18 争奪戦
「君は・・・たしか、ボリス・ディクスンだったよね?」
場違いなほどのんびりした声と共に、木の陰からこの場に相応しくないスーツを着た男が現れた。
余裕のある表情をしてはいるが、隙はない。
足元の雪や枯れ葉を踏む音さえ聞こえない。薄く残った雪のすぐ下は、落ち葉の層があるはずだが・・・。
ややキザったらしい感じもするが、この男も普通のやつではなさそうだった。
「J B ・・・か?」
ディクスンが前を向いてこめかみに銃口を当てられたまま、唸るみたいに呟く。
「会うのは初めてだと思うけど?」
「有名だからね。」
「スパイが有名になっちゃ、おしまいだな。」
J B と呼ばれた男は、ずっと声に微笑のようなものを含んでいる。
「あの襲撃はおまえたちか。同盟国じゃなかったのか、E国は?」
ディクスンが厳しい顔を前に向けたままJ B という男に言う。
「あれはR国だよ。カラシニコフの音だってわかってるんだろ、君だって? そもそも同盟国だって言うんなら、条約通り情報を共有しなかったのはなぜなんだい?」
ディクスンは不敵にも向きを変えて、銃口にまっすぐ顔を向けて J B を見た。
「撃てるかな? 背中に背負ってるのが何かはわかっているんだろ?」
J B は破顔した。
「さすがは名にし負うボリス・ディクスンだな。」
「スパイが有名になっちゃおしまいだな。」
ディクスンがやり返した。
「撃ちはしないよ。同盟国の職員だもの。」
「俺は撃つかもしれないよ。」
そう言うと、ディクスンはどこに隠していたのか、すっと小型の拳銃を取り出した。
「おやおや、この状況で撃ち合うつもりかい? 博士に流れ弾でも当たったら上になんて言い訳するつもりなんだ?」
J B がおどけたように言う。
が、ディクスンはにこりともせず銃口をウイルに向けた。
「J B 、君はプランCについては情報を得ていないようだね。」
「プランC? 敵に奪われるくらいなら——というやつか? 敵じゃないだろ、我が国とA国は?」
J B が呆れた顔をすると、ディクスンも銃口を睨みつけたままやり返す。
「横から掠め取ろうとするヤツが、よく言うよ。」
ウイルは銃口を向けられて、背中に汗がどっと吹き出した。
この男たちは・・・。
敵に奪われるくらいなら殺せ、と命令を受けてきていたのか——?
その命令を受けていながら・・・あんな笑顔ができるものなのか?
その時、意外なことが起こった。
ディクスンの銃を持った右腕がねじ上げられたのだ。
捻じ上げたのは J B でも第3の男でもない。
イオだった。
一瞬の後に、J B の拳銃の台尻がディクスンの顎を襲い、ディクスンの脳は大きく揺さぶられてその身体のコントロールを失った。
ディクスンが目を剥いたまま、雪の残る斜面に崩れ落ちる。
イオも一緒に雪の上に投げ出された。
「イオ!」
ウイルがイオに駆け寄る。
「いい仕事だった、イオ。優秀だね、君は。」
J B が屈託のない笑顔でイオに手を差し伸べた。・・・が、ウイルもイオも恐怖の表情で J B を見ている。
「そんな顔するなよ。まあ、無理もないけど・・・。私は、君たちを殺せなんていう命令は受けてないよ? 確実に、安全に、E国まで君たちを送り届けるよ。約束する。」
それからディクスンの方に向き直って、また彼に銃口を向けた。
ディクスンは目だけをぎょろぎょろさせているが、体の方はまだ、ぐたん、としたまま全く動かない。
「ヘリの音が聞こえるだろう。まもなく着く。我々のヘリだ。どうやって逃げるつもりだ、J B ?」
悔しそうにややロレツの回らない口だけを動かすディクスンに、J B は余裕の微笑みを返した。
