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第10話 走る野球少年

 グラウンドに戻った唄子と私は、観覧席には戻らずに、八十メートル走がよく見えそうな場所へと向かった。


「来賓席の後ろだけど、ここからだったら走ってるのがよく見えそうだね」

「うん。生徒もいないし、それにみんな最終レースに注目しているだろうから、私たちが小声で話していても大丈夫そう」


 唄子が言っていたとおり、順番を待つ最終組のグループには、陸上部の面々に混ざって、見慣れた坊主頭の少年がいた。

 近所に住んでいたことで、物心ついた頃から知っている坊主頭の少年。

 親同士も仲が良くって、私は「コータ」と、その幼馴染を気軽に呼んでいた。

 そして、彼は、ちょっと内気で大人しい男の子だった。

 幼かった私は、毎日のように遊ぼうと誘っては、彼の手を引いて砂浜へと走っていった。

 いつの頃だっただろう。康太は少年野球のチームに入った。

 毎日のように遊んでいた男の子は、誘いに行っても野球の練習に行っていることが多くなった。

 あたり前のように二人で行った砂浜は、いつしかあたり前のように行かなくなった。

 そして、あまり遊ぶことのなくなった彼は、よく庭でバットを振っていた。

 そのまま、私たちは少しずつ大きくなって中学生になった。

 今でも私の顔を見れば手を振って来るし、声も掛けてくる。

 でもそれだけ。

 小さかったあの頃、砂浜を一緒に駆けまわったあの男の子はもういない。


「始まるよ」


 唄子が私の手を取って、そう囁いた。

 最終組の男子たちが、横一列に並び始める。

 康太は一番端の6レーン。

 真ん中のレーンからタイム順に振り分けていくので、このグループの中では一番遅かったようだ。

 スタート位置についた少年たちは、目に見えない静かな緊張感を漂わせながら、先生の合図を待つ。

 そして、先生が電子式のピストルを頭上に向けた。


「よーい」


 安っぽいスタート音が鳴ったと同時に、少年達は横並びに飛び出した。


「ガンバレ、コータ!」


 自然と口を突いて出てしまった大きな声に、私は自分で驚いてしまった。

 体育大会の競走なんて。そう冷笑的に捉えていた私が、何故かこんなに熱くなっている。

 さっきお父さんが私に送ったような熱い声援を、気付けば私も幼馴染の少年に送っていた。


「いけー!」


 放課後のグラウンドでたくさん汗を流した少年たちの八十メートル走は本当に速かった。

 レーンの中央を走る陸上部のエースが徐々に他の走者を引き離していく。

 やはり八十メートル走は、二宮君の独壇場だった。

 いや、違う。

 他の走者を引き離しだしたのは3レーンを走る二宮君だけではなかった。

 6レーンで腕を振って走る坊主頭。

 誰も気に留めていなかった野球部のダークホースが、陸上部のスプリンターに必死で追い縋っていた。


「ガンバレー! コーター!」


 大勢の女子たちが二宮君へ賑やかな声援を送る中、私は声を限りに坊主頭を応援し続けた。

 そして、二人の少年は、あっという間にゴールラインを通過した。

 勝ったのはどっちなのだろうか。

 かなり僅差だった二人の少年の決着は、ここからでは分かり辛かった。


「勝ったの……?」


 気がつけば、隣で唄子は私の腕を痛いほど握りしめていた。

 一着の旗の前に並ぶのがどちらなのか、私は目を凝らして注目する。

 やがてレースを終えた少年たちは、着順ごとの旗の前に並んでいった。


「惜しかったね」


 とても小さな声で、唄子はそう囁いた。

 一着の旗の前に並んだのは二宮君だった。

 そして、二着の旗の前で、坊主頭の少年は大きく肩で息をしていた。

 女生徒たちのヒーローを倒すことができなかった坊主頭の少年が、その時の私にはとても格好よく見えた。



 体育大会の閉会式のあと、そのまま私と唄子は帰らずに、いつも昼休みを過ごす校舎裏のベンチで紙パックのジュースを味わっていた。


「終わっちゃったね」


 ストローから唇を離して、私がそう言うと、唄子はどこか名残惜し気に小さく頷いた。


「なんだか、あっという間だった」


 たった八十メートルの競技のために、毎日二人で夕日の砂浜を走った。

 体育大会を終えた私たちは、もうあの地獄を味合わなくていい。

 やり切ったという達成感はある。それなのに、何か淋しさに似た感情が胸の裡にある。

 夢中で読み終えた小説のエピローグの様な、そんな喪失感を伴う余韻だ。


「そうだね。あっという間だったね」


 私が肯定すると、唄子は夕日の美しい空を仰いだ。


「たくさんの応援。走る生徒達の息遣い。何よりも大勢の人が集まったあの賑やかさ……」


 唄子は噛み締めるように言葉を続ける。


「本当に素敵な体育大会だった。きっと私は今日のこの日をずっと忘れないと思う」

「私もだよ……」


 何もかもが美しい色に彩られた一日だった。

 こうして二人で眺める夕焼けの空は、特別だった今日という日のフィナーレなのだろう。


「山田君、惜しかったね」


 唐突に唄子が話を変えたので、私は夕焼けの空から唄子の顔に視線を移した。


「うん。まあ、あれはしょうがない。相手が相手だし」

「でも他の陸上部の生徒を抑えての2位でしょ。すごくない?」

「そうなのよ。まさかあそこまでやるとは思わなかった。びっくりさせられたって感じよ」

「そう? 私はもしかしたらって思ってたよ」

「なに? 何か言いたそうね」


 何となく含みのありそうな感じの唄子に、私は少し首を傾げた。


「言ったでしょ。前に部活の練習の時、彩夏が声を掛けたら彼、走るペースが上がったって」

「言ってたけど、関係なくない?」

「いいや、あるね。きっと彼、彩夏のこと意識してるんだよ」


 いきなりそれっぽいことを突き付けてきた唄子に、私は悔しいけれど動揺してしまった。


「いやいやいや、幼馴染だって。もうホント姉弟みたいなもんだから」

「そうなの? でも、そう思ってるのは彩夏だけだったりして」

「違うって。もう、この話はおしまい!」


 つい大きな声を上げてしまった時だった。


「なんだか賑やかだと思ったら、あなたたちだったの」


 背後から掛けられた声に振り返ると、そこには保険室の先生、大江律子いて、静かな目を私たちに向けていた。

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