【4】春の告白
「リヒトさんは、お姉ちゃんに、その、恋をしていたんですね」
空になったティーカップにジャスミンティーのおかわりを注ぎながら訊ねる。
あまりにも身も蓋もない物言いな上に、恋などというワードは些か気恥ずかしい。所詮は私も恋愛経験のない高校生の小娘でしかないのだ。
しかし言われた当の本人は輪をかけて羞恥に見舞われたらしい。先ほどまで凛と涼やかだった顔を途端に上気させ、あわあわと弁明した。
「いや、その、恋というか。一応言っておくと、私は同性愛者ではないんだ。小学生の頃は隣の席の男の子が好きだった。だからどちらかと言えば異性愛者だと思う、うん」
「でも、お姉ちゃんのことも好きだったんですよね。異性に対して胸がときめくのと同じように」
私の追撃にリヒトさんは耳の先まで紅潮させ「異性愛と比べるのは難しい。私は恋愛経験が豊富じゃないんだ」ともごもご言い訳を重ねる。きりりとした中性的な顔立ちにはどこか不釣り合いな恥じらいの表情に、初めて私は可愛い女性だな、という印象を抱いた。
「ちゃんとお姉ちゃんに告白したんですか」
「告白って……。だって、プロポーズしただろう」
「それはゲームのシステム上でしょう。ちゃんと本人に向けて言わないと。ゲーム以外の場所では交流していなかったんですか」
訊ねつつ、姉のPCの液晶画面を眺める。入っているアプリケーションは決して多くはない。音声通話ソフトやSNSの類もほとんど利用していなかったようで、ゲーム外での積極的な交流の形跡は窺えなかった。
もっとも、SNS経由で病身が露呈し腫れ物扱いされるのが嫌だった、という姉自身の意志によるものだとも知っている。そしてリヒトさんにもまた同様の事情が存在した。
「SNSも音声通話IDも、ゲーム繋がりの連中には教えていなかったよ。声や発言内容から女だとばれてしまう。それが怖かったんだ」
「別に女性だと判明したところでなにも変わりませんよ。考え過ぎです」
「でも、少なくとも中身が女だと事前に知っていたら、ジャスミンは私のプロポーズを受けなかったんじゃないだろうか」
「まさか」
消沈気味に訥々と語るリヒトさんの弱音を、私は一笑に付した。姉がそのような薄情な人間でないことは、彼女の一生をすぐ側で見届けた私が一番熟知している。ゲーム世界での出来事を、リヒトさんとの心温まる交流を、私相手に語る姉の表情はいつだって喜色に満ち溢れていたのだから。
更に付け加えるなら、姉がリヒトさんを見限らぬ確信も持ち合わせている。凛々しい面立ちが再三崩れるのを予期しながら、私はリヒトさんに向き直るとその双眸を覗き込んで告げた。
「お姉ちゃんは知っていましたよ、あなたが女性だって。根拠があるのか直感なのかまでは、私には分かりませんでしたけど」
その瞬間のリヒトさんの狼狽ぶりを、一言で表現するのは難しい。
ぽかんと大口を開けた表情は案外と幼く、薄い唇から漏れた「へぁ?」という鳴き声は滑稽だった。持ち上げかけていたティーカップを再びソーサーへと落としてしまい、テーブルへと紅茶が飛び散り「すまん! かたじけない!」と何故か武士口調で謝罪しソファの上で平伏する。絵に描いたような動揺振りに、私はたまらなく愉快な気分になってしまった。台所から持ってきた布巾で濡れたテーブルを拭きつつ、続ける。
「そういうわけなんで、女性だと打ち明けてもお姉ちゃんは絶対に結婚したと思います。賭けてもいいです。実証はできませんけど」
「なんで。どうしてそう言い切れるんだ」
信じたくないという感情が先行してか厳しい声音で問われ、私は立ち上がった。
とはいえ向かう先はほんの数歩先でしかない。リビングの一角、母や祖母の選んだ欧風の調度とは対照的な、いかにも年代物といった風貌の純和風の仏壇に歩み寄る。ラグの上に分厚い座布団を敷き、振り返ってリヒトさんを手招く。彼女は怪訝な表情を浮かべたものの、素直に腰を上げた。
