第1話 世界の音と色
連休明けの陽射しの下で、五月の新緑が揺れていた。
眼下に望むコバルトブルーの海から、雑木林の丘をざわつかせ、今日も潮風が駆け上がって来る。
そんな潮風の終着点ともいえる小高い丘の上に、陽光に映える白い小さな校舎があった。
県立風ノ巻中学校。
瀬戸内海を望むこの愛媛県の、少しはずれに位置する丘の上の学校には、総数百名足らずの生徒が通っていた。
これはそんな素朴で自然豊かな学校で、運命の出会いを果たした二人の少女の物語。
カモメの舞い飛ぶ青い空に、終業のチャイムの音が高らかに広がった。
「集合!」
晴天のグランドで、ノイズ交じりのチャイムに反応した体育教師は、一度校舎の時計を見上げてから、自慢の肺活量を生かして生徒達を集合させた。
誰が言い出したのか「サルゴリラ」と命名された体育教師の塩田は、短く刈った頭の汗をゴシゴシとタオルで拭ってから、日焼けした顔を集まった生徒達に向けた。
「今日計ったタイムで組み合わせを決めるからな」
組み合わせというのは、月末に行われる体育大会での徒競走のグループ分けのことだ。
中学校なら100メートル走が適切なのだろうが、グランドの大きさの関係で、ここでは毎年80メートル走を行っている。
そして、観覧しに来る父兄が少しでも盛り上がれるよう、タイムの近い者同士を組み合わせるのがこの学校の恒例であった。
「解散!」
溌剌とした解散の号令で、白い体操着の生徒たちがバラバラと白い校舎へと戻っていく。
そんな生徒たちの流れから抜け出して、私はグランド脇にある水道へと向かった。
そして蛇口の栓を捻ると、まず土で汚れた手を綺麗に洗った。
「あちゃー」
普段あまり走りもしないのに頑張った80メートル走、三本目のタイムトライアルで見事に転倒した。
足がもつれるというのを実際に体験してしまい、その味が痛くて気恥ずかしいことを痛感させられた。
ここで簡単に自己紹介をしておこう。
私の名前は志藤彩夏。思春期に目覚めたばかりの十三歳で、ただいま中学二年生だ。
右肘と左膝の痛々しい擦り傷に顔をしかめつつ、土で汚れた肘を流水で流していく。
「水ですすいで保健室に直行か……」
五月の水道水は、けっこう冷たかった。
そして、やはり痛かった。
「いたたた」
痛みというよりも見た目の痛々しさに、また私は顔をしかめた。
そして、ふと、視界の隅に白いものがあることに気が付いた。
白い。そう、それは紛れもなく白かった。
傷口を覗き込んでいた私の右手側からスッと差し出されたもの、それは綺麗に折り畳まれた真っ白なハンカチだった。
驚きと同時に、私は振り返った。
何時からいたのだろう。そこには大きく枝葉を伸ばした桜の下で、まだらに彩られた同じクラスの女の子が、ハンカチを手に佇んでいた。
彼女は何も言わず、はにかんだような笑みを私に向けている。
水道から流れ出る冷たい水をそのままに、私はその微笑みと向き合った。
春から始まった中学二年の新学期。顔見知りばかりの二年のクラスに突然現れた転校生。
それがこのハンカチを差し出してくれた少女だった。
鳴瀬唄子。
どこかしらおどおどしている、いつもうつむき加減なこのクラスメートは、新しいクラスの中でひそやかに目立っていた。
それは容姿や性格といった意味ではない。
彼女は重度の聴覚障害を持っていた。
鳴瀬唄子がクラスに現れた日、担任の柴田は朝のホームルームの時間を使って、彼女の抱える聴覚障害についての説明をした。
先生の話では、基本的に彼女は音を聞き取れない。そして、言葉を発することがかなり困難であるらしい。
先生の言っていたとおり、あれからひと月ほど経ったが、彼女の声を聞いた者は今のところ誰もいなかった。