「この先に人間を1人運べるドローンが4機、用意してある。私と博士とイオと操縦者のものだ。悪いが君の分はないんだ、ボリス。ちょうどヘリの音に紛れて、ドローンの音はかき消されるしね。」
そう言って、J B は銃口をディクスンの顔の部分に向けた。
防弾ベストは着ていても、頭部は無防備だ。
「J B !」
ウイルは思わず声を出した。
J B が笑顔でふり返る。
「心配しないで、博士。麻酔銃です。はなから殺すつもりなんてないんだ。」
プシッと音がして針がディクスンの首に刺さると、ディクスンの目が、とろん、と上を向いて、それから瞼が半眼になると表情が消えた。
「1時間くらいで目を覚ます。ヘリの仲間が見つけてくれるといいね。」
今度は J B がイオを背負った。
イオは最初戸惑ったようにウイルを見たが、ウイルが背負うのは無理だと覚ったらしく、おとなしく J B の背中に身を預ける。
「首は絞めないでくれよ、イオ。」
J B の声は、こんな状況の中でも相変わらず微笑を含んでいる。
わずかな雪明かりで斜面を進むこと数分で、やや開けた場所に出た。
薄い迷彩柄の布に覆われた4つの物体と、1人の女性が待っていた。
「いつでも飛び立てます。ヘリの音が大きいですね。」
女性は体にぴったりフィットした黒いスポーツスーツのようなものを着ていて、手際よく4台の機械を隠していた布を剥ぎ取っていった。
それは本当に薄い柔らかな布で、丸めると1枚がポケットに収まるような大きさになって女性の小さなリュックの中にしまい込まれてしまった。
「さ、博士。乗ってシートベルトをしてください。イオはこちら。ベルトは私がセットしよう。」
4人が乗り込むと、ドローンは静かに夜空に舞い上がった。
いや、プロペラの音はそれなりにしているのだろうが、近くでホバリングしてディクスンを待つヘリの音でドローンの音はかき消され、まるで無音で飛んでいるかのようだった。
ドローンの座席は4つのプロペラが付いた腕の下にぶら下がるように付いていて、決して快適な乗り心地ではなかったが、人1人を運ぶにはバランスの取りやすい合理的な構造だった。
飛び始めてすぐ、ウイルのスマホがブルルッと震えて着信があったことを知らせた。
誰だろう? とウイルがスマホをポケットから出してみると地図が表示されていて、現在地が赤い丸で示されている。
地図自体は大手プラットフォーマーのものだが、その下に「AEO」と文字が打ち出されていた。
イオか?
あいつ・・・。NET内に侵入したのか?
ウイルがイオの乗るドローンの方を見ると、イオが瞼だけで小さく目配せしてきた。
再びスマホが震えて、文字が打ち出される。
『ごめんなさい。でも、ウイルが不安だろうと思って。絶対にわからないようにやっていますから。これも通信が終わったら、全て消します。』
Wi-Fiは切ってあったはずだし、そもそもこんな場所にはそんなものはない。
どんな回線から入り込んでウイルのスマホを操作しているのだろう?
そう考えてから、ウイルは(ああ、あの悪戯の時に集めたデータを活用したな?)と思いが至った。
通信会社の回線に割り込むくらいは、難しくはあるまい。
しかしウイルは叱らない。
ウイルはイオに返事を書き込んでやった。
もちろん、イオと違って指で打ち込まなければならないが——。
『怒らないよ。こんな状況だから。教えてくれてありがとう。』
イオがにこっと笑うのが見えた。
『それでも万一を考えてフルネームを書き込むのはやめよう。頭文字の A だけにしよう。』
『なら、Will は W ですね。』
イオは成長している。
賢くなっている。
AI のそれではなく、知的存在として・・・。
ドローンは山陰を回るように隠れながら飛び、街の明かりが見える工場跡地のような場所に着陸した。