【3】春の追憶
「規定レベルに達したし、結婚イベントを起こしてみないか。ジャスミンも専用アイテムやスキルに興味はあるだろう」
考えに考え抜いた結果、そんなビジネスライクなプロポーズを個人メッセージで送信したのは、リヒトさんからであった。
普段の返信の早さとは裏腹に、その返信は何分、何時間経過しても届かなかった。緊張で気もそぞろのままに深夜を迎え、悶々としたまま就寝しようとした矢先にメッセージ受信の通知が入る。一も二もなく飛び起きて返信を確認した。
「そんな言い方じゃ駄目。一世一代のプロポーズのつもりで言って欲しいな。きっとリアルじゃ一生体験できないだろうから」
笑顔の顔文字と共に送られてきたその文章に、睡魔は灰燼も残さず消滅した。彼女は夜を徹してメッセージの内容を熟考し捏ねくり回し、手垢にまみれんばかりに推敲したそれを送信したのは夜明けであった。
「君と過ごす時間が、交わす会話がすべて愛おしいんだ。生涯、君の騎士として君を守らせて欲しい。結婚してください」
人生初のプロポーズを、口説き文句を打ち込んだリヒトさんの緊張はピークに達し、胃液は胃粘膜を蹂躙せんばかりに分泌されたという。
だがその緊張は長くは続かなかった。暁天が朝焼けに燃え、都会の烏がしじまの街に鳴き声を響かせる時刻を終える前に、姉からの返信が届いたからである。
「嬉しい。私からもお願い。どうか私を、リヒトさんのお嫁さんにしてください」
一睡もしていない脳に、姉の言葉は麻薬じみた快楽を伴い広がった。歓喜のあまり早朝なのも忘れて思わず叫んでしまった、と照れ混じりにリヒトさんは語る。
その後、結婚イベントの段取りが続いた。
現実の結婚であれば家族や職場への報告、役所等の手続き。結婚式だけを取り上げても会場の確保と衣装や料理の選定、招待状の作成に引き出物の準備に金勘定とやるべきことは枚挙に暇がない。それはゲームの世界でも同様らしく、結婚成立するには複数の条件を達成する必要があった。
結婚後のキャラクターはステータスやスキルが強化され、伴侶のキャラクターとは強力な連携技が使用できるようになる。その代償とばかりに多額の支度金やレアアイテムを集め、強敵との戦闘に勝利する必要があった。タンクとヒーラーという防御特化型のふたりでは到底太刀打ちできる筈もなく、冷やかされるのを覚悟でパーティーメンバーに協力を仰いだ。
「ジャスミンと結婚したいんだ。その準備クエストに協力して欲しい」
「そういうことなら俺っちに任せておけって。なんなら結婚式の牧師役も俺っちがやるぜ」
「えっ。いや、専用のNPCもいるし、マッチョメンは戦士だから……」
「細かいこと言うな、俺っちが盛大に祝ってやる。へへ、腕が鳴るぜ!」
戦士のマッチョメンをはじめ、パーティーメンバーは協力的だった。一致団結して難関ダンジョンに挑み、レアアイテムを収集し、強敵を退治する。そうして結婚の条件が整い、あとは細かい結婚式のロケーションを設定するのみとなった。現実世界で言うところの式場やドレス、料理の選択に近い。
候補地を下見しながら、若いふたりは理想の結婚式の話に花を咲かせた。
「ねえ、リヒトはドレスと白無垢、どっちが好き?」
「君ならどっちも似合うと思うよ。でもやっぱり色は白がいいな」
「分かるなあ。あのね、私、一度も現実の結婚式に参列したことがないの」
「右に同じく。もっとも、リアルで招待されても着ていく服がないけどね」
その会話がなされた当時、ふたりは高校生ほどの年齢だった。共に事情があり高校進学を断念した身である。学校の制服という身近な礼服すら彼女等には縁遠かった。
広大なオープンワールドの僻地、湖畔に聖堂が佇むエリアはほとんど人影も見当たらず、森閑たる空気に支配されていた。結婚式イベント用のオブジェクトが並ぶ区域だけに、狩場としての利便性は低く設定されているのだろう。近く結婚式イベントを実施するだろうキャラクターたちがのんびりと近隣を散策していた。他のプレイヤーキャラクターにチャットの会話が読み取れぬ距離であるのを確認し、姉が問いかける。
「前に話していた高卒認定試験は受けないの?」
「……興味はあるけど受験の見通しが立たないよ。勉強するだけの教材も環境もない。家族の理解も得られる気がしない」
「リヒトならきっとできる。図書館でも、なんならゲーム用のPCからでも参考書や過去問をチェックできる時代よ。私はいずれ試験を受けるつもり。こっちが先に試験に受かって大学受験も通ったら、私の方が先輩だね」
「どうせなら同級生がいいな」
「そうね。一緒の学校に一緒の時期に通えたら、きっと素敵ね」
ふたりで聖堂の扉を開く。NPCだけが無言で直立する空間は、ステンドグラス越しに降り注ぐ光で穏やかに彩られていた。リバーブのかかる足音ばかりが響き渡る空間で、色鮮やかな光に包まれた姉はうっとりと呟いた。
「ねえ、もし私たちが本当に、現実でも結婚するとしたらどうする?」
「……そりゃあ、実現できたなら毎日楽しいこと請け合いだけど。うまく想像がつかないよ」
