5.大賢者の仕事1
その人住まぬ荒れた古城には、割れた鏡があるという。鏡を見た者は精魂を吸われると言われていた。
さて、事態の解決を望んだ土地の領主が魔術師の塔に依頼をし、受けた魔術師がこの噂を調査し、いずれ悪卑の仕業かと乗り込まんとした。
折しも、急な雨に降られたらしき旅人が雨宿りのために古城に入る。古く隙間風がある城だったので、暖を求めて内部へ入り込む。徐々に足取りがふらふらしたものへと変じる。これはいかぬと魔術師は急いで後をついていく。
旅人は導かれるように奥まった部屋に入った。
戸口に駆け寄って見れば、部屋の中央に鏡があり、旅人は食い入るようにそれを眺めている。
「ああ、なんて美しい」
鏡には美しい女性が映し出されていた。そっと手を鏡に触れると、ずぶずぶと指先が入り込む。その異様さをおかしく思うほどの正常さを失っていた旅人は恍惚の表情で吸い込まれて行く。
鏡の中に入り込んだ旅人は絡みつくように白いしなやかな腕に引き寄せられる。女性は豊満な胸に旅人を抱き寄せた。その女性の華奢な肩の向こうに毛むくじゃらな肩が見える。
にゅ、とそこから黒っぽい毛におおわれた腕が伸び、はっしと旅人の頭を掴んだ。その段になって、旅人は我に返り、驚き慌てるも、とんでもない怪力で頭をひっつかまれ宙づりにされる。手足をばたつかせるが、くわ、と大きく開いた口に食まれる。口にはびっしりと鋭利な牙が並んでいた。一旦閉じた口を何度かかるく開閉するたびに、血しぶきが飛び、旅人の身体は跳ね奥へ吸い込まれて行く。咀嚼音は、鏡だけがぽつんとある部屋に響いた。
悪卑が食事を摂っている間、美しい娘は懸命な目線を魔術師に向けて来る。そして、食事が終わりそうな頃合いに、もう行けとばかりにそっと手を振る。魔術師は小さくうなずいて、そろそろと音を立てないように後退りして部屋を出た。古城を出たら、不思議なことにあれほどどんよりと厚い雨雲が覆っていたというのに、どこへやら、晴天だった。
「それで?」
長々としたいきさつを聞いたエタンは、長話を聞かせるためだけに呼び出したのではなかろうと顎を上げる。背もたれに背を預けてリラックスした様子だが、魔術師長、つまり魔術師の塔の長を前にしての態度としてふさわしいとは言えない。
「その鏡の中の悪卑を退治してほしいのです」
「相手が悪卑なんだったら、聖職者の領域だろう?」
怪訝そうな表情でエタンが尋ねると、魔術師長は苦渋に満ちた顔つきになる。
「名のある聖職者が幾人も向かいましたが、戻ってこなかったのです」
「それで、魔術師の塔に依頼が回って来たのか」
エタンは考えを巡らせる。
「だとしたら、その鏡に取り込まれる一件を傍から眺めることができた魔術師は幸運だったな」
「我らもそう考えています」
恐らく、ひとりで鏡と対峙すれば、その魔術師も帰って来ることはなかっただろう。
「ですから、複数人の魔術師を送り込みました」
ところが、彼らは戻って来ることはなかった。
「ひとりを撒き餌にして、時間を置いて複数人で当たれば良かったのでは?」
「そ、それは、」
そんな非道なことを、と声音に非難の色をにじませる。
「なにも食われているところを傍観している必要はないさ。餌に意識がもっていかれてかかりっきりになったところを、食われる前に仕留めれば良いだろう?」
簡単に言ってくれるが、それができれば、という心情が、表情を取り繕っても瞳にありありと浮かんでいる。不満があるが真正面からそう言うことができないのは、エタンが当代随一の魔術師であるからだ。そのエタンが召喚士になったからこそ、魔術師長の座に座っていられる。表立ってはほかの魔術師といっしょに引き留めはしたが、エタンが魔術師の塔がある王都を出たことを喜んでいるだろう。
「まあ、いい。鏡の来歴は調べたのか?」
大賢者の仕事をすれば、それなりの報酬を得られる。当分はのんびり暮らせるというものだ。エタンとしては、召喚獣であるグランとイマイチ召喚士生活を送ることが出来たらそれで良い。グランは魔力量が少ないことからか、同族たちにさんざんからかわれてきたからか、自信がない。エタンがいきなりすごい召喚士になったら、それはそれで気後れするだろう。ふたりでいっしょにゆっくり一流の召喚士と召喚獣を目指せば良い。
「飼い猫にうるさく言われつつも庇われたり世話を焼かれたりするのも良いものだしな」
さっさと仕事を終えて可愛い猫が留守番をする家に帰るために、エタンは情報を得ることにする。
鏡は神殿に奉納されるべく心を込めて作られ、納められてからは浄められていた。ところが、長い年月を経たのち、神殿は盗賊に襲撃され無残に打ち壊された。美しい装飾がされた鏡は戦利品として持ち去られ、都市で売られた。買い取った者から別の者へと売り渡された。そして、美しい鏡は病弱な娘に与えられた。
裕福な家の娘で、絵姿が残っていた。古城で一部始終を見てきた魔術師に見せたところ、鏡の中にいた女性とそっくりだという。
「娘は恋焦がれた者がおりました。しかし、その者は大変貧しい下男でした。そんな者に嫁げば苦労しない筈もなく、そんな生活に娘が耐えられる道理もないと両親は反対しました」
けれど、ふたりの恋心は募り、とうとう、下男は禁呪に手を出した。
エタンは話の先が読めた。ままならない世の中だからこそ、突出した力を手に入れて望みを果たそうとするのかもしれない。
