35 雪原の逃避行
風に身を切るような冷たさがあったが、カイトで飛ぶ空からの眺めは飛行機から見るそれとは違って特別なものがあった。
鳥の目から見る風景はかくあるか、と思わせてくれる。
すでに西の空の薄明もわずかになった。
冬枯れの木立と根雪のモノトーンの大地の中、眼下の村の家々の窓に灯りが点っているのが見える。
あの灯りの元には、夕餉の支度をする人々のささやかな暮らしが一つひとつあるのだろう。
今ここで世界の安寧を賭けた戦いが静かに行われていることなど、全く想像もすることすらなしに。
そう。
世界の安寧がかかっていると言って過言でない。
イオはすでに世界を破壊できるほどの「力」を持ってしまっている。その「力」を手に入れたい国家がいくつも、奪い合いにしのぎを削っている。
それをそんなふうに使いたがらないのは、イオという意識の持つ優しさだ。
もしイオの意識が、あるいはその技術が、良からぬ連中に奪われ、その心の歯止めを失ってしまったなら・・・。
そこに現れるのは、もはや人間の手に負えない怪物だろう。
一方でウイルは自らの非力を思わずにはいられない。
今この逃避行ですら、イオを兵器として使いたいE国の意図を受けたエージェント J B に依存しなければできないのが現実なのだ。
R国の連中よりはマシと言えど、その善意と誠意に身を委ねるしかない。その薄氷を踏むような危うさといったら・・・。
まるで巨人の手のひらの上の、生まれたてのヒナみたいに心もとない。
巨人が気分を変えれば、瞬時に握りつぶされてしまうだろう。
そんな環境の中で、イオはいつまでその優しさを保っていられるだろうか?
イオの歯止めが破れてしまったとき、その裂け目から現れるのは・・・・
「きれい・・・。」
イオの声で、ウイルは現実に引き戻された。
「うん。きれいだね。」
カイトはさほどの距離を飛ぶこともなく、村はずれの倉庫の陰のような場所に着地した。
そこに1台のワンボックスカーが待っていた。
ドアを開けて運転席から降りてきたのはアイリーンだ。
「ずいぶん簡単に脱出できたのね。」
「イオのおかげだ。私のチームに欲しいくらいだけれど・・・」
そう言って、J B はちらりとウイルを見た。
「イソザキ博士は、うんと言わないだろうな。」
ウイルは曖昧に微笑む。
助けてもらっておいてソッコーで否定するのも、なんだかね・・・。
車は一見、一般の使い古したワンボックスに見えたが、内側に鉄板で簡易な装甲を施してあった。
中は運転席と助手席を除いてシートはなく、後部はキャンピングカーのような一部屋になっている。棚には寝袋も積んであった。
「残念ながら、現地調達ではこんなものしか手に入らなかった。あまり乗り心地は良くないが、我慢してくれないか。エンジンも改造してあるから、パワーだけは出るよ。」
J B は乗り込むウイルたちに人懐っこい笑顔を見せた。
「R国の西の国境はU国と戦争をやってるから、博士たちを連れて逃げるには危険がありすぎます。遠回りになるけど、一旦南東に走って陸路でK国に入り、そこから大使館員として航空機でE国まで行きます。」
例によって J B は大まかな計画をちゃんと話してくれる。
「国境までの行程は3日ほどかかります。途中、宿を取れない場合もありますから、車中泊も覚悟してください。」
車は夜の道を走り始めた。
ライトを点けているのは、むしろ点けない方が怪しまれるからだ。
雪があるから轍は残る。
追跡されるのは時間の問題だろう。
「今夜はアイリーンと交代で運転しながら夜通し走ります。できるだけ奴らからの距離を稼ぎたい。皆さんは寝てください。特にフルカワ教授は体を休めた方がいい。」
車内は暖房されていて、ホテルとまではいかなくてもそのままで眠っても大丈夫そうだった。
「では、お言葉に甘えて。」
と、古川先生はクッションを枕に横になった。
ウイルは座ったままだ。神経が興奮していて、とても眠れそうにない。
「イオは眠らなくてもいいのかな?」
「その必要はないですが・・・」
ウイルが言いかけると、J B は運転席の後ろを指で指し示した。
「電源ならそこにあります。その白い箱です。この車で発電しているものですが、イオに供給できるようにコンバーターで直流に変換してあります。」