「位牌、三つあるじゃないですか。一番新しいのがお姉ちゃんのものなんですけど、残る二つは私たち姉妹の父と、父方の祖父のものです」
話の趣旨がどこにあるのか探ろうと、彼女は位牌を凝視しながら私の話に耳を傾ける。次いで、私は位牌のすぐ側に鎮座する幾つかの写真立てを指で示した。
「写真もそうです。一見ただの家族写真に見えますが、遺影なんですよ。一番新しい写真の真ん中に写っているのがお姉ちゃん。そっちの古いやつがお父さんとお爺ちゃんです」
もっとも、私たち姉妹と祖父が同時に写っている写真は存在しない。祖母曰く、祖父が亡くなったのは両親の結婚前であり、大往生だったという。なので祖父の死は私にとって悲しみを伴うものでもない。あまりにも自然に最初から不在のひとだったのだ。
父についても似たようなことが言える。父が早逝したのは私が生まれてまだ間もない頃で、記憶も朧げに残っているのみである。それは当時幼児であった姉にとっても同様で、突如家から消えた父と死の概念がイコールで結びつかなかった。かろうじて誕生日に貰ったぬいぐるみから父の面影を追える、その程度の拙い記憶しか残っていなかったはずだ。
母や祖父母にとっては悲しみの連鎖だろうが、当時の記憶を持ち合わせぬ私にとっては当然の事象に過ぎない。不幸自慢のニュアンスを一切排除して故人の紹介を済ませたのち、私は核心に迫った。
「お姉ちゃんは、リアル結婚式でバージンロードを歩きたいという話をしたんですよね」
その言葉に彼女もまた、私の言わんとすることを察したのだろう。聡明な色を帯びた双眸がこちらを振り返る。私もまた真っ向から見つめ返し、一語一語を彼女の耳に沈めんばかりに告げた。
「いないんですよ、一緒にバージンロードを歩く人が。もちろん母や祖母がその役を請け負うのもありだと思いますが、お姉ちゃんは『父親と腕を組んで』と言ったんでしたっけ?」
「それは、仮に君たちのお父上がご存命だったら、というifの話だろう」
「勿論、そうとも解釈できます。でも私は、そもそも主語が違うと思うんですよ。父親と腕を組むのも、綺麗なハイヒールを履くのも、姉ではなかった」
そして私は黒々とした瞳の奥、当惑に揺れる小さな光を睨みつつ彼女に訊ねた。
「家庭環境の悩みをお姉ちゃんに話したと言っていましたね。立ち入ったことを訊きますが、お父様はご健在ですか」
「私と私の父親の不仲を案じて、関係修復のためにバージンロードを歩かせたがった。そう言いたいのかい」
「可能性のひとつに過ぎませんけどね。お姉ちゃんなら、そのくらいのお節介は焼くかもしれないと思って」
そう、リヒトさんを主語に置いても文脈上は意味が通るのだ。
私は直接聞いたことがないため彼女の家庭がどのようなものか知らないが、仮に劣悪な環境なのだとしたら姉は手を差し伸べるに違いない。リヒトさんは数少ない姉の友人で、ともすれば恋慕を寄せる対象だったのだから。
しかしリヒトさんは納得がいかぬ様子だった。男性の演技を徹底し続けた自負もあるのだろう。「それにしたって」となおも食い下がった。
「ウェディングドレスやハイヒールに興味を示したことだって一度もない。それなら、やはりジャスミンが自分で着用したくて話題に出したと考える方が自然じゃないか」
「姉は、ハイヒールは履かないと思いますよ」
「確かに、この写真でも車椅子が写っているからな。でも履くくらいはできるだろう」
「いいえ、だから履けないんです」
己の声がヒートアップするのが分かる。これこそが姉の最大の懸念であり秘密であったに違いない。
私の独断で打ち明けることを脳内で姉に詫びつつ、すべて受け止めろとばかりに眼前の彼女に洗いざらいぶち撒けた。
