21 異国の夜
「もう一度・・・チャンスをください。」
ローズ部長と2人きりになってから、松原は絞り出すように低い声でつぶやいた。
「バカを言うんじゃない。何をやる気だ? E国は同盟国だぞ?」
2人はしばらく無言になった。
松葉杖の音が妙に大きく、人気のない廊下に響く。
「ここから先は、政治と外交の仕事だ。我々は失敗したんだ。」
スティーブは部長室に入る前に、松原の肩を軽く叩いた。
「私は今も、君たちのチームが最も優秀なチームだと思っているよ。チームはしばらく休養させろ。君はまず、足を治せ。必要な時は、こちらから連絡する。」
+ + +
E国の軍用空港に到着した後、ウイルは本当にVIP待遇で迎えられた。
郊外にある金持ちの別荘みたいな建物にリムジンを横付けされ、玄関では政府の職員と思われる男性2人と女性1人が待っていて出迎えた。
庭は広いが、警備の者らしい黒い服の男たちが何人も配置されている。
「どうぞこちらへ。当面はこちらをご自身の家だと思って、自由に使っていただいて結構です。ただし・・・」
と、男は口元に微笑を浮かべているが、目は笑っていない。
「外へは出ないでください。」
「警備上の理由です。」
ウイルの表情が硬いのを見て、女性が付け加えた。
男2人はいかにもエリート官僚という雰囲気だが、女性は少し違う匂いがする。
きちっとしたブレザーにタイトなパンツという服装も含めて、一見すると優秀な女性職員という雰囲気だが、どこかそれだけではない何かがある。
あるいはこの女もJ B と同じ、危険な世界の住人なのかもしれない。——とウイルは思った。
階段の登れないイオを抱えてウイルはポーチの数段を上がり、玄関の中に入る。
男性2人はそのままホールにとどまり、女性だけがウイルを先導してリビングに入った。
広いリビングにはエタノール暖炉が踊るような炎を上げていて、シャープなデザインのアイランドキッチンもある。おそらく日々の調理というより、ホームパーティー用か何かなんだろう。チタン製のキッチンのフロントパネルは、上品な虹色の輝きを見せていた。
まるで映画の中の豪邸みたいな空間に、貧乏アパートと研究室しか知らないウイルは戸惑った。
イオもキョロキョロと辺りを見回している。
ただこの事件の渦中に入ってから、イオはあまりはしゃいだりしなくなった。
「何かお飲みになります?」
女性がホームバーの扉を開けながらウイルに問いかけた。
ウイルが見たこともないような高級な酒類が並んでいる。
「いや・・・コーヒーでも・・・」
声がかすれている。
この状況の中で酔うわけにはいかない——とウイルは思っている。
「承知いたしました。」
女性はにこやかな顔でそう言い、キッチンの方に大股で歩いて行くと、無造作にチタン合金のフロントパネルに手をかけて手前に引っ張った。
引き出しの中からコーヒーメーカーを取り出し、ケトルでお湯を沸かしながら背後の棚のガラス扉を開ける。
「お好みは? グァテマラ? コロンビア? エルサルバドル?」
「い・・・いつもはインスタントなんで・・・その・・・えっと・・・職員さん・・・?」
話しかけるのに、どう呼びかけていいかわからない。
「ああ、失礼いたしました。自己紹介がまだでしたね。私の名前はエレーナ・ビート。エレンとお呼びください。よろしく、イソザキ博士。」
それからイオの方に視線を向ける。
「よろしくね、イオちゃん。」
エレンがイオに微笑みかけたが、イオはじっとエレンを見ているだけだ。
「あっは! そうよね。突然こんなところに連れてこられて、くつろげるわけないわよねぇ。」
突然、エレンの態度ががらっと変わった。
「私も庶民派なのよ、けっこう——。だから、こんなのも内緒で用意しておいた。インスタントの銘柄、これでいいかな?」
そう言って引き出しの中から、日本でよく見るゴ●●ドブレンドのビンを取り出して見せた。
あっけにとられたウイルの表情に隙ができる。
「カップは高級品だけど、それくらいはいいわよね?」
エレンはインスタントコーヒーの入った高級なカップを2つ持ってきて、1つをウイルに手渡しながら同じソファに体をくっつけるようにしてお尻を下ろした。
エレンの体温がウイルの右半身に伝わってくる。
「くつろいでくださいね。この家の中にあるものは、何でも好きにしていいんですからね?」
ウイルの鼻を、安物コーヒーの香りと何かの甘い香りがくすぐる。
「わ・た・し、も今夜はこの家の中にありますから♡」
な・・・な・・・な・・・、何を・・・・?
