第2話 博士とテスト勉強
「助手よ、思うことがあるのだ」
「何です? 博士」
米田モニと癒音康彦である俺たちの腕相撲からはや一週間。
あれから、俺と彼女の上下関係は決定的となり、今や俺は彼女を『博士』と、彼女は俺を『助手』と呼んでいる。
「君が研究に専念する為には、まず基礎的な知識を固める必要があると思うのだ」
「やっとお気づきになられましたか」
彼女が勧める論文や教材などは、どれも大学レベルのものである。微積分の知識、力学や熱力流体力学などなど、高校受験を終えたばかりの、平均的偏差値高校生には理解に苦しい。
俺も諦めが早いので既にディスクの上には博士から渡されたそれらが散らかっているものの、内職でゲームをしている始末である。注意? されたけど無視してる。
「それで、助手の成績を把握する必要もあると思ってな。学期初めに実力テストがあっただろう。数学と科学、英語、いくつ満点があった?」
「当然のように満点があると思わないでください。確か数学が三十五位、理科が八位、英語は百二十位くらいだったかな。英語はほぼ平均点です」
「英語がそれとは……君は一体普段何を読んでいるのかね」
「星新一とか太宰が好きですけど」
「日本語で書かれた書物など書物に数えんよ」
日本文学ファンの皆さん。
この女、日本文学のワビサビをバカにしてますよ。
「そもそも理数系以外は平凡な成績なんですよ。これでも理科の点数は周りからも一目置かれてましたし、物理化学になっても小テストで高点数は取ってますけど」
「馬鹿言え。英語が読めなければ盲目に等しい。TOEIC800点は目指してもらわねば」
だから意識が高いって。
俺ついこの間まで中学生だったんだけど。
「まぁいい。とにかく次の中間テストでは数学物理化学、英語の科目で満点を目指してもらう。さて、早速テスト対策の為に勉強を教えてやる。カバンを開きたまえ」
「博士」
「何だ助手」
「中間テスト、3日後です」
☆☆☆
さてさて。
急遽にして思いつきによる勉強会が開かれることになり、俺は土曜の休みに博士とカフェで待ち合わせをしていた。
奈落手市のイオンモール、喫茶コメダである。博士はスターバックスに行こうと言っていたが、あそこはオシャレンティが過ぎるので暗に断った。というのも、俺はTシャツに短パンというラフな格好くらいの気持ちで望むつもりだったので、場違いに思われるのも嫌だったからだ。
「待たせたな」
イオンの自動ドアから、博士がやって来た。
青のカットソーの上に、白衣を羽織っている。若干ブカブカなあたりから、知的さと幼稚さのギャップが面白い。それに、大きめのハンドバック肩にかけている。
「女性より先にくるくらいの気遣いは助手にもあったか」
「まぁ、それくらいは。一応は女の子相手ですし」
良い心がけだ、などと博士は偉そうに語ってみせる。
お互いの挨拶が済んだところで、俺たちはコメダに入る。テーブル席を1つ陣取ると、
「では、このアメリカンコーヒー。ブラックでだ」
「俺はアイスティー。ストレートで。ガムシロップは入れてください」
と、ほぼ即決で注文を済ませた。
「早速だが、ほらこれを」
と言って、博士はハンドバックから新聞紙を取り出す。手元に置かれたそれを観察すると、英字新聞だった。
「読めませんけど」
「辞書くらいあるだろう。スマホで調べることできる」
「読めと?」
「読め」
俺はそれを無視して英語の教科書を取出し、新聞紙は傍らにはじいた。
「君……無言でスルーって……」
「バカ言わないでください。テスト勉強しに来たのになんで英字新聞にトライしなきゃいけないんですか」
「英語の勉強には変わりないだろう。長期的にはTOEICの対策にも……」
「博士、家庭教師のバイトとかしたら一日目で親呼ばれる才能ありますよ」
知能指数と教師の資質は比例しないらしい。予感はあったが、まさにこの日はそれを実感した。
博士のスパルタ教育は酷いものだった。
例えば、俺がふと英単語を呟いたとすると、
「テンプレチャ」
「テンペチヤァ、発音には気をつけなさい。このように、舌の先を前歯に付けるようにチャァと発音するのだ」
