れたからだ。
コーヒーを飲んだせいなのか、生理現象に促され、お手洗いを昼食前に済ませておいた。多分五分程度待たせたに違いない。
声は聞こえていないのだろうが、なんとなく申し訳なさそうな態度に、彼女は気が付いてくれていそうだった。
「そこのベンチで食べよっか」
大袈裟に口を動かしつつ、木陰のベンチを指さす。
そして二人並んでベンチに腰を下ろした。
本来ならば、彼女とこうして並んで座るのはあまりよろしくない。
聴覚にハンデのある彼女とコミュニケーションを取ろうとするならば、向かい合わせに座り、唇の動きを読んでもらった方がいいに決まっている。
しかし、先ほど二人の間に起こった不思議なことが、私にはまた起こる予感があった。
いや、予感ではない。必ずそれが起こる。起こって欲しい。なりふり構わない希望を込めた期待があった。
そして、私はお弁当箱を膝に置いたままの唄子にグイと近づいて、肩をくっ付けた。
すると……。
「聞こえる? 鳴瀬さん」
「うん。志藤さん、は、どう?」
「うん。モノクロがカラーになった。嘘みたい……」
二人の身に、また同じことが起こった。
頭上の楓の葉が風に揺られて、木漏れ日が形を変えながらカラーになった世界を美しく彩る。
花壇に植えられている色とりどりのゼラニウムが、初めて目にする眩しい色彩を見せつけていた。
「こんなに綺麗だったんだ……」
溜め息が出るような美しさに、私はしばらく瞬きを忘れてしまっていた。
そして隣で肩が触れ合う彼女も、涼し気な声で胸の内に湧き上がった感情を呟いていた。
「みんな、聞こえる……小さな、ミツバチの羽音も、楓の葉が、頭上で揺れる、音も……なにもかも……」
二人とも少し涙ぐんで、今、世界のありのままを感じていた。
「本当に綺麗……でも、お昼休み終わっちゃうよね」
カラフルな世界から膝の上に目を落とし、お弁当箱を開くと、食べてしまうのが勿体ないくらいの色とりどりのおかずがそこにはあって、あらためて感動してしまった。
ぐうぅー。
感動した私のお腹が盛大に鳴った。
「聞こえた、よ。お腹が鳴る音、初めて、聞いた」
唄子はくすくす笑いながら、恥ずかしい腹の音を弄って来た。
「しょうがないでしょ。すっごい美味しそうなんだから」
ちょっとした恥ずかしさを感じつつ、私はお弁当に箸をつける。
そして唄子も。
「美味しい」
ほぼ同時に、二人の口から同じ言葉が飛び出した。
そして、カラフルに色づいた世界で口に入れた黄色い卵焼きは、本当に格別だった。
きっと自分と同じように、いま肩を並べているこのクラスメートも、音に溢れた世界で味わうお弁当に感動しているのだろう。
そんなことを考えつつ、私はお弁当の美味しさに浸ってしまう。
お母さんって、けっこう料理上手いのかも……。
箸を動かす度に、真面目にそんなことを考えてしまった。
「ねえ、これから毎日二人で食べようよ」
「うん。そう、だね」
今起こっている不思議なことを考えるのは後回しにして、ただ私たちは、予鈴が鳴るまでの特別な時間を共有する。
「気持ちいいね」
「うん。本当に……」
中庭をスーッと風が抜けてく。模様を変える木漏れ日が、目の前の世界をドラマティックに彩る。
まるでドラマのワンシーンみたい……。
何だか感動しつつ箸を動かす。
でも……色がついているだけで、お弁当ってこんなに美味しいもんなんだ……。
昨日の夕飯にも登場した甘酢の効いたミートボールを味わいつつ、ふと、隣に座るクラスメートの横顔に目を向ける。
でも、本当にそれだけなのだろうか。
同じ気持ちで目の前の花壇を見つめるこのクラスメート。あなたの存在自体が、私の何かを変えたのかも知れない。
「おかず、交換、しよ」
「うん。いいよ」
ミートボールとトレードした彼女の真っ赤なタコさんウインナーは、私にとって特別な味がした。




