Girl's View 1
その子に初めて会ったのは、草むらの中だった。その日は、子犬が死んだ日だった。
1ヶ月前に父親が知り合いからもらってきた、まだ生後数ヶ月の子犬。茶色い丸い毛玉・・・ポメラニアンの血が混じった雑種だと父は言った。両手で救い上げられる程小さくて、黒いビーズのように光る眼と、黒いサテンのボタンのようにつややかな鼻を持った子犬だった。
わたしと妹は夢中になった。動くぬいぐるみのような子犬。夢中にならない子どもがいるだろうか?朝起きるとすぐ遊び、学校が終わると文字通り飛んで帰った。不満そうな顔をする友人も、家に連れて帰って子犬と一緒に遊んだ。ずいぶんうらやましがられて、少し得意になったりした。
一月たって、少し妹は飽き始めたようで、朝はTV、夕方は友達……といつもどおりの日常に戻っていったが、わたしはまだ子犬に夢中だった。朝・夕のごはんも、夕方の庭遊びも(まだ子犬は小さくて、外ヘの散歩は禁じられていた)ペットシーツ替えも、全てわたしがやった。母は突然まめまめしくなったわたしを見て、
「部屋のそうじと勉強もこれぐらい熱心にやってくれたらねえ」
とからかい半分のぐちを言った。母は、私が子犬の世話をすることを、意外に思いつつももちろん歓迎していることはわかっていた。父が気まぐれで犬をもらってきた時、一番難色を示したのは母だったからだ。
「この子たちはどうせすぐ飽きて、結局世話するのはわたしなのよ」というわけだ。その予想は外れ、母は昼に子犬の相手をする以外、特段何もせずに済んでいた。だから、子犬が一番になついたのもわたしだった。
子犬には、何かがあった。知性、だったろうか?わたしは子犬が何かをわたしに伝えようとしているのが判ったし、子犬もわたしが何かをつかもうとしているのが判っているようだった。その「何か」は時々で変わる。庭で「アリ」を見つけたとき、ごはんが思いがけなくおいしかったとき・・・わたしにはそれがわかったし、わたしにしかわからないこともわかっていた。だけど、その朝、わたしはその「何か」をつかみ損ねてしまった。いや、つかんでいたのに、何もしなかったのだ。
その日、子犬が毎日のあいさつをしに来たとき、黒い瞳がじっとわたしを見て、それからほんの少し首をかしげた。いつもより動作がゆっくりで、そして小さなため息のような息を吐いていた。よく見ると鼻も乾いている。
「お母さん」
わたしは言った。
「この子、体調悪いみたい」
キッチンにいた母は朝食に出すきゅうりを刻みながら、
「あ、そう?かぜ気味とかあるのかしらね?様子みておくわ」
「でも、今日でかけるんでしょ?わたし・・・」
「でかけるのは昼過ぎよ、あなたは学校に行きなさい」
わたしが様子をみておく、といおうとした言葉を、きゅうりをすっぱり切るような調子で母はさえぎった。子犬がきて一月あまり、夢中になり続けているわたしを、母はそれはそれで少し心配しているようだった。
本当にみていてね?早めに病院につれていってね?何度も念を押して、わたしは学校に行った。授業も、お昼も、全て上の空だった。そうじが終わった後の下校前の「連絡会」では、机の下で足を小刻みにパタパタ動かして、先生に注意される程だった。終了の礼と同時に教室を飛び出して、走って帰った。家に着いたが、家には鍵がかかっていて、まだ母は帰っていないようだった。
カバンをひっくりかえして底から鍵を引っ張り出して家に入った。玄関に足を踏み入れる前から、もう悪い予感は的中しているとわかっていたような気がする。いつもなら必ず迎えに来ているはずの、子犬の姿がない。上がりかまちに手をついて、靴を脱ぎ飛ばしながら、それでも一縷の望みにすがって、母が子犬を病院に連れていっているんだと、そう考えようとしていた。
でも、もちろん違っていた。子犬は、いつもの寝床から、少し離れた部屋のすみで、TMと扇風機の間で、丸くなっていた。寝床から毛布が少しはみ出ていて、子犬はそれを引っ張り出そうとしたようだった。わたしは子犬の名前を呼びながら、そっとゆすった。子犬の目は閉じられていて、ほんわりと暖かかった。眠っているだけのように見えた。でも何かが決定的に違っていた。そっと持ち上げたが、何の反応もなく、でもただ信じられないほど穏やかな表情をしていた。少しつかれて眼を閉じた、そんな風に見えた。
病院にいけば、まだ手遅れじゃないかもしれない、そう思ってそっと持ち上げた、でも毛皮のしたに感じる柔らかな身体の動きはなく、軽くそして堅く、持ち上げたわたしの手も石になっていくような感じがした。
子犬は、わたしの子犬は、去った。
