7 キャンパス散歩
新しい身体になって再起動した時、イオはその銀色の頭部を忙しく回し、さらにもっと忙しく黒いカメラアイの瞳を動かして、あちこちをキョロキョロと眺め回していた。
それからウイルを見上げたその表情は何の屈託もないまっすぐなもので、ウイルへの全幅の信頼と、そして瑞々しい好奇心に満ちたものだった。
もちろん、表情はマイクロアクチュエーターの作動バランスによって作られたものだが、ウイルの仮説どおりならそれはイオの『意識』から出ているはずのものだ。
「なんだか、いつもとウイルが違って見えます。」
イオは最初に、そう感想を述べた。
パソコンのモニター画面には、明らかにイオの意識が次のステージに上がったことを示す数値とグラフが表示されていた。
よし。
間違いない。成功している。
このデータは貴重だ。
イオは自分で窓のそばに行き、熱心に外を眺め始めた。
背が伸びたので、窓の外が見えるようになったのだ。
これまでとは、取得できる情報量が違うだろう。これが、イオにどのような変化をもたらすか。
イオはしばらく窓の外を眺めていた後、喉元のスピーカーを使ってこんなことを言った。
「世界には、こんなにたくさんのウイルがいるのですね。」
一瞬、何を言ったのかウイルは判別しかねたが、すぐにその意味を理解した。
ああ、そうか。
イオは私以外の生体の人間を見たことがなかったものな。
だから、歩き回る私と同じような生体としての『人間』を皆、私=ウイルだと思ったんだ。
ウイルは嬉しくなった。
これはただのAI では、起きることのない間違いであろう。
ただのAI なら的確にウイルと他の人間を区別し、ふさわしい言葉を選び出して、それらしい文章を生成するだろう。
この間違いは、イオが事象を『意識』で捉えているからこそ起きる間違いなのだ。
ウイルはイオの新しくできた銀色の頭を撫でてやり、そして固有の『名前』について説明した。
名前——それは、その存在が唯一無二であることを示す特別な言葉だ。
それは『自我』の存在を認めることによって、真の意味を持つ言葉だ。
ウイルはこの子に、この新しい人工意識に『自我』があると認めているからこそ、イオと名付けたのだ。
それは、よくあるところの機械やマスコットにつける愛称ではない。
イオ自身がこれを自分の存在を表す名前として意識し、自分自身の存在を肯定するためのものなのだ。
ウイルはそんな思いを込めて、イオに名前を贈ったのである。
イオは足代わりの4輪の高さを微妙に変えて体を軽く揺すっていたが、やがてくるりと振り向くと、まっすぐにウイルの顔を見つめて、それから小さな子どもがするような最高の笑顔になった。
「ウイル、大好き!」
予想だにしなかったその言葉にウイルは驚いた。
それは、状況に応じて最適解を見出す通常のAI ではけっして成し得ない表現の飛躍であった。
数瞬遅れて、ウイルはその言葉の指し示す意味を理解し、頬を染めた。
胸の奥が、ずきん、と疼く。
ウイルは少し泣きそうな笑顔になって、それからイオの頭を抱え込むようにして抱きしめた。
クイン。
とイオの後輪が高さを変え、イオはウイルのおなかのあたりに顔を押し付けるようにして身体全体を預けてきた。
ぺたり、としがみつくようにイオの両腕がウイルの背中にまわる。
ああ! この子は、成長している。
それはウイルに、新たな、そして確固たる感情を呼び起こした。研究者としてのそれではなく。
しばらくそうしていてからウイルはそっと手を放し、しゃがみ込んでイオと目の高さを合わせた。
「さあ、イオ。外へ散歩に行こう! 学生たちが歩いていたあの場所へ。」
屋外の散歩はイオをめざましいほどに成長させた。
イオは頭をくるくると回し、カメラアイをキョロキョロと忙しく動かして、道端の草に走り寄り、小さな花を見つけてはそれを指差し、ウイルの方に顔だけを向けてその学名を発声する。
樹木の葉を指でつまんで小さな歓声をあげ、草の葉の上に小さな虫を見つけては「コックスィ ネリディー!」などと言って嬉しそうにウイルの顔を見た。
それを眺めるウイルの表情は、結婚すらしていないのにまるで子どもを見つめる父親のそれのようになっている。
「イソザキ先生、それは新しいロボットか何かの実験ですか?」
地域科学部の古川教授が、ウイルに声をかけてきた。
古川教授は、大学内では珍しくウイルとそれなりに仲の良い同僚である。研究方向が哲学系であることがいいのかもしれない。
「ええ、まあ・・・、はい、そうです。」
2つ3つ、立ち話をして古川と別れた後、イオがウイルの足元に寄ってきて訊ねた。
「ワタシはロボットなのですか?」
ウイルはちょっと小首を傾げる。
「うん。まあ・・・、ボディはそのようなものだけれど・・・。イオはそれ以上のものだよ。ただ、素人にはまだ説明しにくいのでね。いずれ、お披露目をするときには・・・」
そう言いながら、ウイルはその時が来るのを先延ばししたい、という不合理な欲求が自分の中に芽生え始めているのを意識していた。
イオの身体を子どものそれにする、と決めたところあたりからだ。
それは、科学者らしからぬ感情であった。
データはほぼ出そろってきた。これで論文も書けるだろう。
あとは胴体を作れば、お披露目の準備は整う。
でも・・・・
論文の検証のためには、再現実験のためには・・・。
さまざまな意地悪な試験を目論む同業者たちに(そこには少なからぬ嫉妬も混じり込むだろう)イオを貸し出さねばならない。
まだ早い。
この子はまだ、ほんの子どもだから。
興味本位の衆人環視の中に晒すのは・・・・。
科学者としての華々しい成果を発表することを夢見てきたウイルと、イオを独り占めしておきたいというおよそ科学者らしからぬ感情に流されそうなウイル。
2つのウイルが、ウイル・イソザキという1人の人物の中で葛藤していた。