第11話 秘密の共有
体育大会の翌日。
放課後を迎えた教室で、生徒達がいなくなったのを見計らい、私と唄子は重い大きなため息を吐いた。
「は―――」
昨日の体育大会の後、校舎裏で会話していた私と唄子は、その一部始終を保健室の先生、大江律子に目撃されてしまった。
しかし、どういうわけか、慌てふためく私たちに先生は特に何も追及せず、もう帰りなさいと諭しただけだった。
だが、今朝のホームルームの後、担任の柴田から放課後に保健室に二人で行くようにと言われ、やはりそんなに甘くはなかったと痛感させられたのだった。
そして、まるで処刑台に向かうかのように、私たちは重い足取りで保健室へと向かったのだった。
「まあ、コーヒーでも飲みながら話しましょう」
暗い表情で保健室に訪れた私たちを、まるで友達が来たかのように、大江律子は迎え入れた。
香しい匂いのするコーヒーカップを前に、私たちは緊張した面持ちで先生と向き合う。
妙な空気の充満した保健室で、先生は優雅ともいえる落ち着いた物腰で、湯気の立つ白いカップに口をつける。
「あなたたちも、冷めないうちに飲みなさい」
「はい……いただきます……」
用意してくれていた砂糖を入れて、スプーンでかき混ぜる。
小刻みに指が震えてしまうのを、私はどうしても止められなかった。
まな板の上の鯉という心理状態とは、きっとこういう感じなのだろう。
「先に言っておくわね」
大江律子は口元に微笑を浮かべながら、まっすぐに私たちと向き合った。
「いくつか質問をするけど、一つ約束をして欲しいの。絶対に嘘はつかないって」
いきなりのストレートパンチだった。
今日の昼休み私と唄子は、大江律子から発せられるであろう質問に対し、シラを切り通そうと打ち合わせていた。
それを見透かされていたのか、先にくぎを刺されてしまった私たちは、いきなり逃げ道を塞がれてしまった形になった。
動揺した私が隣に目を向けると、流石に唄子も見たことのないような硬い表情をしていた。
「いい? 嘘は無しよ」
もう一度先生が念を押す。
少し間隔を空けて席に腰を降ろす私たちは、今は限界突破していない。
私は、唄子に一度目配せをしてから、先生の言葉を了承した。
「はい、わかりました……」
そう応えると、先生はカップを置いて、少しほっとしたような表情をした。
「ありがとう。じゃあ素直にこたえてね」
そして、先生は私の眼を見て、意外な質問を投げかけてきた。
「志藤さん。あなた、色覚に異常があるんじゃない?」
「えっ!?」
てっきり唄子が普通に会話をしていたことを問い詰められるのだと思っていた私は、完全に肩透かしを食らわされた。
「色を認識する能力にハンデがある。そうなんでしょ?」
確信を感じさせる先生の口調に、私はごくりと生唾を呑み込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「やっぱりそうだったのね」
「どうして、どうして分かったんですか?」
どうして気付かれてしまったのかがさっぱり理解できず、私は唄子のことを一旦脇へ置いて、種明かしをねだった。
「なに、簡単なことよ」
先生は不思議がる私に明快な説明をしてくれた。
「この前、肘と膝を擦りむいて保健室に来たとき、今日みたいにコーヒーを淹れたでしょう。その時に砂糖をこぼしたの憶えてる?」
「はい。スティックに半分ほど残ってた砂糖をテーブルに撒き散らしちゃったやつですね」
「そうそう。あの時あなた、掌で砂糖を集めてくれたわよね」
「はい。そうでしたけど」
「あなたが砂糖を集め終えたと思っていたこの白い机の上には、けっこう砂糖の粒が残っていたの。前回の視力検査では志藤さんの視力は左右とも2.0。視力のいいあなたが砂糖の粒を見逃すはずはない。では、どうして机の上に残ったままの砂糖に気付かなかったのか……」
もうその先を言う必要はなかった。
このどこか浮世離れした空気感を持つ保健室の先生は、完全に羊の皮を被った狼だった。
「色彩感覚にハンデのあるあなたには、白い机に散った砂糖の粒は判別し辛かった。外光が射し込んでいたなら、陰影による区別もできたでしょうけど、丁度正午に近い時間帯の保健室は条件が良くなかった。そう言うことよ」
そして、解説をし終えた先生は、少し真面目な顔をした。
「あまり言いたくないでしょうけど、こういうこと、ちゃんと先生には言っておきなさい。知らなかったらサポートできないでしょ」
「えっ? は、はい」
いったい何の話をしに来たのかよくわからなくなった。
隣にいる唄子も、先生の話していた内容を大まかに読唇術で理解したようで、ちょっと不思議そうな顔をしていた。
「鳴瀬さんは転校した時、学校側にちゃんと事情を打ち明けてサポートを申し出ていたわ。いい、志藤さん、まだ先だけど高校に進学したら学校には事情を説明しておきなさい。隠していて何かトラブルが起こったら困るでしょう」
「はい。分かりました。あの、すみませんでした……」
昨日の会話のことではなく、私の問題になってしまったけれど、一応これで一段落した。
了承して謝罪した私に、先生は最後にこう言った。
「これからは養護教諭の私が二人のサポートをするから。困ったことがあったら気兼ねなく相談に来て。あ、それと、不思議なこととかも相談にのるから」
?