爽やかな語調が次第に停滞し濁る。途切れ途切れにチャットに打ち込んだ言葉は、半ば自己卑下に近かった。
「だって、直接会ったことも、顔すら見たことがないんだ。こんな格好良い青年騎士のアバターを使っていたって、素顔は二目と見られないくらい醜いかもしれない。ジャスミンはきっとがっかりするよ」
容姿以前の問題だと思った、というのはリヒトさん本人の言である。近年でこそ戸籍の性別の変更やパートナーシップ制度といった、LGBT受容の風潮は広まりつつある。だが多様性を認めるのと、自身がその渦中にあるのではまったく話が変わる。
彼女は躊躇った。「実は中の人は女なんだ」と面白おかしく種明かしをする段階はとうに過ぎ去っていた。それ程までに彼女はゲーム越しでしか知らぬ姉に耽溺し、真実を知った姉に失望されることを恐れていた。
だが、姉には姉の事情がある。姉はアバターのアクションでひとしきり笑ったのち、あっけらかんとチャットに記したのだという。
「あら、見くびらないで。現実のリヒトがどんなクリーチャーでもインスマス面でも、私は見限ってあげないんだから」
「さすがにそこまで酷くないと思うけどなあ」
「寧ろがっかりするのはリヒトの方かもよ。液晶の向こう側の私こそ、嘘つきのクリーチャーかもしれないもの」
どういう意味だい、という問いに対する返答はなかった。姉は精密に作り込まれた聖堂内を物珍しげに見物しつつ、屈託のない調子で逆に質問を投じた。
「私とリヒトの結婚式は、オーソドックスなやつでいいな。誓いの言葉の後に指輪の交換をするの」
「古い映画みたいに花嫁を奪いにくる恋敵がいるかも」
「残念ながら、そんなにもてた経験がないから大丈夫よ。……それから、花嫁はバージンロードを歩くの」
「バージンロードというと、新婦入場時に父親と一緒に歩くやつか」
「そう。父親と腕を組んで、綺麗なハイヒールを履いて歩くの。素敵だと思わない?」
上機嫌に理想の結婚式を語ったという姉の心情は、多分リヒトさんよりも私の方が幾分か上手く汲み取れたように思う。絵空事でしかない現実の姉とリヒトさんの結婚式を、私はくっきりと脳裏に描くことができた。
とはいえ、その日は訪れることはなかった。彼女等が行ったのは、データで築かれた架空世界の一イベントに過ぎない。
「式場はここに決めようか、ジャスミン。ステンドグラスが綺麗だ」
「そうね、私もここがいい。ここに決めた」
虚構空間の恋人たちはアクション機能を用いて手を繋ぎ、肩を寄せる。
当然ながらふたりの体温が交錯することは、なかった。
***
その後、リヒトさんと姉のゲーム内結婚式はつつがなく執り行われた。
宣言通りにパーティーメンバーの戦士マッチョメンが、NPCの牧師に成り代わってお決まりの問いを投げかけた。
「新郎リヒト。お前はここにいるジャスミンを、病めるときも、健やかなるときも、富めるときも、貧しきときも。妻として愛し、敬い、慈しむことを誓うか?」
寸分の迷いもなく、肯定の返事を返す。実際に躊躇はなかった。例えゲームの世界が潰えたところで、姉に抱いた好意と敬意は容易に胸から消えはしないという確信があった。
同じ問いが新婦である姉にも与えられ、姉もまたきっぱりと「はい、誓います」と返す。
イベントアイテムの結婚指輪は、ゲーム世界内の魔法金属で作られたという設定らしく虹色に煌めいていた。ステンドグラス越しに聖堂を染め上げる色鮮やかな光と、幻想的な輝きを絶えず零す指輪に彩られた空間は、俗世から切り離された夢幻世界のようだった。
「じゃあ、あれだ。誓いのキ、キッスだ」
リヒトさん曰く、口付けを促したマッチョメンは照れたのか顔中が真っ赤だったそうだ。
しかし動揺したのはマッチョメンだけではない。ゲーム内のアクション機能にも、イベント専用モーションにも、キスシーンというのは設定されていないのだ。だが参列したパーティーメンバーは乗り気で、陽気な女盗賊シャムは勿論のこと、普段は寡黙な魔術師ユートまでもが「キース、キース!」とチャットで囃し立てる。その場で最も冷静かつ果敢だったのは、間違いなく姉であった。
「ふふっ、そうね。結婚式といえば、キスだものね」
そして白く純潔なウェディングドレスを纏った姉の唇は一瞬、白いタキシードを纏ったリヒトさんの頰を掠めた。
アバター同士のキスのモーションが存在しないため、背伸びのアクションを代用したのだ。情熱や愛欲には程遠い、ほんの少し唇の先で触れただけの幼い口付け。ましてや、液晶の外でキャラクターを操作しているプレイヤー本人に、その微かな感触や体温が伝わる筈もない。
だが、リヒトさんは満足していた。例えゲーム内のごっこ遊びであっても、姉を娶った歓喜に打ち震えていた。
無論、現実の姉の病魔が潰えるわけではなかった。生前の姉の戸籍に結婚歴はない。教会へ赴くどころか、ブランケットで腰から足元までしっかりと覆い、車椅子で近所を散歩するのが関の山の時期である。
しかしそれでも、リヒトさんと姉は、彼女等のパーティーメンバーはみんな、そのささやかな虚構の幸福を享受していた。