わざわざ口を開いて見本を見せてくる。はしたないぞ博士。
その後も、博士の横やりは続いた。英語のみならず……いや、数学物理化学なんて特に『暗記に甘んじて本質的な理解』が疎かになったら即座に指摘が入った。いや、確かに良いことなのだが、些かテスト範囲外に寄り道が過ぎている。と言うか、重力加速度だけにしても、万有引力の法則がどうとか、それの測定技術だとかを語って一時間近く消費している。口が回り過ぎだろう。
「ここまで出てきた振り子による重力加速度の測定だが、現在は高真空中の自由落下による直接測定のほうが精度が良いとわかっている。真空中に物体を落下させ、その位置と時間の関係を精密に測定するのだ。この距離の測定にはレーザー光を当てる。レーザー光によって、物体落下の光路差が変化し、波長ごとに干渉縞の強弱が変わるので、それを計数して距離を測定する。時間の測定は原子時計だ。結果的に、精度で言えば10のマイナス八乗以上のgが測定できるの言うわけだ」
※渥美茂明・ほか編『自然科学のためのはかる百科』参考図書
彼女の横槍をうまく聞き流しつつ、ふと気づく。
「博士、コーヒー飲まないんですか?」
「……」
あ、黙った。
明らかに地雷を踏んだ反応だ。
「もう冷めてますし、何より2時間位ちょびちょびと口つけてるだけじゃないですか。席代と思えばもう少し頼みましょうよ」
「あ、ああ。そうだな。そのとおりだ」
たどたどしいとはまさにこの事。
博士は震える手でカップを手に持ち、苦虫を噛みしめるように口につける。
苦虫を噛みしめるように、というか。
まさに、そのものというか。
「博士……ブラックコーヒー飲めないんですか……?」
「⁉」
あ、図星だこれ。
「助手はいつもそうだな! 私を誰だと思ってるんだ⁉」
「じゃあ飲んでくださいよ。コメダの店員に悪いと思わないんですか」
「そ、それは……」
砂糖入れなよ。
優しさの一つでもあれば、俺はそう言ってやれたのかもしれないが、ちょっと面白そうなので黙った。
「まぁ俺は砂糖ガンガン入れたアイスティー飲みますけどね」
サーッ。
俺はシュガレットを3束取って、一気にアイスティーに投入。
「そんな……3束も同時に何て……なんて冒涜的な……紅茶への冒涜……英国への反逆……」
「何を言ってるんです? 甘味料とは糖質、体のエネルギーですよ。まずい訳がないんです。つまりはそれを沢山入れたほうが紅茶は旨い。幼稚園児でも知ってることですよ」
「でも、太るじゃないか……」
あ、そこはちょっと乙女らしいのね。
「そこは理論で語るより実際に飲まないと分かりませんがね……」
と、呟きながら俺は更に3束、シュガレットを投入する。
「助手! それ以上いけない!」
「博士……貴女はまだ気づかないんですか」
「何を言うか! それ以上砂糖を入れても溶けきれず沈殿するだけ……」
「ええ。つまり飲めば飲むほど、砂糖の濃度が上がる……。下に行くほど、砂糖の濃度は高まり、美味しくなっていく」
「⁉」
俺はゴクゴクと砂糖たっぷりのアイスティーを飲んでいく。甘い、あまりにも甘い。アイスティーが持ちうる限界にまで濃縮された甘さが口に広がる。
それを博士は羨望の眼差しで眺めている。自分は苦々しいブラックコーヒーを飲んでいるのにも関わらず、眼前の助手は限界まで甘くしたアイスティーを飲んでいるのだ。うら若き乙女には拷問にも等しい苦しみに違いない。
「ふぅ」
半分ほど飲み干しだ時点で、俺はカップから口を離す。飲みすぎたせいか、尿意を催した。
「ちょっとおしっこしてきます」
俺は席を後にし、トイレへ向かう。おしっこの色は黄金色に輝いていた。甘くて美味しいものをたくさん食べると、人は黄金を精製する。後で博士に報告しよう。
1分ほど立った頃か。
俺が博士のいる席に戻ると、博士は調子を取り戻したように
「戻ったか助手。さて、次は数学を始めるぞ。数学は自然科学を表現する学問。世界の公用語は英語だが、しかし数式は世界の誰にも通用するコミュニケーションツールとも呼ばれている。その神秘を君も体験しないとな」
「あの。俺のアイスティーが空になってるんですけど」