私と唄子は顔を見合わせる。
そして、微妙な笑顔を浮かべた私たちはカップに口をつけ、大して味わうことも無くコーヒーを飲み切ってから、そそくさと席を立った。
「では先生、失礼しました。私たちはこれで」
深々と頭を下げてから顔を上げると、大江律子はコーヒーカップを手にしたまま、変わらず微笑を浮かべていた。
「もう一度言おうか? 不思議なこととかも相談にのるわよ」
それから無言で促され、私たちはもう一度席に着いたのだった。
「なるほどね」
私の説明を聞いた後、先生は二杯目のコーヒーを味わいつつそう言った。
先ほど先生が私にさせたように、私も誰にも言わないよう先生に約束をしてもらい、そのすべてを打ち明けたのだった。
「保健室に来たあの日にそれが起こって、あれからずっと人知れず二人でハンデを克服していたと」
「はい。嘘みたいな話ですけど……」
常識的に見て、はいそうですかと受け入れられる範疇を越えた話だと思っていたのに、話をすべて聞き終えた後も、どう見ても先生は平常心を保ったままだった。
「いえ、勿論信じるわ。実際にあなたたちの会話を聴いてるし。実は先生ね、養護教諭として鳴瀬さんをそれとなく気に掛けておくよう校長先生から言われててね。新学期から時々鳴瀬さんの様子を見て来たのよ」
「え? 本当ですか?」
「ええ、あなたたちが親しくし始めた時期も全部知ってるわ」
また一つ意外なことが飛び出した。
本当に底知れない人だった。
「もしかして昼休み校舎裏で私たちが過ごしていたのも……」
「ええ、鳴瀬さんに友達ができて良かったって思ったわ。楽しそうに話しているのを聞いてて『あれ? おしゃべりしてる?』ってちょっと吃驚したけど」
「マジっすか……」
どうやら会話を聴かれたのは、昨日が初めてでは無かったらしい。
それなら何故、今まで何も聞いて来なかったのだろう。
私は、そのことを率直に訊いてみた。
すると先生は手を軽く振って、笑いながらこう説明した。
「そんな野暮なことしないわよ。友達同士がプライベートな話題で盛り上がってるところに先生が割って入るなんて、雰囲気ぶち壊しでしょ」
確かにそうだ。デリケートな気遣いが完璧にできている。
しかし、それ以前に、どう考えても不可思議な現象に出くわして、よくスルーしていられたものだ。
「じゃあ、何で昨日私たちに声を掛けてきたんですか?」
「それは、あなたたちが下校時間を守らなかったからでしょ。体育大会のあとはすぐに下校しなさいって言われてたでしょ。そこは先生としてちゃんと注意しないといけないわけ」
あ、やっぱりこの人、根っからの先生だ。
私はちょっと感心しつつ納得した。
「なーんだ。そうだったんだ」
「まあ、あそこで先生も登場しちゃったわけだし、この機会に二人と話そうかなって思ったわけ。そんな感じよ」
ひと通り話し終えて、先生はある提案をした。
「あなたたちが直面しているその不思議の解明に、私もできる限り協力するわ。大人の力が必要なこともあるでしょうし」
「はい。ありがとうございます」
「それと、もう秘密を知ってしまったし、私の前では気兼ねせずに限界突破していいのよ。この秘密は決して誰にも言わないから」
「そうですよね……」
私は一度、唄子と顔を見合わせてから彼女の腕を取った。
一瞬にして味気なかった保健室と大江律子がカラーになる。
そして唄子は、その小さな薄紅色の唇を開いた。
「先生、ありがとう」
「生徒のために手を尽くす。あたり前のことよ」
ちょっと格好いい台詞の後、先生はパチリとウインクをした。
「鳴瀬さんの声、とても涼し気ね。志藤さんは今、カラーの景色が見えているの?」
「はい。カラーの先生、初めて見ました」
「フフフ、美人過ぎて吃驚したんじゃない?」
保健室に唄子の笑い声が広がった。
つられて私も笑い声をあげる。
美人過ぎるかどうかは微妙だけれど、けっこう美人な保健室の先生は、この日から私たちの頼れる相談役になったのだった。