「お姉ちゃんは、病気で右足を切断したんです。残った左足も長年の療養生活で弱ってむくんで、硬い靴を履けるような状態じゃなかった。ハイヒールなんて選ぶはずがないんですよ」
車椅子で外出する際も常にブランケットで足元まで隠したがった姉の姿を思い出す。少なくとも私は姉が足の切断手術を受けてから五年間、彼女が靴に関心を示す場面に立ち会ったことがない。
姉は私にとっては清らかな慈母を想起させる存在であったが、決して負の感情を持ち合わせていなかったわけではない。足の切断面も、悪性腫瘍の転移によってむくむ手足も、コンプレックスであったに違いない。当然その症状は顔に出る日もあった。元が整った顔立ちだけにむくんだところでご愛嬌だと私は思うが、本人にしてみれば耐え難かったのだろう。ビデオ機能付きの音声通話には絶対手を出さない姉の心情は理解できた。
私が生前の姉の病状を思い出し憂鬱になる一方、リヒトさんもまた驚愕に目を見開いていた。
最初に姉の訃報を告げたメッセージで『去る○月○日、姉は長年の闘病生活の果て、天国へ旅立ちました』とは書き記したが、具体的な病名や病状を伝えたわけではない。想定以上の壮絶な闘病に、彼女は呼吸すら止まっているのではと案じるほどに息を押し殺し、絶句していた。
「お姉ちゃんは、自分が着飾る以上にあなたの晴れ姿を見たかったんだと思います。ドレスと白無垢のどちらが好きかと訊ねたのも、そのまま言葉通りの意味ですよ」
「……だから、彼女はあんなことを言ったのか。寧ろがっかりするのは私の方だと」
大きく瞠った目を今度は深く瞑目し、形の整った薄い唇を噛み締める。
——寧ろがっかりするのはリヒトの方かもよ。液晶の向こう側の私こそ、嘘つきのクリーチャーかもしれないもの。その言葉の真意に辿り着いたリヒトさんは、正体を明かせぬ姉の葛藤に触れ、苦悶の呻きを漏らした。
「病気や身体のことがあったから、打ち明けづらかったんでしょうね。お姉ちゃんは普通の女の子として、一生に一度の恋をしようとした。私はそう思います」
「だからって、隠す必要なかった。どんな姿であってもジャスミンはジャスミンだ。親身に私の相談に乗って、ずっと支え続けてくれたんだ。そんな彼女に、足を一本なくしたくらいで幻滅するはずがないじゃないか!」
秘め続けた恋慕を、情熱を解き放たんばかりに、リヒトさんは腹の底から吠えた。春の陽気で満ちる部屋の空気がびりびりと震える。ふうふうと荒い呼吸をつきながら、掠れた声で彼女は情動のままに訴えた。
「彼女に嘘をつかなければ良かった。私に嘘なんてつく必要なかったんだ。すべて告白したところで、きっと私たちは親友になれた。もしかしたら直接会って、アバター越しじゃない本物の恋だってできたかもしれないのに」
或いは彼女が閉じた瞼の奥で描いているかもしれぬ情景を、私もまた脳裏に思い浮かべる。
リアルの連絡先を交換したリヒトさんが、我が家を訪問し自宅療養中の姉を見舞う光景。そしたら私は同席するような野暮な真似はしない、が、時折興味がてらお茶菓子を姉の部屋に運んだりはするかもしれない。リヒトさんと姉が談笑を交わしつつ高卒認定試験の情報交換をする、そんな平穏な日々に私もまた寄り添っていたかった。
リヒトさんにも、そのワンシーンはありありと想像できたのだろう。悔恨と憧憬の入り混じった声で、絞り出すように呟いてみせた。
「私は馬鹿だった。彼女と真正面から向き合うべきだった。私は女だけど、君のことが好きなんだって、一言告げるだけで良かったんだ」
ああ、それこそが姉が本当に欲していた一言だ。
必死に涙を飲み込むリヒトさんから、仏壇の写真立てへと視線を移す。最も新しい色鮮やかなスナップ写真の中央、車椅子の上で屈託なくピースサインを作る姉の表情は、四十九日の間に見たときよりも喜色に満ち溢れているように思えた。