俺が残しておいたアイスティー。
それは、氷を残してほぼ空になっている。
「……」
博士の方に目をやると、彼女はフリーズし、たじろいでいる様に視線を逸らす。
「今しがた、な?」
やっと、博士が口を開く。
「そこに、ハクビシンがやってきたのだ」
「ハクビシンですか」
「それで、君のアイスティーを飲んでいったのだ」
「飲んでいったのですか」
「私は止めようとしたのだがな? 野生動物を刺激するのも良くないと思ってな?」
「危ないですもんね」
「……」
「……」
「美味しそうに飲んでましたか?」
「ああ……」
博士は弱々しく肯定した。
☆☆☆
そんなテスト勉強がありつつも、二週間後のこと。
「それで、助手よ。テストの方はどうだった」
「おかげさまで、勉強したところはどれも高得点でしたよ」
俺はカバンから成績表を取り出して、彼女に渡す。
「……。まぁ、及第点か」
理数系はどれも十位内、英語も三十位内で俺からしたら大健闘も良いところなのだが、彼女はまだまだ不服と言いたげだ。
「それでもテストの点数だけ聞いた親はかなり喜んでましたけどね。教師からも名前呼ばれるくらいには褒められましたし」
「他者の評価も大事だが、現状に甘んじることなく精進しろ」
なかなか手厳しい。
しかし彼女の実績を考えると当然か。
「ちなみになんですけど、博士は成績どんな感じなんですか」
「私か? まぁ口で説明するより見たほうが早い」
と、博士は俺に成績表を手渡す。
「……。スゲー」
「ふふっ、当然の結果さ」
理数系、英語、全て満点。当然1位。こんな成績表は初めて見るぞ。
……あれ?
「博士……」
「なんだ」
「古文漢文、4点って……」
「……」
「順位も下から3番目とかじゃないですか。選択問題で当てずっぽうで正答したレベルの点数ですけど」
「……」
何黙っとんねん。
「ていうか世界史日本史の成績も酷いものですね。赤点スレスレですけど。辛うじて現代文は平均点ですが」
「私が必要と思った知識を、相応に学んだ結果だ」
「博士、古文漢文の解答用紙見せてもらいますね」
「あ、ちょ! 止めろ!」
博士が制止するより早く、俺は彼女のカバンをまさぐる。
「うわぁ……」
古文50点のうち正解は選択問題1点のみ。漢文50点のうち選択問題1点と、現代意訳で部分点で2点。
こんな酷い回答解答用紙は見たことがない。
選択問題と現代意訳の問題は全部解答欄を埋めてるけど、それ以外は空白。何というか、分からない問題は回答しないという彼女のプライドを感じる。
「……。魅惑美貌の完璧天才少女の、あられもない点数を見て満足したか? 助手よ。そうやって弄ぶような真似をするなんて下衆なやつめ。そうだ。古文漢文は確かに無学無才ここに極まれりだ。ほら。優越感を感じると良い。そういう趣味なのだろう? 最低のサディストめ。見損なったぞ助手」
「勝手に拗ねて勝手に見損なわないでください」
と言うか、何気なく自分の事を魅惑の美貌とか言ってるし。
「下手に古文漢文の点数取りに行ってるあたり、最下位だけは回避してるのが見えて悲しいですね」
「……」
そろそろなんとか言え。
「ま、まぁ、俺も文系科目は平均点ですし」
「しかしだね、助手よ。今後の人生で古典の知識が何に影響するというのか。そう考えると、テストの点数だけの為に勉学に時間を消費するなど無駄だと思わんかね」
「いや、俺古典はあんま勉強してませんけど」
「……いやいや、そんなはずあるまいて。それは、あれだろう。『俺あんま勉強してないわー』とか言いつつ、ちゃっかり勉強して良い点数取るアレだろう」
「いや、古典のテストって授業内で紹介される作品から出題されるじゃないですか。要は中間テストくらいなら授業だけで十分に平均点なら取れるはずなんですよ」
「……」
まぁ、課題はともかく、テスト勉強自体は疎かにしているので、模試とかになれば点数取れないだろうけど、今回は理数と英語を重視してたので俺にとって、古典は平均点取れれば十分だ。
「授業、何してるんですか……?」
「……」
「あの、期末は赤点で補修あるはずですけど」
「……勉強を、教えて、ほしい」
「はい」