23 プレゼントと契約
「ふ・・・古川先生は哲学がご専門です。私は先生に『意識』についての助言をもらっていただけです。技術的なことなど何もわかりませんよ?」
ここで古川教授を弁護したところで、何の意味もない。——とウイルもわかってはいる。
しかし・・・。
なぜその可能性について何も考えなかったのだ。
松原はなんて言った?
防犯カメラに写った2人の映像から、その会話内容を知ったと言ってたじゃないか。
だったら・・・、他の情報機関が同じことをやって、古川教授を重要人物と捉える可能性だってあったじゃないか。
なぜ、私は古川先生の警護を条件として出さなかった・・・。
自分とイオのことばかりで頭がいっぱいになって・・・。
苦い後悔がウイルの胃から食道へと這い上がってきた。
「どこへ・・・連れて行かれたか、全くわからないのですか・・・?」
「現場が調べてはいるようですが・・・、まだ・・・」
+ + +
「いつまでかかっているのだね、ビートくん? いつまでお客様にしておくつもりだ?」
ロバート・フラノ部長が技術室の前でエレンをつかまえて詰問した。
「ヤツのオモチャまで作ってやっているようだが、ヤツの方はそれに見合った働きを提供しているのか?」
「し・・・しかし、彼の大学の研究室にあったものやA国に拉致された時に持っていたパソコンなどは調べても、ハッキングスキルに関するデータは何もなかったじゃないですか。人工意識に関するものだけで・・・」
「だから我々は、あの人工意識がそれをやったのではないかと推測しているんじゃないか。あれが本当に意識を持っているのか、単なるロマンチストの思い込みかは別にして、あの超絶的なハッキング技術を入手できなければ、あのオタクの身柄を我々が押さえている意味がないだろう。」
「いま少し・・・。ようやく信頼関係が築けてきたところですから、今強引な手に出るのは・・・」
「君のやり方は、手ぬるい。ここからは私の選任した専門チームが入る。プロの仕事を見ていたまえ。」
「そ・・・・」
エレンは内心、恐れた。彼らがイオに何をするのか。
「イ・・・イオを、いじり回したりしてはダメですよ? 約束を破ったら博士は口を閉ざしてしまいます!」
ロバートが冷ややかにエレンを見る。
「まさか君のような技術者が、感情的にしか物事を観察できなくなっているわけじゃなかろうな?」
「でも・・・、ハッキング技術への手がかりは、博士の頭の中にしかないのですよ?」
ロバートは向きを変えながら、顔だけをもう一度エレンの方に向けて言った。
「私が選んだチームはプロだ。」
+ + +
その日、ウイルのところに来たのはエレンではなかった。
すでにイオの情報で情報部の中でどういう話が交わされていたかは知っていたが、ウイルは驚いたような顔で目つきの鋭い3人の男たちを迎えた。
プロ——とはどういう意味だろう?
強引に腕力でイオに手を出されたら、どうやって守ろうか・・・。
ウイルには格闘技の技術はおろか、並の運動神経すら心もとないのだ。
内心の不安が表に出ないように気をつけて、ウイルは男たちの出方を待った。
「今日は美人じゃなくてすみませんね、博士。」
勧められたソファに座ると、1人の男が微笑とともに慇懃な態度で切り出した。
微笑んでいても、目は笑っていない。
「そろそろ、本格的に博士にも腰を落ち着けていただきたいと思いましてね。」
男たちは今のところ、紳士的な態度を崩していない。
しかし、エレンが外され、彼らがやってきたということは、ウイルに対する扱いに何らかの変化がある——ということだろう。
ウイルは内心で身構えた。
男は書類の束をファイルから出して、テーブルの上に置いた。
「イソザキ博士。我々と正式に契約していただけませんか?」
そう言って、書類の束を指先でウイルの方に押す。
相変わらず微笑を浮かべているが、その態度に「あなたの選択肢はない」という雰囲気がある。松原と同じだ。
「博士にはもう少し本部に近いところに住居を用意いたします。研究室は本部内に正式に設けますので、そこで思う存分研究に勤しんでください。報酬は年俸で50万ユーロは保証します。もちろん研究費は別枠で、です。」
ウイルは思わず、ごくり、と唾を呑んだ。
大学時代のことを思えば破格の待遇と言っていい。
だが・・・
当然、それに見合った要求を出されるであろう。
それに対する恐怖の方が、ウイルには大きかった。
そんなウイルの内心を見透かしたように、男はさらに表情を穏やかにしてみせる。
「もちろん、最初のお約束どおり、我々はイオに対して何一つ手を出したりはいたしません。」
その言葉は、少しだけウイルを安心させた。
「ただし・・・。」
男は表情を変えることなく続ける。
「イオに使われた技術については、全て隠すことなく我々の技術部門に提供していただきます。詳しくはこちらの契約書に書かれていますが。」
それは・・・・
イオと同じ能力を持つもう1つの人工意識を作る技術を、国家の情報機関に渡せ——ということである。
あの、世界規模のシステムエラーを引き起こし、何の痕跡も残さずに引き上げることのできる技術を——。
それは・・・・
一瞬で世界を破壊できる兵器を作って引き渡せ——と言われているに等しい。
核兵器など、過去のものとなる兵器を———。この、世界中で裏仕事をしている危険な連中に・・・。
ウイルは、この契約の意味するところをはっきりと意識して慄いた。
それはウイルの今後の行動を著しく制限するだろう。
もしその内容を守らなかったりしたら・・・。その時こそ彼らは牙をむき、イオを連れ去って分析してしまうだろうことは目に見えている。
この契約書内で「人権」があるのはウイルだけで、イオは彼の所有する物体でしかないのだ。
細部にまだ目を通していなくても、それくらいのことはウイルにもわかる。
だから・・・
これにサインするということは・・・。
そして、サインしないということは・・・・。
「そうそう。あなた方にプレゼントを持ってきました。」
男がそう言って何やらスマホを操作すると、入り口から新たに2人の若い男が大きな荷物を担いで入ってきた。
かわいい花柄の紙に包んで赤いリボンがかけてある。
若い男2人は、ウイルたちの目の前でそれを解き始めた。
紙包みがはがされると、中から出てきたのは透明なケースに入った銀色の物体だった。
イオの胴体と脚である。
イオが目を輝かせ、それからウイルと男たちを交互に見比べた。
「ここに置いていくだけでもいいのですが、本部の新しい研究室には取り付けやセットアップのできる設備も用意してあります。」
イオが、笑いそうな泣きそうな顔でウイルを見る。
男の目が優しくなり、契約書をさらに数センチ、指先でウイルの方に押した。
「こちらにサインしていただくだけで、これらの全てがあなたの手に入ります。」
ウイルは契約書を凝視したまま、頭だけを素早く回転させる。
イオとウイルにとっては、これ以上ない好条件。しかもそのチャンスは、おそらく今この瞬間だけにしかないであろう・・・。
・・・が、そのサインは・・・。
世界を変えてしまうのではないか・・・?
自分たちの幸福のために・・・世界を犠牲にする・・・・?
「あ・・・明日まで待っていただくわけには・・・? い、一応、契約書ですから、隅々まで目を通したいと思いますので・・・。」
男は破顔した。
「それは、そうでしょうねぇ。結構ですよ。明日、また参ります。お互いにとっていい結果になることを願っていますよ、博士。」
そう言って男は立ち上がり、笑顔で右手を差し出した。
ウイルは、おずおずとその手をつかむ。
ぐい!
と、引き込むように強く握り返され、ウイルの内心はたじろいだ。




