32 逆襲
翌日、イワノビッチと4人の部下は古川先生を伴ってウイルの「研究室」にやってきた。
「やあ。捕まっちゃったのかね、君たちまで?」
古川先生は情けない顔をしながらも、意外なほど快活な声でウイルたちに話しかけた。
車椅子に乗って、両手に包帯が巻かれている。
「古川先生!」
ウイルが駆け寄るより早く、イオが4輪を駆動させて走り寄った。
その華奢な手で、古川先生の包帯ぐるぐる巻きの手をそっと包む。
ウイルも古川先生の前にひざまずいた。
「私たちのせいで大変な目にあわせてしまって・・・」
「元気そうだね、2人とも。そんな泣きそうな顔をするな、イオ。変わらずに優しい子だな。イソザキくんの言うことをちゃんと聞いていい子にしてたんだね?」
古川先生は包帯の巻かれた手でイオの頭を撫でた。
「私のことなど気にせずともよかったのに。」
そう言うと、古川先生はついと車椅子から立ち上がった。
「こんなものは、丁寧に扱っていると君に見せるためのただの演出だよ。剥がれた爪以外に大きな傷はないんだ。」
古川先生の瞳にブリザードのような冷たさが宿った。
「紹介しよう。私の爪を丁寧に1枚1枚剥がしてくれたイワンだ。」
そう言って包帯巻きの右手でイワノビッチを指し示した。
さすがにイワノビッチが気まずそうな顔をする。
「この状況でイソザキくんに協力を仰げると思うかね? イワン。人間、一度失った信頼というのはそう簡単に修復できるものではないんだよ?」
イワノビッチは両手の拳をぐっと握っていたが、やがて薄ら笑いを浮かべて低い声で言った。
「我々としては、博士の協力が得られればいいのですよ。信頼は得られなくてもね。」
それからその大きな手で、古川先生の右手をぐっと掴まえた。
「協力を拒むというなら・・・」
古川先生は少しよろめきながらも、毅然とした声でウイルに向かって叫ぶ。
「私のことは気にするな。イオの秘密をこいつらの手に渡してはならん!」
「その手を放せ。イワノビッチ・フョードル少佐!」
ウイルのその言葉に最も驚いたのが、他ならぬ古川先生だった。
普段気弱そうだったこの男は、こんな勇敢なことを言う男だったのか? それも、まるで上官が部下に命令するような抗い難い響きを持った声で。
次に驚いたのが、イワノビッチだった。
「な・・・なぜ、私の名を・・・?」
「情報を持っているのは、自分たちだけだとでも思っていたか?」
ウイルは声が震えないように、腹に力を入れる。
「ご想像どおり、イオはサイバー兵器でもある。私がその気になれば、君らの国など一瞬にして破壊してみせるよ? 今、デジタルに依存してない社会システムも軍事システムも一つとしてないんだ。」
ウイルはそこで言葉を切って、大きくひとつ息を吸い込んだ。
「君らが古川先生を人質にとると言うなら、私はR国そのものを人質にとってみせよう。手始めにイワン、君の経歴の中に死刑に値する不祥事を書き込んでみようか? 改竄されたと全くわからないように——。ピョートル。バルノン。グラシェンコ。ヤハノフ。君らはどうだ?」
イワノビッチだけでなく、名乗ってさえいないのに名前を呼ばれた4人の部下は真っ青になった。
「情報は武器だ。」
ウイルが落ち着いた静かな声で言う。
「・・・と、いちばん知っているのは君たちではないのか?」
イワノビッチはよろめいた。
よろめきながら、尻の方に手をやり、考えた。そこに銃がある。
今、ここで撃ち殺すべきではないか・・・?
しかし・・・上司に何と言う?
大統領に・・・どう説明すれば・・・?
もし・・・、すでに経歴が書き換えられていたら・・・?
ここでイソザキを射殺なんかしたら・・・・。
「帰りたまえ。」
ウイルは厳然と言い放った。
「帰って、自分の経歴でも検索してみるんだな。」
イワノビッチたちが帰ると、ウイルは古川先生をプライベートスペースに迎え入れた。
「驚いたよ。まるでスパイ映画のヒーローみたいだった。」
そう言って古川先生は笑った。
「大学にいた頃のイソザキくんからはちょっと想像がつかない変わりっぷりだ。」
「いろいろあり過ぎましたし、この筋書きは昨夜イオと2人で練り上げたものなんです。イオが情報を集めてきて・・・」
「ウイルが作戦を考えて。」
イオがちょっと自慢げに話す。
「どうせ信頼関係に基づいた『契約』などあり得ない。奴らは必ず脅してくると思ったんです。先生を人質にとって——。それでこちらも脅しをかけることにしたんです。いや、けっこう気持ちよかったです。」
そう言ってウイルが笑うと、イオも笑った。
微笑ましくそれを眺めていた古川先生は、しばらくして、ふと顔を曇らせた。
「しかし、あそこまで言ってしまうとかえって危険じゃないか? 彼らは恐怖のあまり君を殺そうとするんじゃ・・・?」
「それは織り込み済みです。今もイオが彼らを追跡して、怪しい動きがあれば報告してくれます。」
「はい。」
とイオが笑顔でピースサインをして見せる。
+ + +
イワノビッチは車の中で苦い顔をしたまま押し黙っていた。
スマホで自分の経歴を検索して見ている。
あいつが言ったとおり、書き変わっていた。
ただし、重要なところではない。大学の卒業年度が1年だけずれているのだ。
・・・・・・・
それだけだった。
それだけではあるが、しかしそれは恐ろしい警告でもあった。
その気になれば、おまえなど瞬時に社会的に抹殺できるぞ——という警告なのである。
イワノビッチの顔に暗い隈が差した。
「毒殺すべきだ・・・」
低く陰惨な声で呟く。
「あれは危険な男だ。」
さらに呟く。
隣に座る部下に話しているのか、それとも独り言なのか・・・。
「我々の強みはヒューミントだ。デジタルに依拠しない、人と人が直接情報をやり取りし、人が人を動かすシステムだ。デジタル依存の西側とは違う。ヤツの武器はデジタル情報しか拾えないし扱えない。デジタルの外にあるヒューミントは、ヤツの盲点でもある。」
そして、隣の部下に陰惨な声のまま静かに命令を下した。
「イソザキを毒殺しろ。責任は俺が被る。」
だが、イワノビッチは気が付いていない。
電源を切ったはずのスマホのマイクがそこにあるということに・・・。




