ため息すると幸せが逃げるらしい。知らんけど。
ダイニングに向かった地紘は、欠伸を噛み殺しながら扉を開ける。
すると、何か香ばしい香りが地紘の鼻腔に届いた。
匂いのする方向へ視線を向けると、そこには朝早いにも関わらず料理をしている地紘の母親、海野杏がいる。
杏は寝癖をつけた息子に気がつき、右手を口許に添えて柔和な笑みを浮かべた。
「おはよう、地紘。あら。その様子だと、高校が楽しみすぎて寝れなかったのかしら?」
「なわけねーだろ。子供じゃねぇんだから」
「うふふ、そうね。もうすぐご飯できるから、座って待ってなさい?」
地紘はそれに言葉を返すことなく、洗面所で大雑把に顔を洗ってからダイニングテーブルについた。
朝食ができるまで適当にスマホでも見ようと思った地紘だったが、突然後ろから抱きつかれ、動きを完全に止める。これは毎朝のことであるため、地紘にとっては驚きというより呆れが強い。
視界に映る薄緑色の長い髪の毛が、その行動の主を示している。
「はぁ……」
地紘が諦念を吐き出すと、背後の人物は言いつけるように言葉を放つ。
「あっ、ため息すると幸せが逃げちゃうよ?お兄ちゃん」
背後から地紘に抱きついているのは、地紘の二つ下の妹、海野小惑だ。
彼女は重度のブラザーコンプレックスであり、毎朝こうしてスキンシップを求めてくる。その度に地紘は呆れ果てているのだが、彼女にとってはさほど気にすることではないらしい。
「いいから離れろ。暑苦しいんだよ」
「えー、いいじゃん。お兄ちゃん、まだこたつ片付けてないくらい寒がりなんだからさ」
「あれは片付けるタイミングがないだけだっつーの。アホか」
「しょうがないなー。私も制服にシワはつけたくないし、離れてあげるよ」
「最初から離れとけよ」
小惑は言いつけ通り、ゆっくりと地紘から離れた。
新しい制服を見せつけるように、スカートを揺らす小惑。
その様子は微笑ましいものではあるが、地紘にとっては心底どうでもいい。今彼の頭の中にあるのは、今日の朝食についてのみだ。
「うふふ。似合ってるわね、小惑」
出来上がった朝食を食卓に運びながら、杏は小惑の制服姿に笑みを浮かべる。母親とはそういうものなのだ。
「でしょでしょー。星蔭の制服ってほんと可愛いよね」
星蔭というのは、私立星蔭学園。初等部・中等部・高等部が存在するこの学園は、県内でも有数の進学校であるとして有名だ。
地紘が高等部に編入することが決まり、ブラザーコンプレックスを極めすぎた小惑は、彼を追うように転校を決意したのだ。
わざわざ転校という選択肢をとった小惑に対し、地紘は頬杖をつきながら告げる。
「だからって、わざわざ転校することはねぇんじゃねぇの?」
元々公立の中学校に通っていたため、両親の経済的負担も大きい。
そこまでした理由が制服であると思っている地紘には、どうしても無駄な行動に見えてしまうのだ。
そんな彼の指摘に対し、小惑は可愛らしく頬を膨らませる。
「もー、それだけじゃないし……」
「なんだそれ」
彼女の真意を理解しきれず、地紘は適当な言葉を返して朝食に手をつけることにした。
無愛想な地紘に不満を抱きながら、小惑も隣の席について朝食を取ることにするのだった。