わたしは床に座ったまま、ひざの上のスカートを広げ、その上に子犬をそっと置いた。そのまま、子犬をなでていた。戻っておいで。……戻っておいで。
でも戻ってこないことは判っていた。「戻っておいで」とそう願うこと自体も、ポーズのようなものだった。どこかの話で読んだ、どこかの主人公のしぐさを真似しているだけだ。心の表面でつるつる滑る、それだけの……
わたしが連れて行くべきだったんだ。それは、今となっては、明らかなことだった。本当に心配だったら、わたしが何とかするべきだったんだ。母が当てにならないのはわかっていた。わたしほどにこの子のことはわかっていないのだから。学校なんて、休んだってどうということはない、母がうるさいのなら、一旦行って、戻ってくればよかった。それだけのことだった。あんなにイヤな予感がしたのだから。お金だっていくらかある、病院の場所も知ってる。なんで、なんで連れて行かなかったのか。なんで、なんであのときにもっとちゃんと言えなかったのか。急に苦しくなって、子犬の上にかぶさるように前かがみになって、歯をくいしばった。
ほんの8時間ほど前にわたしを見上げていた子犬。「何か」のあった子。わたしが、わたしが……。
玄関で、ガチャガチャ音がした。どさりと何か重いものが置かれる音も。
「まあ、なに、カギも開けっ放しで……靴もカバンもほうりっぱなしじゃないの。ちょっと、アキちゃん、いるんでしょ……」
話ながら歩いてきた母は、リビングのすみに座っているわたしを見て息をのんだ。そして子犬の寝床、わたし、ひざの上の子犬とさっと目をはしらせると、わたしの側にかけよった。子犬にそっと手をふれ、わたしの方を見ないで、
「お母さんが出かけるときは、元気だったのよ」
とつぶやいた。
「嘘だ。」
わたしの発した言葉は、わたしの予想以上に強い勢いで、静かな家の中にぱっと広がった。
「うそじゃないわよ!お母さん、ちゃんとチビちゃん確かめてから出かけたもの!」
母はわたしの言葉に押された分を押し返そうとでもするように強い調子で言い返した。わたしはもうほとんど聞いていなかった、わたしが思ったのはただひとつ、わたしが何とかするべきだったんだ、ということだった。
わたしは強く唇をひきむすんで、じっと子犬を見つめていた。母は何か言っていたが、わたしには何も聞こえてこなかった。ひたすら子犬を見ていた。母は、そんなわたしを少し見つめたあと、隣の部屋に行ったようだった。誰かと電話しているようだった。口調から、相手はどうやら父らしいとぼんやり考えた。きれぎれに言葉が聞こえてくる。
「コイヌ、・・・デカケテイルアイダニ、・・・・アキチャンガ、・・・トドケデ、・・・カソウ、ペットセンモンノ」
カソウ。
火葬。この言葉だけがなぜかわたしに届いた。びっくりして顔を上げた。そうか、この子は焼かれるんだ。瞬間、2年前の祖母の葬式が頭に浮かんだ。真っ白の壁、大きな白い長方形の入れ物、黒い服を来た人々。灰と白っぽい骨。
嫌だ。瞬間的にそう思った。火葬には何か、とても乾いた、無機質なものがあった。わたしと子犬の間にあった親密な何かも、一緒に灰になるような気がした。
私は子犬をそっと寝床にはみ出た毛布の上におくと、母が話している部屋の横をすり抜け、二階の自分の部屋に上がった。何か、子犬をくるむものが必要だと思った。柔らかい、やさしい布。でもそんなものは見当たらず、いっそ母に尋ねてみようと思って階段を降りかけたとき、部屋の入り口にハンガーで吊ってあるワンピースに目がとまった。
今年買ってもらった、私のお気に入りのワンピース。柔らかな薄手のグレーのジャージ素材でできていた。今の季節には少し暑いけれど、春先には週末出かけるといってはこれを着ていた。クリーニングに出すつもりで母がここにかけておいたのだろう。
手に取るとふんわりと柔らかで、しなやかな生地は、子犬をくるむのにぴったりだとわたしは思った。わたしの大事な子犬に、お気に入りのワンピースを。
わたしはそれを手に取ると、一目散に階段を降り、子犬のそばにワンピースを広げ、子犬を中に入れてしっかりとくるんだ。ワンピースはまるではじめから子犬の寝床だったかのように優しく子犬を包み込んだ。子犬の顔だけそっと出して、この包みをわきに抱え、キッチンの勝手口からそっと外に出た。勝手口の横には母の園芸用の細々した道具がまとめてある。そこからスコップとビニール袋を抜き出し、ビニール袋にスコップを入れて手にかけ、庭先に回って家を出た。
母は玄関先に出てきていて、後ろから何か言ったようだったが、耳を貸している暇も、立ち止まる余裕もなかった。立ち止まれば余計にややこしくなる。とりあえず、家が見えないところまで、一生懸命走った。そして道端で止まり、母が追いかけてきていないことを確認すると、とりあえず家から一番近い公園に行った。