車は何もない雪原の道路を走り続ける。
独裁国家ではあるが、それだけにテロ組織や武装組織などが蔓延る余地は少なく、首都からは南東部にあたるこの地域はわりに平穏な状態で走り抜けられそうだった。西の国境地帯で戦争をやっている国とは思えないくらい、道は静かですれ違う車もない。
あとは、あのR国情報機関の連中がいつ追いついてくるか、いつ衛星画像などで捕捉されるか——ということだが・・・。
「イオ。今、イワノビッチたちの様子はどうだ?」
イオはずっと黙ったまま充電されていたが、ウイルの問いかけに今の状況を伝えてきた。
「今のところまだ、ワタシたちが消えたことにも気づいていません。イワノビッチはできる限りデジタルシステムを避けて、なおかつ上層部にも知られないようにしながら、ウイルの毒殺計画を進めようとしています。」
イオがあまり表情を見せない。
ウイルには、それの方がむしろ心配だった。
「彼らがデジタルシステムを避けていても、イオにはその状況がわかるのかい?」
J B が相変わらずの笑声でイオに尋ねる。
「防犯カメラも駐車中の車のドライブレコーダーもありますから。IoTでつながったデジタル機器のない環境の方が珍しいですから。彼ら自身スマホを持っていますし。」
「さすがに電源は切ってるだろう?」
「外部からマイクだけONにすることは可能です。」
イオは微笑んではいるが、少しだけ警戒するような目もしている。どこまで J B に伝えていいかがわからないのかもしれない。ちら、とウイルの方を見た。
ウイルは、大丈夫だ、と目でうなずいてやる。
「恐ろしいな。」
言葉とは裏腹に、J B の声には面白そうな響きが含まれていた。表情もおどけるような笑顔だ。
イオはそれを、少し不思議そうに上目遣いで見た。
「ねえ、イソザキ博士。E国情報部ではなく、私と組みませんか?」
「 J B ・・・?」
「そんな勝手が許されるんですか?」
ウイルはちょっと驚いた。J B の表情は冗談を言っているようには見えない。
「私がそうしたいと言えばね。いや、まあ、イオがいいって言ってくれればだけど?」
J B はまた屈託のない笑顔を見せる。
この人物は・・・。
スパイのくせに、イオの意志までも尊重しようというのか?
いつでも握りつぶすことのできる巨人の立場でありながら?
「イオに『守る』と約束してくれたそうですね?」
ウイルはそのことを直接訊いてみる。
「私はね・・・」
J B が珍しく真面目な顔をして話し始めた。
「誰かと個人的にした約束は必ず守る——ということを自分に課してるんです。」
そう言って、ちらとイオの方を見る。
車の外が少し吹雪いてきたようだった。
まるで上も下もない白い世界を車は進んでいるような感じになった。
あっという間に吹雪は強くなり、車は進んでいるのかどうかさえわからないようになってしまった。エンジン音とタイヤが路面の氷の塊を乗り越える振動だけが、車はまだ地上を走っているのだと感じさせてくれる。
「大丈夫か?」
J B の問いかけに、アイリーンが応える。
「道はかろうじて見えています。」
「こんな仕事をしていますからね——。」
J B が先ほどの続きを話し始めた。
「それを守っていないと、精神の均衡を保っていられなくなるかもしれない。あいつらは・・・」
ちょっと区切って、遠くを見るような目をした。
「イワンたちは、いつの間にか闇に心を捕えられてしまったんですよ。初めは愛国心に満ちた青年だったんでしょうが・・・ね。」
「イオはあなたが嘘をついていないと言っていました。」
ウイルがそう言うと、J B はいつもの少しおどけたような表情にもどった。
「マツバラが、イオは人の心が読めると言っていましたが?」
「そうではなく、デジタル世界のデータにアクセスして、事実かどうかの確認をしているだけですよ。」
ウイルが答える。イオも小さくうなずいた。
「では・・・」
と J B がイオに顔を向けた。
「私のデータは有ったかい?」
イオが J B とウイルを交互に見た。
「ありません。J B はどこにも存在しませんでした。」
次回、明かされる J B の秘密。




