月の王
真昼の空に浮かぶ月、夜空に浮かぶ本物の月ではない、砂で作られた偽物のその月には、ひとりの王が住んでいる。家来も妃もないその王は、蜃気楼の城でひとり、真昼の月を見つけてくれる誰かを待っている。ひとりぼっちのその王は、どんな願いも叶える力を、しかし決して自分自身のためには使えない力を、持っている。王は今日も耳を澄ませて、真昼の月に気付いてくれる誰かを探していた。
町には灰色のため息が満ちていた。人々は争い、信じず、そして信じないでいることに疲れ果てていた。誰もがうつむき、無言で、足早に通り過ぎていく。だまされぬよう、出し抜かれぬよう、油断なく辺りを見回し、自分のパンをしっかりと抱えこんで。この世に美しいものがあることを、世界には楽しいことがたくさんあるということを、みなは忘れているようだった。雲ひとつない澄んだ空さえ、見上げる者は誰もいなかった。
町外れの小高い丘の上には、娘がひとり、住んでいた。両親を早くに亡くしたその娘は、両親が残した粗末な家の庭で、きれいな花やよく効く薬草を育てては、それを町で売って生計を立てていた。薬草はよく売れたが、きれいな花はまるで売れない。それでも娘は毎日、必ず花を持って町を回った。娘はこのきれいな花たちが少しでも町の人々を明るい気持ちにしてくれることを信じていたのだ。娘は、両親と過ごした楽しい思い出も、花が美しいということも、明日がきっと幸せであるということも、何も忘れてはいなかった。
町からの帰り道、娘はカゴいっぱいの花を見て、少しため息を吐いた。町の人々は今日も、花には目を留めることもない。
「こんなにきれいなのに、どうしてみんな気付いてくれないのかな」
カゴの中で無念そうに横たわる花々に、娘はそっと手を触れた。町の人々の花に対する反応は冷淡なものだ。花で腹はふくれないと、ただそれだけ。
確かに花はパンの代わりにはならない。なくても生きていけると言われればその通りかもしれない。しかし花は、空腹を満たさない代わりに心を満たしてくれるものだ。苦しい日の辛さを、生きることの困難を、花の美しさが、香りが、包み込んでくれる。娘はせわしない日々を送り心を削られている町の人々にこそ、花は必要だと考えていた。
夕暮れ間近の朱金色に変わり始めた空を、娘は見上げた。空は様々に表情を変えるが、その美しさは今も昔も変わらない。人の営みなど顧みぬと、残酷なほどに、空は空のままあり続けている。父に連れられて行った野原でも、母を看取った薄暗い部屋でも、こうして町からの帰り道でも、見える空の色は変わらない。
「まだこんなに明るいのに、もうお月さまは出ているのね」
娘は南の空に、白くぼんやりと霞む月を見つけた。それは何かの拍子に消えてしまうような、頼りない月だった。まだ太陽の支配する時間に間違って出てきてしまったような所在なさを感じて、娘は少し笑った。欠けることのない真円を描いているのだから、もう少し堂々としていればいいのに。そう考えてふと、娘は足を止める。今日は満月だっただろうか? 昨日夜空に昇った月は、半分よりも欠けていたような――
「願いを、言うがいい」
突然背後から、娘に声が掛かった。少しかすれた、男の人の声。尊大な言葉とは裏腹な、どこか縋るような切実さを感じ、娘は振り返った。そこにはいつの間にか、無数の宝石が散りばめられた王冠を頭に載せ、赤く豪奢なビロードのマントを羽織った、三十になるかならないか、という年齢の男が立っていた。そのきらびやかな格好とは対照的に、髪もひげも手入れもされず伸び放題で、目は前髪に隠れてしまっている。肌は土気色で精気なく、やや背を丸め、表情を失ったその姿は疲れ果てた老人を思わせた。
「願いを、言うがいい」
男はもう一度、同じ言葉を同じように言った。娘は男の言葉の意味を理解することができなかったが、しかしその切実な声音を無視することもできなかった。娘の願いを聞くことが男にとって何の意味があるのかは分からないが、それが男にとって何か大切な意味があるのだということは感じ取ることができた。
「どんなお願いでも、いいの?」
娘は男に問いを返した。その顔にためらいと、気恥ずかしさが浮かぶ。男は表情を変えぬままうなずいた。
「どのような願いでも構わぬ。どのような願いでも叶えよう」
娘は男に近付くと、その手を取って、頭一つ分高い男の顔を見上げた。
「だったら――」
粗末な家の小さな台所には、似合いの大きさの古いテーブルがある。大きさの割に重く頑丈な木の椅子に座り、男はどこか所在無げな様子だった。娘は鼻歌を歌いながら芋の皮をむく。少しずれた王冠をテーブルに置き、男は小さく息を吐いた。
――一緒に、お食事はいかが?
