曙色
ソレは不意にもぞりと動いた。辺りは暗く深く、そして恐ろしい程静かだった。
音という音、色という色、物、匂い、気配、何もかも感じないそんな空間。
いや、正確には多少は周囲の状態は認識出来るだろう。
その身を横たえている地は湿っぽくそして体温を奪い去るかのように冷たい。人間の素足で踏み締めたならじゃりじゃりとした砂のような石ころのような、掃き溜めた塵の上を歩くような、そんな不快な感触が足に伝わって来たのだろうしソレの居る空間はジメジメとした重苦しい空気で満ちている。
きっも肺いっぱいに空気を吸ったなら息の重苦しさと何とも言えない不快な匂いに胸が満たされている事に嘔気を感じる者も居るかもしれない。
しかしソレは不快な場所であるという認識もなく只々、其処に居続けていた。
時間も、空間も認識する事なく感傷も感慨もない。停滞している何処か腐臭を帯びた空気に先程ソレが動いた事で些細な空気の流れが起こったが、それすら気付く様子も無く只その場に在り続ける。
何の起伏も起きないまま無意味な時間が流れるだけだったが、闇の支配する静寂の中に聞こえる筈の無い耳をつん裂くような悲鳴を聞いた気がしてソレは堪らず身を震わせた。
そして思考するという認識もないままにソレは意思を緩慢に巡らせる。
偶に聞こえて来る絹を裂くような音が何なのか、何故それに恐怖を覚えるのか、いや、恐怖しているという認識もないまま何故僅かに残る情動に身を動かされているのか。
何時から此処に居るのか、何時からこのようにしているのか、ーーー何時からヒトリなのか、それすらハッキリしない。
そんな思考が浮かんだ刹那、またあの身を震わせる鋭い音がソレに届いた。
…………アレは、音。そうだ人間の、悲鳴だ。
なら、アレは誰が発したものなのだ。そもそも何時から悲鳴を上げているのか、アレは本当に聞こえたものなのか。
…………………アレは、自分にとっての、何だ?
緩慢な意思が辿り着いた思考はしかし、降って湧いた新たな疑問にピタリと考えるのを止めた。
自分とは、何だ?自分とは、どういうものだ?
……………………………どうして自分が、気になるんだ?
同じ疑念をぐるぐると繰り返していると、不意に思考するソレの真ん中が縮むようなヒビが入るような感覚を覚える。
感覚は徐々に強さを増していき次第にソレの身体は勝手に感覚から逃れようと動き始めた。
身の中心が刺激を受けてどうする事も出来ない感覚に激しく身悶える。
四方八方に身を伸ばし、うねり、逃げようと這いずる。
突然の事になす術なく思考が嵐のように混乱するが身体を地に打ち付けた瞬間広がった衝激にこれが痛みなのだと理解した。
あぁ、そうか。痛いから痛みを逃そうとしているんだ。
痛いから、痛みから逃れようとしているんだ。
身のあちこちに広がる感覚が痛みのそれだと理解した途端、全身が燃えるような心地を覚えた。皮膚が引き攣るような、裂かれるような、まるで燃やされているかのような。
声なき声を上げ必死に身を捩り、周りに助けを求め周囲の音を聞き漏らさんとするも返ってくるのは静寂のみ。
終わる事のない身を貫く痛みにソレはヒトリ絶望した。
そうして幾許の時間が過ぎたかーーーその身を蝕み続ける堪えようのない酷い痛みに思考する事も儘ならず、次第に意思が外界を遮断しようと停滞して来た頃ーーー
ーーーソレは音を聞いた。
遠くにぼんやりと、しかし規則正しく聞こえてくる音は二つ。
ざり、ざり、と踏みしめるようなその音に誰かの足音だと理解した。
音は段々と此方へ近付いて来ているのか次第にハッキリとしたものへと変わっている。その事実にソレは歓喜した。
あぁ!誰かがやって来た!
これで漸くーー漸く、助けて貰える!