こ・・・これが、ハニートラップってやつか?
彼女いない歴=年齢のウイルは、思わず顔が歪んでしまった。
イオもあっけにとられながらも、ちょっと睨むような目もしている。
「あははは! かわいい!」
エレンは笑い出して、ウイルから体を離した。
「イオちゃんって、ほんとに人間の子どもみたい。大丈夫。あなたのウイルを取ったりしないわ。」
それから、ちょっと向き直るようにまっすぐウイルを見て、真面目な顔になって核心的な質問をした。
「イオには、本当に自我意識があるの? 私も技術者だから、興味があるわ。自我意識を持ったロボットには、ああいうことができるようになるわけ? 基本的な仕組みだけでも教えてくださらない?」
ウイルはコーヒーを飲むのも忘れて沈黙している。
何を答えてよく、何を答えたら危険なのかがわからない。
「あなたについては調べさせてもらったわ。大学のH Pのプロフィールも、大学に来る前に発表していた論文も——。人工意識について研究しているんですってね? でも、今の岐産大に来てからは、これといった論文も発表していないようね?」
エレンだけがコーヒーを啜る。
「でも、あなたは成功していた。この子を見てわかったわ。ずっと隠してたのね? なぜ?」
ウイルは口をつぐむ。
尋問役なのか? この女性は・・・。
「私はMI6のサイバー技術部門なの。うちの技術者たちは皆半信半疑だけど、J B の意見ではあなたは人工意識の開発に成功していて、あの事件はあなたかこの子か、あるいはその両方が偶発的に起こしたものだろう、ということだった。
マツバラが出てきてあなたとこの子を拉致しようとしたことや、プランCの存在からの推測だって言ってたけどね。」
この女も・・・。
敵に渡るくらいなら殺せ——と言われてここに来ているのか?
ウイルの顔が恐怖に歪む。
「あー、違う! 私たちにはそういう考えはない。」
エレンは慌てて手を振って否定した。
その拍子に、コーヒーがこぼれてソファを汚す。
「うわ! やっちゃった!」
エレンが慌てて袖口でソファを拭うが、コーヒーはすぐしみ込んでしまって高価なソファにシミを作った。
それからウイルの視線に気がついて照れ笑いを浮かべる。地がバレちゃった——という顔だ。
「だ・・・大丈夫。ちゃんと経費で落ちるから・・・。」
「あー、えっと、その・・・」
エレンが取り繕う様がおかしくて、ウイルは少しだけ口の端で笑ってしまう。
「単刀直入に言うと、協力してほしいんですよ。博士。あのA国が・・・」
エレンはコーヒーカップをそっとテーブルに置いた。こぼさないように・・・。
「いや、どの国であろうと・・・、おそらくあのハッキング技術を欲しがっています。その技術を持っているのが博士である——と、A国中央情報局(CIA)が特定したんです。そして、同盟国である我々にすら秘密にしたまま、拉致しようとしたんです。プラン Cまで用意して・・・。」
「今、我が国はA国に抗議と申し入れを行っているところです。安全保障上重要な情報は共有することになっていますから、単独の拉致行動は明らかに条約違反です。我々は博士の身柄を預かっていることをA国に伝えてあります。今後、博士の協力を得て、あのハッキング技術についてさらに精度の高い防衛技術に仕上げたいと思っているのです。」
「その技術情報の一定の共有を条約に沿って行うことで、A国のプランCの発動が止まります。つまり・・・」
「ご協力いただくことが、博士とイオの身の安全を保証できる最良の道なのです。」
と、エレンはウイルの目をまっすぐ見つめて言った。
ウイルはなお沈黙している。
松原の件もある。
何をどう同意すれば安全で、何に同意したら危険なのか・・・。
ただ一つだけ、はっきり要求しておきたいことがある。
「イオを・・・、イオを許可なくいじり回さないでもらいたい。」
やはり声がかすれている。
「それと、イオの電源を供給してほしい。」
「一にも二にもイオなんですね。ちょっと嫉妬しちゃいそう。コンセントは好きに使っていいんですよ? お返事は今すぐでなくてもいいんです。ただ、安全を確保するには、あまり長引かない方がよろしいかと・・・。」