娘が男に願ったのは、およそ願いとも呼べぬ他愛のない提案だった。戸惑う男の手を引き、娘は自らの家に男を招いた。誰が迎えることもない、がらんとしたその家には、空隙を埋めるように色とりどりの花が飾られている。娘は男を台所に招き入れた後、嬉々として食事の支度を始めていた。
「何か、手伝うことがあるだろうか?」
所在のなさに耐えかねたのか、男が料理をする娘の背中に声を掛ける。娘は振り返り、笑顔で首を横に振った。
「お客様を働かせるわけにはいきません。どうぞ座っていらして」
むぅ、と小さくうなり、男は口を閉ざす。娘はずいぶんと機嫌のよい様子で、皮をむいた芋を一口大に切り、水を張った鍋に放り込む。竈に火をくべると、やがてくつくつと鍋が沸騰し始めた。
「もう少し待ってくださいね。大したものは出せませんけど」
浮かれた空気をまとって鍋をかき回す娘の後姿を、男は戸惑いながら見ていた。
「さあ、召し上がれ」
男の前には木製の椀によそわれた、芋とわずかな根菜を水で煮て塩で味を付けた粗末なスープが置かれている。娘は男の向かいに座り、目を閉じて神に感謝の祈りを捧げていた。祈りの終わりを待ち、男は口を開く。
「なぜ、食事を?」
娘はやや気恥ずかしそうに目を伏せた。
「ひとりの食事は、味気なくて」
そして娘は、男の様子を窺うように上目遣いで言った。
「……ご迷惑でしたか?」
男は小さく首を横に振る。
「いや」
男の目はどこか、今でない時、ここでない場所を見つめている。
「……確かに、ひとりは、味気ない」
娘はほっとした表情を浮かべた。
「さあ、いただきましょう? 冷めてしまう前に」
木のスプーンを手に取り、手本を示すように娘はスープをすくって口に運んだ。それに釣られたのか、男もまたスープに口を付ける。娘がじっと男を見つめた。決して美味とは言えぬであろうスープは、
「……うまい」
男の顔をわずかにほころばせる。嬉しそうに娘が笑った。
「私はどんな願いでも叶えることができる」
食事を終え、男は娘に語る。
「だから願いを、教えてほしい。金が欲しければこの部屋を埋め尽くしてなお溢れるほどの金貨を与えることができよう。憎い者がいれば今夜のうちに冷たい骸とすることができよう。世を支配したければ、明日には玉座にお前を座らせることができるだろう」
娘は慌てたように両手を振り、男を制止する。
「そんな、ひとりで生きるのにそんな大金はいらないし、それほどに誰かを憎むなんて恐ろしいこと。まして世を支配するなんて、考えたこともありません」
男は娘の答えにひどく落胆したようだった。それは男にとって切実な、決定的に大切なものの欠落――誰かの役に立つことができないのだという、無力感のようなものなのかもしれない。娘は男の様子に狼狽し、意味なく視線をさまよわせると、無理やりに話題を変えた。
「そ、そういえば、お名前をお伺いしていませんでした」
家に招いて食事までしたのに、と、自分に呆れたように娘は言った。男は答えに詰まるようにうつむき、何か重苦しいものを吐き出すように言った。
「名は、忘れてしまった」
「自分の名前なのに!?」
娘は思わずといった様子で驚きの声を上げ、すぐに「ごめんなさい」と消え入りそうな謝罪をつぶやく。男は気にしていないと示すように首を振り、寂しげな笑みを浮かべた。
「ずいぶんと長い時を、ひとりでいた。誰の名を呼ぶことも、誰から名を呼ばれることもない、長い長い時を」
名を忘れ、己が何者であるかも忘れ、覚えているのはただ、誰かの願いを叶える魔法を自分が持っているということだけ。自分のためには決して使えない、ひとりでいる間は何の意味もない力を持っているということだけだと、男は言った。だからずっと待っていたのだ。蜃気楼の城で、真昼の月を見つけてくれる誰かを。ぽつりぽつりと話す男の言葉に、娘はじっと耳を傾けていた。
