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忌中

作者: キリュン

 豪徳寺駅を南に向かうと細い路地につながっていて、そこは急な上り坂だったから私は自転車を降り、前かごに額を合わせて歩いた。ちょうど8月の中頃、油蝉の地鳴りと、むせ返るような湿気が隣の豪徳寺を囲う林縁から漂い、乾いた灰色のアスファルトに靴底が貼り付くような感覚を覚える不快な季節で、粘膜の渇きを生唾で凌ぎながら私は過去に幾度か訪れた角の古本屋を目指した。中州が最後に言った言葉が、私にはよく聞き取れなかったのだが、あの時の中州の眼差しと何事かを口にしたその口元が私の脳裏で幾度も反芻される。介護福祉士を目指して福祉大学に通っていた中州は実習先の施設の利用者と折り合いがつかなかったのが原因で留年し、その後の実習先で働いていたらしい佳奈という一つ下の介護士と付き合い始め、そして実家を離れた。路地に迫る林縁の隙間から豪徳寺廟の背中が僅かに見え、豪徳寺の背中側などこれまで見たためしがなかったから思わず振り返ると、遠くに小田急電鉄の高架が見えた。駅前から続いていたはずの路地は気づけば人がすれ違うのがやっとの狭さで、向いの軒先で植木に水をあげていたらしい老婆が私を訝しそうに見つめていた。古い記憶を辿ってきたつもりが古本屋の名前もよく覚えていなかった。


「ゲンカドウ」だと老婆は言った。耳になじみがなかったから、昔からその名前かと聞くと老婆はそうだと答えた。中州は豪徳寺のはずれにアパートを借りて佳奈と住んでいた。私が行くといつも佳奈の声が扉越しに聞こえた。佳奈に諭されて介護士の道を諦めた中州がその後どうなったのか、それもよく分からない。細路地は突き当りに出て、私は豪徳寺の森から離れるように左へ歩いた。油蝉の地鳴りが遠のき、樹冠に隠れていた太陽が後頭部を焦がした。道幅が広がると路地は駅前に繋がる通りへと出た。


 私は自転車を置き忘れていた。老婆に話しかけた時、私は確かに自転車を塀の前に掛けたのだった。元来た道は緩い下り坂が延々と続いた。続いた先に豪徳寺のこんもりとした森が見え、太陽は半身を森に隠していた。直射を遮られ、鈍く光りだす太陽の日差しに家々の屋根瓦が黒く照り返し、路脇に生えるヒナゲシのか細い茎が微風にそよいでいる。そこは確かに中州の住むアパートへ向かった道だった。下り坂を行った手前の路地を右に折れた先だ。下り坂の凹凸、下った先の崩れた空き家の影の形まで過去の記憶そのままだった。何か足の速い昆虫が私の脳内を激しく横断している気がした。初めて中州の住むアパートへ訪ねて行ったその晩、中州に勧められるままに酒を飲んだ私は、隣にいる佳奈が突っ伏した私を介抱する姿を想像したのだ。帰り際、中州は私に残り物だと缶ビールを二つほど手渡し、また来てくれと笑った。それが最後だった。


 路地は幅員を狭め、アパートはどこにもなく、老婆が私を見ていた。老婆はそこだと言った。

「そこがゲンカドウだ。」

 曇り硝子を閉め切った平屋の前に、私は立っていた。向かいには豪徳寺を囲う林縁が迫り出し、その先に豪徳寺廟の背中が見えた。私は自転車を探した。昆虫がまた駆けずり回り、私の記憶の中で躓き転んだ。裏返しになった昆虫は翅をはみ出してもがき狂い、足を宙でばたつかせる。私は曇り硝子の扉を開いた。古紙特有の刺激臭とともに古本がせりだしその奥に老父がいた。


「ここにアパートがあったはずだが。」

 老父は眼だけを私に向けた。私は老父の口元を、今度こそ聞き漏らすまいと喰い入るように見つめた。

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