他のクラスメートと同様、彼女に関心が無いわけでは無かったけれど、席も少し離れているし、今のところ私と彼女は殆ど接点はない。
ひと言も話したことが無いのだから、当然彼女がどんな人なのか私は知らない。
でも、外見は間違いなく個性的であった。
京人形のような整った日本的な顔立ち、少し切れ上がった目と澄んだ瞳が印象的で、三つ編みにした艶のある柔らかそうな黒髪は、少しおしゃれに目覚めた周りの女の子たちとはまるで違う雰囲気を自然と印象付けていた。
そんな誰とも違う独特な雰囲気の唄子のことを、私はどこかで気にかけていた。
「ありがとう」
ハンカチに手を伸ばしかけた私は、途中で手を止めた。
彼女の厚意に甘えてしまえば、真っ白なハンカチを汚してしまう。そう思ったからだ。
もし自分なら、清潔なハンカチに誰かの血がついてしまうことに抵抗を感じるはずだ。
ここは親切心で差し出してくれたその気持ちだけを、受け取っておくべきだろう。
「ありがとう鳴瀬さん。ハンカチ汚れちゃいそうだし、気持ちだけもらっとくね」
声に出しても聴覚障害のある彼女には届かない。
それがわかっているので、私はわざと大袈裟に口を動かすことで相手に唇の動きを読み取ってもらおうとした。
聴覚障害のある彼女は相手の声を聞いて理解できない分、唇の動きを読むことで、その人の言わんとしていることを日常的に理解していた。
当然ながら彼女がそう言ったわけではない。おおよそそれでわかるのだと、担任教師からそう説明を受けていた。
本来ならば手話を交えて話をすれば、もっと円滑に会話は進み、お互いに理解し合えるのだろうが、生憎その辺りのことを齧ったことも無かった。
私は一度手を合わせて、感謝している旨を表現した後、両手を彼女に向けて軽く何度か振ってみた。
ちゃんとした手話の知識はなくとも、これでありがとう。でもいいよって、伝わるのではなかろうか。
すると、意図していたとおり、唄子はすぐに二度ほど頷いた。
どうやら意思の疎通はちゃんと取れたみたいだ。
これで話は済んだ。私は出しっぱなしにしてある水道にまた向き合い、今度は足をあげて膝の汚れを水で流していった。
「いたたた」
手で擦りながら膝の汚れを落とすと、やっぱり痛くて思わず声に出た。
蛇口の栓をグイと締めたあと、全くの気休めだけれど、まだ血の滲んでいる肘にフーフー息を吹きかけておいた。
「保健室でおっきい絆創膏、貼って貰わないと……ワッ!」
独り言を呟きつつ振り返った私は、限りなくおかっぱに近いショートボブの髪を揺らしてのけぞった。
どういう訳か、もうそこにいないはずの鳴瀬唄子が、ハンカチを手にしたまま、まだそこにいた。
「えっ? なんで?」
てっきり意思疎通が成功したものとばかり思っていた私は、完全に面食らってしまった。
そんな様子が可笑しかったのか、唄子は目を細めて笑みを浮かべると、まだ血の滲んだままの肘にそっとハンカチを押し当ててきた。
綺麗だった真っ白なハンカチ。
それが少し血の滲んだままの肘にあてがわれたその時、私はとんでもないものを見てしまった。
いや、その表現は適切ではない。
そう、私は気付いてしまったのだ。
「どういうこと……」
あらん限りに大きく目を見開いた私の口から、ただそのひと言が漏れ出した。
鳴瀬唄子を気に掛ける理由。それは私が彼女とは違う障害を持っていたからだ。
生まれながらにして、私には色という概念がない。
色覚障害者の自分の世界。
それは白と黒の世界だった。
ただそのモノトーンの世界の中に濃淡があり、明暗があるだけの日常。
その味気ない世界が、彼女が触れた瞬間に、突然鮮やかな色で彩られた。
「うそ……」