「願いを教えてほしい。望みを叶えさせてほしい。そうでなければ、私は――」
願いを叶えさせてほしいという奇妙な懇願の裏側にある切迫した感情を受け取り、娘は少しの間沈黙すると、男から視線を逸らせ、ためらいがちに口を開いた。
「……私は、両親を亡くして、それ以来ひとりでここに住んでいます」
言葉の意味を捉えかね、男は娘をいぶかしげに見る。
「だから、その、あの――」
娘の頬に朱が上る。正視できぬとうつむき、膝の上で強く手を握って、娘は気恥ずかしさを振り払うように大きな声を上げた。
「ここに、住みませんか? 私と、一緒に――」
男は目を丸くする。娘は顔を真っ赤にして、不安げに男を見つめた。想定していた『願い』とは違ったのだろう、男は戸惑いながら答える。
「それは、構わぬが……」
「ほんとう!?」
娘は思わず立ち上がり、椅子の足が床をこする。目を白黒させる男の手を取り、娘は花がほころんだような笑顔を浮かべた。
それから男と娘は、町外れの小高い丘の上の小さな家で暮らした。自らの名を忘れた男を娘は『王さま』と呼んだ。男は薬草や花の世話を手伝い、慣れぬ土仕事をこなす。ささやかな幸せがそこにあった。世の人々がため息に沈む世界で、この小さな家にだけは温もりがあった。長い孤独の時が終わり、二人は空隙を埋めるように微笑みを交わす。穏やかな時間が流れた。失われるはずのない、穏やかな時間が流れた。
予言が為された。神からの人類に対する未来への警告。
『大いなる絶望は最後の希望に宿り、そして世界を滅ぼすだろう』
滅びの予言は瞬く間に世界に広がり、人々はこの世の終わりを嘆き、悲しみ、恐怖におびえながら暮らすことになった。しかし、いつ終わるとも分からぬ絶望の日々を怯え暮らし続けることは、人々には不可能だった。人々は救いを求め、知恵を絞った。大いなる絶望が最後の希望に宿るというなら、絶望が宿る前に最後の希望を消してしまえばよいのではないか? その結論に至った時、人々の脳裏には一人の娘の顔が浮かんでいた。まだこの世に希望を持ち続けている、花売りの娘の顔が。
その日は雲一つない快晴で、娘と王は今日も花と薬草の世話に追われる。手で汗をぬぐった顔に土がつき、顔を見合わせて二人は笑った。
「休憩しましょう」
王にそう声を掛け、娘は大きく伸びをした。すでに太陽は中天に差し掛かり、遮るもののない陽光が容赦なく降り注いでいる。今年は例年に比べて雨が少ない。近くを流れる小川は未だ豊富な水量を維持しているが、この日差しが恩寵となるか厄災となるか、今の段階で判別するのは難しいだろう。町では水不足を心配する声があちこちで聞こえていた。
――ザッザッザ
遠くから大勢が地を踏みしめる音が届き、娘と王は麓へと続く道へと目を向けた。そこにはこの丘を目指して歩く兵の一団がある。皆が一様にうつむき、重い足を引きずるように、自らのつま先を見つめながら前に進んでいる。やがて兵たちは娘と王の前に辿り着き、二人を囲んだ。怯える娘を王はその背にかばう。兵を率いる老将が一歩前に進み出て、ひどく疲れた様子で口を開いた。
「どうか、世界を救っていただきたい」
唐突な具体性のない言葉に王は訝しげな視線を向ける。老将は重苦しいものを吐き出すように告げた。神が与えたもうた預言の内容を。
『大いなる絶望は最後の希望に宿り、そして世界を滅ぼすだろう』
己に罪はないと固く目を瞑り、老将は言葉を続ける。
「もはやこの世に希望を抱く者はおらぬ。お主以外は誰も。ゆえに世界を滅ぼす絶望はお主に宿るに相違ないのだ」
