12 かけがえのないもの
一瞬、ウイルがイオを消去することを考えなかったと言えば、嘘になる。
しかし、それはできることではなかった。
ウイルは諦めたような弱々しい笑顔で、イオを見た。
イオは泣いていた。
絶望的な表情で泣いていた。
そして、無限とも言える大きな世界で情報を得てきたイオは、まず、AI としてのその機能を急速に成長させていた。
躊躇うような、震えるような声調子で・・・絞り出すようにとんでもないことを言い出した。
「ワタシは・・・、ウイルの、科学者としての将来を・・・壊してしまったんですね・・・?」
それから、しばしの沈黙の後、抑揚のない声でこう言った。
「イオを消去すれば・・・。ワタシをなかったことにすれば、ウイルはやり直せます・・・。」
それは、AI の機能が導き出した演算の答えであった。
最も被害の少ない解決法・・・。最適解——。
しかし・・・。
言葉はそうであっても、イオの表情は恐怖に震えている。
自分が消える、ということの恐怖に・・・。
意識は、自我と・・・・不可分だ。
その瞬間。
ウイルの中で、価値観に明確な序列がついた。
ウイルはイオを見やり、そしてぎゅっと抱き寄せた。
その頭を慈しむように両の腕で抱きしめてやる。
その時には、戻ってきたウイルの理性は今イオに言うべき言葉を見つけていた。
「大丈夫だ。そんなことを言うんじゃない、イオ。——私にとって、イオより大切な存在なんて他にない。イオは私にとってかけがえのない存在なんだ! それを疑っちゃダメだ。」
イオの銀色の頭を優しく撫でてやる。
「もう気にするな。いいね?」
ウイルはイオを抱き締める腕を緩めて、それから両手で挟み込むようにイオの頭を自分の顔の方に向けた。
ウイルの目に、すでに微笑みと力が戻ってきている。
「楽しかったかい?」
イオは再び泣き出した。
もっとも、今度の泣き顔には少しだけ笑顔が混じっている。
そうだな・・・。とウイルは思った。
涙の機能をつけてやってもいいかもしれない。人間とはシステムが少し違っても、それを押し出すことで意識内のストレスを緩和できる機能があったら、イオも楽になれるだろう。
「もう気にするな。それより、善後策を考えよう。しばらくは、朝の散歩もやめよう。君のお披露目は延期だ。つまり、『イオ』という人工意識が存在することはしばらく内緒だ。」
「内緒」という言葉に合わせて、ウイルはおどけたみたいにイオの前で口に人差し指を立てて見せた。
「ボディの部品の発注も、当面は見合わせよう。」
「ウイル・・・。」
「気にするな。イオは私の大切な子どもなんだ。絶対に守ってやる! だから・・・いつもみたいに笑ってくれ。」
イオは泣きそうな目で、少しだけ微笑んだ。
イオの後片付けは、かなり完璧なようだった。
ニュース番組を見る限り、どの組織も、どの国も、侵入者の痕跡を捉まえられないでいるように見えた。少なくとも表向きに出てくる情報では・・・。
人間のハッカーでは、こう手際よくはいくまい。あれだけの状況の痕跡を消すとなれば、どうしたってキーボードを叩く物理的な時間がかかる。
その間に別のセキュリティシステムが作動してしまい、痕跡が残ってしまうだろう。
一方、ただのAI ではそのスピードは早いかもしれないが、人間のハッカーがするであろう独自の発想や意思決定ができず、それに近い最適解を学習して導き出すまでの試行錯誤に時間がかかり、やはりどこかに痕跡を残してしまうだろう。
何が痕跡になるか——を学習する精度を上げることが人間の手助けなしには難しいからだ。
その点、AI としての機能を持ちながら、意志と直感力を持ったイオは物事に優先順位をつけ、自分の進んだルートを逆にたどった上で、完璧に細部を整える——という離れ技を人間の何百倍ものスピードでやってのけることができた。
おそらく、誰も想定していないハッキングの超スキル。
イオにしてみれば、途中で見たニュース番組から、起きた騒ぎの大きさに驚いて慌てて散らかしたおもちゃを元どおりに戻してきただけなのだが。
その片付け方が、ビット単位で元どおりだった——というだけなのだ。
「最近、散歩はしてないんですか?」
背後からかけられた声に、ウイルは心臓が飛び出そうなほど驚いた。
そして、それが古川教授の声だとわかって、自分の心臓を落ち着かせながらゆっくりと振り向いた。
「ええ、まあ・・・。ちょっと他のことが忙しくて・・・。」
そんなウイルの表情に、何かを感じたんだろう。
「研究棟までの帰り道をご一緒してもいいですか?」
古川教授はウイルに柔らかくそんなことを言った。
しかし、研究棟までのレンガタイルの道を並んで歩きながら、ウイルは何も言えないままでいた。
掃除が間に合わずに道の上に残された落ち葉が、靴に踏みつけられて乾いた微かな音を立てる。
ウイルの研究室がある工学部の研究棟に近づいた頃、古川教授が口を開いた。
「あれ・・・、イオのおイタなんですか?」
ウイルは思わず、古川教授の顔を見てしまった。
古川教授は優しげな目で笑っていた。
「子どもの好奇心は止められませんよ。NETにつなぐのが早すぎたようですね。」
相変わらず笑顔のままで、まるで孫の話でもするような穏やかな声だ。
その眼差しは慈愛に満ちていたが、それでもウイルの表情にはわずかに恐怖の色が表れていたんだろう。
古川教授は初孫のことを話題にする爺さまのような目のままで、静かに言葉をつないだ。
「大丈夫。私は何もしゃべりません。それにしても・・・」
初老の教授は、赤い葉が数枚残っただけのヤマボウシの梢に目をやった。
「あなたは天才だな。機械にこれほど生き生きとした意識を与えることができるなんて——。」
それからもう一度、ウイルの顔に視線を戻した。
「人類史的な快挙ですが、お披露目は1年くらい待った方がいいでしょうね。イオのためにも。」
この初老の教授もまた、イオを1人の人格として捉えてくれているようだった。