久方振りに働かせた意思は歓喜に激しく揺らいでいた。この瞬間を待っていたかのように。
苦痛が終わる瞬間を待ち侘びていたかのように。
二つの足音は近くに居ると分かる程の距離まで来るとゆっくりと止まった。
そして足音の上から上がるほぅ、という哀しげな溜め息。
「………秘色、見つけたよ」
「本当だ……もう、かなりボロボロだね。身体は消える寸前だ」
「うん………でもまだ魂は残ってる」
始めに聞こえたのは、そんな声だった。
一つは幼さが滲むのに何処か長い年月を感じさせる少女の声。
もう一つは青年というには少々翳りと深みがある落ち着いた声。
二つの声が紡ぐ言葉の意味は殆ど分からなかったが、目の前に居る己に対してのものだというのは何となく分かった。
「安心して……貴方を助けに来たの。触れても、良い?」
空気の流れと声の近さから少女の声の主が側に屈んだ事を察した。
そしてゆっくりと近付いて来るものがその者の腕である事も。
ーーそっと触れられた瞬間、全身が震えた。
何故なのか途轍もなく久しい感覚に襲われる。
それが指先で、人の温もりで、己の喜びである事に気付いたのは一拍遅れてからだ。
身の中心が揺れ動き始める。強く、強く訴え掛ける。
叫ぶ。懇願する。張り裂けそうな想いを募る。
己は、自分は、何か教えて。
もうヒトリは嫌。痛いのは嫌。此処から連れて行って。
どうか、どうか助けて!
衝動に任せた感情は身を激しく震わせ温もりに触れようと必死に身を伸ばす。
その様子に驚く事もなく慰めるように優しく撫でてくれる手の主は慈しみの声でソレに応える。
「……曙、貴方の名前は曙。夜明けの、明るくて優しい目に滲む色だから」
途端、ふわりと抱き上げられる感覚がした。
近くに感じる温かさと柔らかさ、そして人肌の優しさに包まれて涙が出そうな程嬉しかった。
慈しみの泥濘に身を預けながら深い安心に包まれる。
そして微睡みの中、弛緩していた意志がやけにハッキリとしてくる感覚がした。
嘗て抱いた疑念が晴れていく心地になる。
自分、自分は、曙。
夜明けの世界に始まりを齎す、儚くも美しい色。大好きだった、色。
ーーその事を思い出した彼女は泣いた。
もう来ないあの日々に。我が身に降り掛かった災いに。そしてあの永劫の業苦から解放された事実に。
そして涙の膜の張る眼で自身を抱き上げる存在を見た。目の前の人物は穏やかな顔をして此方を見守っている。声から想像した通りの優しげな少女は視線に気付くと野花のような淡い笑みを浮かべた。
「曙、一緒に帰ろう」
あぁ、彼女の側に。共に居られるのだ。
これからは一人ではなく彼女の側に居続けられるのだ。互いを歓迎する視線はしかし、もう一人の声が届いた事で断ち切られた。
「綺麗な名だね、曙。魂も浄化が進めばまた本来の色を取り戻せるよ。その魂が名の通りの光に染まったら僕も嬉しい」
落ち着いた口調の青年はそう言うと此方を見つめ微かに首を傾けた。肩に掛かる白髪がさらりと溢れる。
魂、と言われ己の中心……胸の辺りを無意識に見遣る。
不思議と魂と呼ばれたものがそこにある固まりであると直ぐに分かった。煙るように濁りを帯びた己のそれは雨雲の隙間から差す陽のように明けの彩色を帯びていた。
これが、魂か。ならこの二人にもあるのだろうか?
そう思い己に触れる少女の胸元へ視線を移す。
果たしてそこに彼女の魂はあった。しかし、彼女の中心に灯る静謐を湛えた淡く清らかな色は己のそれよりも酷く小さい。そして次に見遣った彼のそれも似た風合いの色を帯びていた。
だが、彼の方がやや大きいもののやはり大きさはその背丈に似合わず小振りに見える。
不思議に思い首を傾げていると彼は己の挙動に訝しむ様子もなく穏やかに少女へ告げた。
「ーーそれじゃあ帰ろうか、青磁」