生々しい程の鮮やかさ。
目に映るもの全てが、今まで目にしたことの無い色で染め上げられていた。
大きく枝葉を広げた桜の樹の下で、さっきまでただのまだら模様だった少女が、キラキラとカラフルに彩られていた。
その変化に驚きつつ、私は突然カラーになった目の前の少女の様子がおかしいことに気が付いた。
驚嘆して目を丸くしていたのは私だけではなかった。どういうわけかハンカチを手にしていた少女も目を大きく見開き、木漏れ日の下で頬を紅潮させていた。
その目には驚きの色がはっきりと表れている。
突然カラフルに色づいてしまった世界で、私は彼女の中で今何が起こっているのかを探ろうとした。
息を呑んでいる。鳴瀬唄子の今の状態をそう表現したとしたら、ぴったりだと言えるのではなかろうか。
唄子はしばらく、小さな唇を開いたまま唖然としていた。
やがて、彼女は私をまっすぐに見て、その顔いっぱいに笑顔を作った。
それは、さっきまでのはにかんだような大人しい笑顔ではない。心の底から湧き上がる歓喜そのままに、少女は表情を一変させたのだ。
「鳴瀬さん……」
私が声を発したのと、きっと同時くらいだった。
形のいい唇がゆっくりと動いた。
「き こ え る」
目の前で起こった不思議なことに、私は自分の耳を疑ってしまった。
聴覚障害のせいで普通に話せるはずのない彼女の口から、ぎこちなさはあるものの、涼しげな声が発せられたのだ。
「聴こえるって? ほ、本当に?」
私の問いかけに、唄子は目を細めたまま何度も頷く。
「聴こ……える……。風の、音……。鳥の……さえずり……。校舎から……してくる、声……だって……」
自分の口から発せられる声を噛み締めるように、ややたどたどしく唄子はゆっくりと声に出したあと、私に向き合い、興奮を隠すことなくその手をとった。
「あなたの声……今は、聴こ……えるよ。伸びやかで……明るい声……」
薄っすらと目尻に涙を浮かべて、唄子はその感動を噛み締める。
「すごい。本当に聴こえてるんだね」
感動の涙を見せた彼女と今ここで歓びを共有したい。そんな衝動に私は駆られた。
今まで学校の誰にも話さなかった秘密。決して誰にも知られたくなかった秘密を私は彼女に打ち明けた。
「実は私、みんなには言ってなかったけれど、色覚障害がるんだ。だから私、今まで白黒の世界しか知らなかった。でも今は……」
言葉が詰まった。
勝手に流れだした涙が頬を伝って行く。
「ごめん、何だか泣けてきちゃった。鳴瀬さん、いま私、色のついた景色が見えてるの」
その告白を聞いた唄子は、驚きの表情を浮かべたあと、唇を結んで何度も頷いた。
色と音とで違いはあれども、その感動に共感できるのはこの奇跡に遭遇した私たちだけだ。
「私は、音で……志藤さん、は色……なんだね……」
私は彼女の世界が広がった瞬間に立ち会い、彼女も私の世界が広がった瞬間に立ち会った。
どうしても感動を言葉にしたくて、私は一番目を惹く鮮やかな色を彼女に伝えた。
「鳴瀬さんの唇の色、すごく綺麗だね」
不意打ちだったのだろう。唄子は頬を少し赤らめて恥じらいを見せた。
「そんな、ところ……褒められた、ことない……でも、ありがとう……」
そして私は、遠目に見えている波立つ海に目を向けた。
「この世界ってこんなに綺麗だったんだ……」
そして、唄子も噛み締めるようにゆっくりと感動を言葉にしてゆく。
「私も……この世界って、こんなに……音で、溢れていたんだ……」
高くて真っ青な空が眩しい五月。
私はこうして、本当の意味で唄子と出会った。
モノトーンの世界にいた私に手を差し伸べて連れ出してくれた少女。
鮮やかな薄紅色の唇の少女は、この日から私の世界を鮮やかに染め上げてくれた。