「その日、縋る娘を素気無く突き放すことができなかったところを娘の父親に見られ、ひどく打擲されたからです」
なるほど、暴力を受けた痛み、屈辱が根底にあったのだ。
そこで呼び出されたのが悪卑であり、娘と一緒になりたいという願いを言った。もちろん、代償を必要とした。だが、下男は失うものなどなにもないとばかりに頷いた。
翌日、娘の父親に呼び出された下男は心変わりした雇い主に熱心に娘との結婚を勧められた。是非もなく妻に娶りふたりは結ばれた。
しかし、結婚式の次の日の朝、下男の前には代償を寄越せという悪卑が現れた。悪卑は下男を食い殺し、娘をも食らおうとした。そうすることで永遠にふたり一緒だとうそぶいた。
娘はとっさに鏡の後ろに隠れた。長年神殿で祝詞に馴染んできた鏡は聖性を帯びており、悪卑を封じ込めることに成功した。しかし、なんとしたことか、悪卑はただでは吸い込まれるものかとあがき、娘をひっつかんだ。娘は悪卑もろとも鏡に閉じ込められた。
若夫婦が中々起きてこないことに不思議に思った娘の母親が見に来た。泣き叫びながら助けを乞う鏡の中の娘に、母親は駆け寄った。悪卑はすかさずその母親を鏡の中に招き入れ、食った。次は父親である。
娘はとんでもないことになったと恐れおののいた。だから、もはやだれにも助けを求めなくなった。それでも、悪卑は狡猾に、娘の陰に隠れて近寄ってくる者をひっぱりこまんと虎視眈々と狙っている。
そうして、呪われた鏡だと言われ気味悪がられるようになり、朽ち果てた城に打ち捨てられたという。その時には鏡の後に回って布をかぶせ、厳重に梱包して運んだのだという。しかし、大分経ったある日、その覆いは取られた。古城に一夜の宿を借り受けようとした者が取り去ったのだ。そして、惨状は再開されるようになった。
「なるほどな。しかし、よくもそんなに詳細に分かったものだな」
「一部始終を使用人が見ておりまして」
そして、事の次第を娘の兄夫婦に報告したのだという。彼らは神殿に聖職者を呼びにやってなんとかしようとした。けれど、次々に犠牲者が出た。神殿でも匙を投げられ、「呪われた鏡だと忌み嫌われ、人が住まない古城に捨ててきた」というのが正確なところなのだと言う。
「その兄夫婦とやらが後継ぎなんだろう。残った者たちは生計を立てなければならないからな」
聖職者の手に負えないものを、自分たちがどうこうできるとは思えない。妹は囚われたままだが、どうしようもない、といったところだったのだろう。
それでも、後を継いだ夫婦は使用人たちに固く口止めしていただろうに、よく聞き出せたものだ。さすがは、魔術師の塔の長を務めるだけあるというところか。
「今、悪卑は久々の食事で腹が満ちております」
しばらくは大人しくしているだろうが、噂がひとたび立てば、好奇心に駆られた者たちを引き寄せられ、犠牲者は増える一方だろうと魔術師長は言う。
「古城ごと粉々にするのは?」
「できれば、お控えいただきたく」
エタンの提案を、魔術師長は恭しく首を垂れながら拒否した。
「まあ、そうだろうな。そうしていいなら、すでに他の魔術師の誰かがやっているだろう」
魔術師長は顔を伏せながら、そんなことができるのは当代でもひと握りしかいないと冷や汗をかく。しかも、古城を破壊しても鏡だけ残ったのでは意味がないのだ。野ざらしになって人目にさらされるだけ、まずい。
「わかった。古城の位置を教えてくれ。報酬は?」
魔術師長は地図を広げて位置を指さし、報酬額を答えた。
エタンは淡々と聞いた後、魔術師の塔を出た。それを魔術師長が見送る。
滞在時間はごくわずかなものだったが、大賢者が王都へやって来たという話はどこからか伝わったらしく、エタンが出かけて行った後に王宮やその他もろもろから招待の声が掛かる。魔術師長は苦々しい気持ちでそれらの報告を聞く。
エタンは今までに数人しかいない大賢者の称号を授けられた者だ。
なにがすごいと言って、まず、魔術を変容させることができる。無詠唱すら使える人間は限られているというのに、そんなことまでできるのだ。
上級魔術ですら、その名称のみ唱えることで発動する。無詠唱で行うと、調整が難しいということや上級魔術がとうとつに発現すると他の人間が驚くというのもある。
エタンは脅威そのものだ。
権力者たちは自陣に取り込もうとしたがことごとく退けられた。敵対せず、おもねることを選んだ。
なぜなら、遠見と上級魔術を併用することができるエタンは暗殺し放題なのである。
魔術耐性や防御力が高いと抵抗しやすい。腕の良い魔術師に防壁の魔術をかけてもらっていれば、抵抗の効果は高まる。だが、攻撃魔術を放った術者の能力が高いとそれすらも凌駕するのだ。つまり、エタンの機嫌を損ねれば、いつ火だるまにされるか分からない。
いっそ、亡きものにした方が、という声が上がったのは当然の結論と言えよう。数多の刺客が差し向けられた。けれど、大賢者とまで言わせしめた男だ。すべての火の粉を払い、涼しい顔をしている。
その余裕ぶりから、常に探知を使用してでもいるというのだろうかと疑ったこともある。だとすれば、その感知網の外から魔術を放つことができなければ仕留められないだろう。まさか、それらを完全に防ぐ防壁を常時使用していることもあるまい。
「今回の仕事は聖職者の領域。あの男もそうそう悪卑を倒せはしまい」
そうして、評判を落とせば良いのだ。魔術師長は王宮からの招待状を指先で弾いて鼻を鳴らした。