「何が言いたい」
低く怒りをはらんだ声音で王が問う。老将は言葉に詰まった。声に出すことをためらっている、いや、言葉にすることで己が糾弾されることを怖れている。慎重に言葉を選び、ぽつりぽつりと老将は言った。
「世界を、滅ぼすわけにはゆかぬ。罪なき者たちを死なせるわけにはいかぬのだ。世界を滅ぼす絶望が、世に姿を現す前に、最後の希望には消えておいてもらわねばならぬ。世界を救うには、そうするしかないのだ」
老将は鞘ごと短剣を外し、王の足元に放り投げる。がちゃんと音を立てて短剣が地面に転がる。王は激しい怒りを表し、老将を焼き尽くさんとばかりに強く睨みつけた。
「自ら命を絶てと、そう言いたいのか!」
糾弾に怯えるように、顔を上げた老将の声が揺れる。
「ほかに方法がないのだ! それ以外に、何も! どうか聞き入れてくれ! 世界を救ってくれ! 我々をどうか、救ってくれ!」
二人を囲む兵たちが「助けて」「死にたくない」とすすり泣く。自らは被害者なのだと主張している。娘は胸の前で両手を握った。王はその怒りをさらに強くした。
「ふざけるな! 真実かどうかも分からぬ預言とやらに従う謂れはない!」
「真実であったらどうする!? 真実であったなら、世界が滅んでしまうのだ! 世界が滅んでしまえばあなたがたも生きてはいられまい! ならば結局同じではないか! ひとりの犠牲ですべてが救われるなら、それが一番良いとは思わぬか!?」
老将はわずかに言い淀み、不自然に視線を逸らせる。
「……たとえ預言が真実でなかろうと、一つの命ですべてが丸く収まる」
視界が眩むほどの怒りに王は顔色を失う。この者たちが求めているのは世界の救済などではない。彼らはただただ、こう言っているのだ。
『自分は悪くない』
自分は悪くない、だから結果として起こるあらゆる事象の責任を自分が負うこともない。自分を巻き込むな、問題は勝手に解決しろ、私に迷惑がかかる前に。だって私は悪くないのだから――彼らが武装し娘と王を囲みながら剣を抜くことすらしないのも、自ら手を汚したくないからなのだ。直接手を下せば関係ないと言えなくなる。
「……帰れ」
こぶしを握り、奥歯を噛みしめて、うめくように王は言った。なお言い募ろうと口を開いた老将は、王の焼き滅ぼすような双眸に射抜かれ、言葉を飲み込む。深く息を吐き、苦悩を滲ませ、老将は言った。
「……日を改め、また」
老将は踵を返し、兵を率いて丘を下りていく。その後ろ姿は倦み疲れ、日差しに焼かれた影が亡霊のように揺らめいていた。
「王さま……」
娘が震える声で王に呼びかける。王は遠くなる兵の背をにらみつけながら吐き捨てるように言った。
「己の妄想に怯える痴れ者だ。何も気にする必要はない」
うん、と心細げに娘はうなずく。王は振り返ると、怒りを収めて娘に微笑んだ。
「茶を入れてくれるか。喉が渇いた」
「はい」
ぎこちなく笑い返し、娘は小走りに家に戻る。王は再び麓に顔を向け、厳しい表情で重苦しく沈む街を見据えた。
改めて、の言葉の通り、老将はそう日を空けずに姿を現した。ひとりで訪れて哀れみを乞うかと思えば、大勢で押しかけて恫喝し、自己犠牲の尊さを讃え、世界の命運を背負う者の責任を説く。王は傲岸な哀願者たちを蹴散らすことに追われ、畑の世話もままならず、娘の願いを集めて育った花々はつぼみのまま枯れゆく。
そして、しばらくの時が過ぎた。
その日は雲一つない快晴で、娘は今日も黙々と薬草の世話をしている。雨が降ったのはもういつのことだっただろう。小川の水量は細り、花に与えるだけの余裕はなくなっていた。乾ききった土に横たわる枯れた花たちに目を向け、娘は悲しそうにうつむいた。
