【5】春の祝福
最寄り駅まで送る、という私の提案をリヒトさんは丁重に固辞した。
「来るときに道は大体覚えたし、どうせなら少し寄り道してこの街を見て行きたいんだ。窓から、車椅子から、彼女が眺めた街だ」
特に観光やショッピングに適した街並みでもないが、まだ両足が現存した頃の姉の思い出は大量にある。それをリヒトさんが積極的に共有しようとするのを好ましく感じた。
せめてエレベーターホールまでは見送ろうと、共に玄関へ立つ。磨き抜かれた黒い皮靴はリヒトさんの純然たる好みらしい。すらりとした立ち姿は男装の麗人じみていて、確かにこれなら男役も嵌まるはずだと実感した。
「もし良かったら、また線香をあげに来ても……ううん、次はお墓へ案内してくれないだろうか。彼女の遺骨が眠る場所で、改めて本人へ告白したい」
「勿論ですよ、喜んで案内します。お姉ちゃん、嬉しくて泣いちゃうかも」
連れ立ってマンションの共同外廊下を進み、エレベーターホールへ辿り着く。一階のエレベーターが八階まで到達するには多少時間がかかる。私たちは名残を惜しみつつ、四方山話に花を咲かせた。
「ところで、高卒認定試験は受けるんですか」
「ああ、今は割と真面目に勉強しているんだ。図書館にも大分通い慣れてきたよ。君は今、高校生だよね。何年生?」
「今年で二年です。進学希望なので、こっちが先に大学受験を通ったら私の方が先輩ですね」
「なら遅れを取らないようにしないとな。どうせだから同級生を目指すよ」
「そうですね。一緒の学校に一緒の時期に通えたら、きっと素敵です」
姉が渇望した他愛のない未来の約束。私は姉の代わりではないので、それを常世の姉へ譲渡することはできない。だが姉の思い出を慈しみながら日々を懸命に生きることはできる。それはリヒトさんも同じだ。
エレベーターが到着し、扉が開く。乗り込んだリヒトさんは晴れ晴れとした面持ちだった。
お互いに小さく手を振る。リヒトさんが階数ボタンを押し扉が閉まる直前、私は準備していた言葉を扉の隙間から投げかけた。
「勉強もいいけど、もうちょいログインしてくれよ! タンクもヒーラーも不在の俺っちのワントップじゃ、強敵には勝てないんだから!」
「えっ。君は——」
閉じた扉が彼女の咄嗟の反応を密室内へと押し込める。私は悪戯大成功とばかりに口笛を鳴らし、春のうららかな陽気を浴びつつエレベーターへと背を向けた。
姉とリヒトさんの秘密が明かされたのだから、私の秘密のひとつくらい余計に提示したっていいだろう。
姉の一生の恋を見届け、結婚式の牧師役まで勤め上げた。
これが私の、彼女等へ捧ぐせめてもの祝福だ。