どこかに埋めるつもりだったが、どこかアテがあったわけではない。公園のベンチに座り、少し途方にくれた。真夏の昼過ぎ、公園に人影はなく、きつい日ざしとセミの声だけが公園で存在を主張していた。どこに行けばいいだろう?公園は論外だ。誰かに掘り返される危険がある。学校のグラウンド裏・・・掘り返すような子どもたちはいないけど、埋めているところを誰かに見られる危険が大きいし、見つかったら面倒だ。
しばらく思案して、山の上の公園を思いついた。あそこには、公園の裏が山になっていて、ハイキングコースやトレッキングコースとして山道が整備されている。そこから少し外れれば、林の中に入れる。あそこなら、こんな平日の真夏の午後3時なんて時間帯にはほとんど人は来ていないはずで、いくらでも掘り返す場所があるはずだ。とりあえず、そこに行ってみよう。そう決めて、子犬の顔をそっとワンピースの端で覆うと、立ち上がって歩き出した。
いい場所が見つかった。最初、そう思った。
この港町の山の手には、昔ながらの洋館が多く建っていて、一部は文化財にもなっている。そうした洋館を見下ろす形の山のハイキングコースとなっていて、その一部には池もある。池の周辺は散策コースなので、そこを避けて、山道だか、けもの道だかわからないような細い小道をあがっていくと、小さな踊り場のような場所に出た。
うっそうと茂る木々は、そこで少し遠慮しているようで、夏の午後でも薄暗い周りにくらべて、そこだけ丸く光が地面まで落ちてきていた。もともとはハイキングコースの休憩所か、ちょっとした寄り道場所だったのだろう。平らにならしてあって、ベンチも残っている。
でも多分、作った人の意図に反して、あまりこの場所に、つまりどこにもつながっておらず、また特に見るべき場所もない平凡な場所に、わざわざ興味を示して小道を上がろうとする人はあまりいなかったのだろう。ここにくる細道はけもの道になりかかっていたし、この小さな広場も小さくて力強いさまざまな草たちが、落ち葉の体積の間をぬって気ままに生え、ベンチには苔がむし、わたしがここを訪れるしばらくぶりの人間だということは簡単に確信がもてた。
ここならいい、そう思った。
あまりに木々の中に入って、小さな子犬を、そんな薄暗いところにぽつんと埋めるのは嫌だった。それに下手をしたら、どこに埋めたかわたし自身わからなくなってしまう。ここなら、木々の間で木漏れ日が差して明るい。下を見下ろせば、ハイキングコースを歩いている人や池のほとりに飛んできている鳥たちも見え、さらに下にはこじゃれた洋館や私の家も、見下ろすことができる。ここなら、わたしもときどき遊びにきて、子犬と一緒にすごすことだってできる。
この小さな広場のふち、少しだけ上の、下の斜面を見下ろしやすいところに、大きな木があった。その根元を、子犬を埋める場所に決めた。スコップで土をすくいだす。積もった落ち葉を払ったり、草を引き抜いたりする必要があったので、軍手を持ってこなかったことを後悔しつつ、とにかく大きく深く穴を掘ることに専念した。
どれぐらいかかったかわからないが、日は確実に傾きはじめていて、光も黄色からオレンジへ、光の当たる場所も頭から顔へと移っていっていた。時折蚊をたたきながら、それでも無心に堀り続けた。広さも、高さも十分な穴を作れたときには、手は爪の中まで泥だらけで、腕や足はいたるところがかゆくなっていた。
準備はできた。でも、きれいな手で、子犬を埋葬してあげたかった。立ち上がって周囲を見回し、近くに誰もいないことを確かめ、念のために子犬をくるんだワンピースを、草の生い茂るベンチの下において、ハイキングコースをたどって帰り、公園のトイレで手とスコップを洗った。
公園にはきれいに整備された花壇があり、その横の歩道にはきれいな砂利が敷き詰められていた。花壇の端には子どもの頭からこぶし大程度の大きさとりどりの玉石が置かれていて、花壇と歩道の境目を示していた。その中で、とてもきれいな白いすべすべしたこぶし大の石を見つけ、それをそっと持ち上げた。
これを墓石にしよう、そう思った。それはわたしの手の中でずしりと重く、そして冷ややかで、子犬の存在とまったく逆だった。軽く、そして暖かい子犬。生の反対が死なら、子犬と反対の石が墓石なのは理にかなっていると思った。そうか、だからみんなお墓の石はあんなにツルツルで硬くて冷たいのか。そう納得しながら、スコップと小石を手にもち、子犬のところに歩いて帰った。
そしてそこに、その子がいた。