王は町へと赴き、食料の買い出しをしている。娘が町へ行けば何をされるかわからぬと、王は娘に町へ行くことを禁じていた。王は自分がおらぬ間、彼女に家から出ぬようにとも言っていたが、独りで家にこもる時間に娘は耐えられなかった。身体を動かしていれば余計なことを考えずに済む。
乾いた風が丘を渡る。手をかざし、娘は空を見上げた。澄んだ青は吸い込まれるようで、娘は我知らずため息を吐く。世界は美しい。人の願いを一顧だにしない残酷さを持っているとしても。
「今日は、あの男はおらんのだな」
不意に声を掛けられ、娘は表情を硬くした。老将が数人の兵を連れ、娘の前に立っていた。娘は無言で彼らに背を向ける。老将がすがるように言った。
「待ってくれ! もう、時間がないのだ!」
切実な声音に娘は振り返る。老将は地に伏していた。
「預言が語る終末の日は、明日だ。明日、あなたに大いなる絶望が宿り、世界は滅びを迎える。そうなる前に決断してもらわねばならぬのだ。取り返しがつかなくなる前に!」
娘はどうしていいか分からないように視線をさまよわせ、しゃがみこんで老将に手を差し伸べる。
「どうか、顔を上げてください」
「いや、このまま!」
伏したまま老将は叫ぶ。びくりと体を震わせ、娘は差し出した手を引いた。
「今日、生まれた赤子がおる! だが両親は生まれたことを嘆くよりほかにない。明日死にゆくなら、今日生まれた意味は何であるのかと!」
喉よ枯れよとばかりに老将は言い募る。娘は自らの手を握りうつむく。
「町の者たちが語るは運命を呪う言葉ばかり! だがさもあらん、明日滅ぶ身でいかな愛を語れようか! 皆が惑い、嘆き、救いを求めておる!」
打ち据えるように言った後、老将は顔を上げた。真摯な瞳が娘を囚える。
「もう、分かっていよう。心優しく気高いあなたなら、己が何を為すべきかを。どうか、どうか! 子らに未来を! 罪なき人々に幸福の未来を! あなたはそれを為しうる、この世で唯一の存在なのだ!!」
「わ、たし、は――」
娘は蛇のように絡みつく老将の眼差しを振りほどくことができずに震えている。老将は息を吸い――
「何をしている!」
手に持った荷物を地面に放り、王は娘と老将の間に割って入った。視線を落とし老将は小さく舌打ちをする。娘を老将から引き離し、王は老将を厳しく見据える。
「……もはや猶予はない。滅びはすぐそこまで来ている」
「下らぬ妄想だ。神に踊らされるのはお前たちの勝手だが、それを他人に押し付けるな」
老将は苦々しく顔を歪めた。
「分かっておるのか。世界が滅べばお主も死ぬのだ!」
娘が息を飲む。王は冷めた目で、
「滅ばぬ世界の滅びに怯えるは愚か者よ。恐ろしいなら預言の日まで家に閉じこもって震えているがいい。その翌日に窓から見える世界は、きっと昨日と変わらぬであろうよ」
老将の言葉を切って捨てた。奥歯を噛み、老将は忌々しそうにつぶやく。
「……後悔することになるぞ」
王はその言葉を鼻で笑った。老将は王たちに背を向け、今日も町へと帰っていった。
太陽が今日の役目を終え、空は仄明るい闇に覆われつつある。星々が舞台袖で出番を待つ時刻に、娘は独り、畑の向こうにある断崖で空を見上げていた。その断崖は世界の連続性を断ち切るように丘に不意に現れ、今はその底を見通すこともできない。
「ここにいたのか」
王が安堵した様子で娘に声を掛けた。わずかに乱れた息は、娘を探して周囲を駆けた証だろうか。
「戻ろう。一人でいては危険だ」
娘は王の呼び掛けに答えず、空をじっと見つめている。王が戸惑いを顔に浮かべた。やがて娘はつぶやくようにぽつりと言った。
「ねぇ、王さま。わたしね――」
そう言って娘は再び口を閉ざす。王は戸惑いを強くしながら、じっと娘の次の言葉を待つ。娘は空から視線を戻し、王を振り返って微笑むと、
「……おなかすいちゃった。早く戻ってご飯にしましょう」
王の横を駆けていった。戸惑いを解消できぬまま、王は娘の後を追った。
夜が明け、預言が告げる滅びの日が訪れる。澄んだ空は高く、ひんやりとした空気が早朝の静寂を包んでいた。世界が滅ぶというには穏やかな始まり。それとも破滅が訪れるのはむしろこんな日なのだろうか。
娘はいつもと同じように朝食の用意をしている。王は小川に水を汲みに行く。何も変わらない、何も変わらないように、どこかぎこちなく、いつもと同じように。
そんな日常を引き裂いて、常ならぬ無数の足音が聞こえる。鉄靴が地を踏み鳴らし、鎧が耳障りな金属音を立てる。武装した無数の兵が丘を登っていた。その先頭に老将がいる。
王は水桶を捨て、娘のいる家に駆け込んだ。娘は窓に顔を寄せて迫る兵を見つめている。娘は不思議なほどに落ち着いていた。王は娘の手を掴み、裏口から家を出る。慌ただしい気配に気づき、兵士が走り出した。
乾いて横たわる畑を横切り、王は娘の手を引いて走った。背後で兵が剣を抜く音が聞こえる。王の前に山に分け入る獣道が見える。そこに飛び込もうとして、王は急に止まった。靴が地面を削り、泳ぐ娘の身体を王が支える。獣道から槍を持った兵士が現れた。王は向きを変え、再び走り始める。しかし――戻ったところで、開けた道などない。兵に行き先をふさがれ、道を断たれ、王と娘は断崖へと追い込まれた。
「……もはや、一刻の猶予もない。滅びは今日、訪れる。今、この瞬間にも」
老将の顔は青白く憔悴し、滅びの運命を露ほども疑ってはいない。世界が滅ばぬことなどあり得ぬという強固な確信がこの男を支配している。半円に王たちを囲む兵が剣を槍を構え、その輪を一歩狭める。王は理解できぬと憤りを叩きつけた。
「お前たちのその絶望こそが世界を滅ぼすとなぜ分からぬ! ただ明日を信じるだけで、滅びの運命など自ずから消え失せるというのに!」
老将は力なく首を横に振った。
「もはや我らは、己の明日を信じることなどできぬ。しかし黙って滅びを受け入れることもできぬ。仕方がないのだ。滅びを宿すのがその娘ならば、その娘に死んでもらうよりほかにないのだ。どうか堪忍してくれ。どうか受け入れてくれ。申し訳ない、申し訳ない――」
老将は膝をつき、ぼろぼろと涙を流す。兵たちもまた、許しを請うて泣いていた。その身勝手さに眩暈を覚えるほどの怒りが王を満たす。王が口を開こうとしたとき、
「王さま」
穏やかな娘の声が、ひどく鮮明に広がる。娘は王の手をほどき、断崖の端に立った。王は娘を振り返る。娘は、美しく微笑んだ。
「世界を、救ってね」
王の瞳が収縮する。娘の身体が後ろ向きに倒れた。王が手を伸ばし――その手が空を切った。
「なぜ!」
王が叫び、断崖の端から下をのぞき込む。はたして、娘はそこに在った。中空に浮かび、娘は眠るように目を閉じている。その身体からはひどく禍々しい闇が、滲み出すように広がり始めている。
「これが、世界を滅ぼす『絶望』……?」
闇は重力に負けるように地面に向かい、そこに生える草を、木々を飲み込む。最初からなかったように、すべてが形を失くしていく。老将が、兵が慄き、座り込んで震える。王は振り返り、憎悪の眼差しで彼らを貫いた。王の視線に怯え、皆が頭を抱えて丸まる。
闇は存在を等しく食らいながらゆっくりと広がる。その中心で娘が目を閉じていた。王の身体が光を帯び始める。それは王が持つ、願いを叶える魔法の光。王は驚き、周囲を見渡す。どんな願いを掛けられた? 誰の願いを叶えるというのだ?
――世界を、救ってね
娘の声が蘇り、王は大きく目を見開く。そして、理不尽に抗するように叫んだ。
「どうして、どうして世界など救わねばならない! お前を犠牲にして、お前にすべてを押し付けて、己は生きて当然と居直って恥じぬ者どもを、なぜ救わねばならない! 世界など滅べばいい! この世界に価値などない!!」
王の叫びに老将がびくりと震える。人々が許しを請い、「助けて」とすすり泣く。その姿は王の怒りと憎悪を煽った。王から放たれる光が翳る。
――世界を、救ってね
娘の最後の声が聞こえる。王が強く奥歯を噛んだ。あちこちで己のことしか考えぬ者たちの声が聞こえる。
娘の最期の声が聞こえる。他者を踏みつけて生きる権利があると疑わぬ者たちの救いを求める声が聞こえる。
彼女の、最期の願いが聞こえる。
――オオオオオオォォォォォーーーーーーーーーーー!!!
王の放った獣の如き咆哮が天を引き裂き、光が溢れる。光は世界を侵食する闇を灼き、闇の中心にいる娘を灰に変えた。空を仰ぐ王の頬にぽたり、雨粒が落ちる。雨雲のない澄んだ空から雨は降り注ぎ、大地を潤していく。
王は虚ろな瞳で周囲を見渡す。滅びの闇が消えても、老将も兵たちも、うずくまったまま動こうとしない。彼らは怯えているのだ。滅びを免れたとたんに、娘を犠牲にして生き延びた罪に怯える。必死に、何度も、「仕方なかったのだ」と言い訳を繰り返す。王はひどく静かな声音で言った。
「お前たちは不幸になってはならぬ。幸福にならねばならぬ」
老将たちが顔を上げる。その顔には一縷の希望を見出した様子がありありと見て取れた。赦されるという希望。赦してもらえるという期待。王は冷淡に言葉を続ける。
「お前たちに不幸になる自由などない。彼女を犠牲に生き延びたお前たちに」
老将たちは呆けたように王を見る。当然に掛けられるであろう優しい言葉がなかったことに驚いている。もはや王は視界に入る彼らを見てもいなかった。
「この世にはわずかな不幸も許されぬ。お前たちにはひとかけらの絶望も許さぬ。幸福になれ。幸福であれ! いついかなる時も、死が訪れるその瞬間でさえも! それが叶わぬというのなら――」
王の目に憤怒と滅びへの意志が宿る。それは、滅びを免れた滅ぶべき世界への全き絶望だった。
「すぐにでも滅びはお前たちの頭上に舞い降りようぞ!」
己の罪を、他者を犠牲にして恥じぬ傲慢を突き付けられ、人々はすすり泣く。「私は悪くない」「私のせいじゃない」と、何度も何度も繰り返しながら。
真昼の空に浮かぶ月、夜空に浮かぶ本物の月ではない、砂で作られた偽物のその月には、ひとりの王が住んでいる。家来も妃もないその王は、蜃気楼の城でひとり、虚ろな瞳で世界を監視している。世が絶望に沈んだ時、不幸が世に満ちる時、この滅ぶべき世界を滅ぼすために。