【1】春の出会い
玄関扉をくぐり抜けたリヒトさんの面持ちは、少し緊張しているように見えた。
十五年間暮らしているマンションの八階だ。それ以前は既に人手に渡った父方の実家に暮らしていたそうだが、当時物心すらついていなかった私の記憶にはとんと残っていない。私にとっては無二の実家である3LDKの玄関に、リヒトさんは真新しい黒の皮靴を揃えて置いた。
「……先に手を合わせても?」
案内したリビングの一角、いかめしい仏壇に視線を向けてリヒトさんが問う。母や祖母の選んだ欧風の調度とは対照的な、いかにも年代物といった風貌の純和風の仏壇である。ラグの上に分厚い座布団を敷き、そこに座るように促す。小さく謝辞を告げて黒いスラックス穿きの脚で正座する、リヒトさんの凛とした背中を振り返りつつ私は台所へ向かった。
セット済であった電気ケトルは既に適温を示している。透明のティーポットに湯を注ぎ、蒸らしているうちに耐熱ガラスの中で綺麗な花が咲いた。敢えてティーカップには注がぬまま、盆に載せてリビングへと戻る。リヒトさんは姿勢を崩さぬまま、じっと仏壇の最も新しい写真へと目を向けていた。
「どうぞ。姉が一番好きだったお茶です」
私の発した言葉にリヒトさんは振り返り、目を瞠った。ポットの中で開花した鮮やかな花の正体に気付いたのだろう。
「ジャスミンか」
「はい。茉莉お姉ちゃんは、自分の名前の由来になったこの花がお気に入りでした」
楚々と美しいジャスミンの花と、色白だった姉の容姿を重ねながら告げる。数秒の沈黙ののち、リヒトさんはふっと目を細め「彼女もだったのか」と小さく笑った。
「本名をもじったキャラクターネームにしたのは私も同じだ。リヒトはドイツ語で光という意味らしい。私の本名も、まあそんな感じだ」
気恥ずかしそうに呟き、注いだカップから立ち上る甘い湯気を吸い込む。柔らかな春の日差しを窓から受けるその背中で、ポニーテールに束ねた長い黒髪が艶やかに煌いていた。
彼女が姉と同じ名前の紅茶に口をつけるのを確認し、私は仏壇へと視線を向ける。先日までそこに飾っていた大仰な祭壇も、遺影も、遺骨もすでにない。写真立て内のスナップ写真では幾分か元気だった頃の姉が屈託無く笑っていた。
茉莉姉さんが亡くなってから四十九日と数日。
親類縁者以外で姉に会いに訪れたのは、リヒトさんが初めてだった。
***
『リヒトさん、初めまして。私はジャスミンの妹です』
姉の愛用のPC、姉のアカウントからそのようなメッセージを送ったのは、まだ春浅い先月の上旬のことだった。
葬式が終わって間もない時期である。仏壇前に設置された祭壇には随分と小さくなった姉が遺骨となって佇んでいた。母と祖母は悲しみ打ち拉がれながらも事務手続きに追われ、私は数日間疎かになった家事と片付けをこなしつつ姉のノートパソコンに触れたのだ。
当時、姉が死んだという実感は追いついていなかった。瞼の裏に姉の面影が残っていたのも理由のひとつだが、PC上に大量の痕跡を見つけたのも大きい。見慣れたアイコン、クッキーが残ったままのログインIDとパスワード。姉が自室の介護ベッドでPCと向き合っていた頃とまったく同じものが、液晶上に存在していた。
入院時や病状の悪化した時期にはさすがに触れてはいなかったが、それ以外はほとんど起動しっ放しであった。動画サイトを見たり音楽を聴くといった、娯楽全振りの利用法。だがそれも仕方がないと思う。移動に車椅子が必須の姉は気軽には外出できず、八階の窓から見えるなんの変哲もない風景が彼女の世界のほとんどすべてだった。
その退屈で単調な世界に波紋を、彩りを落としたのがPCだった。
動画や音楽以上に姉が好み、のめり込んだのは、とあるオンラインゲームであった。昨今は珍しくもない、基本プレイ無料のRPGだ。ネット越しに一堂に介したプレイヤーたちは各々のコミュニティを作り、戦闘パーティーを結成する。姉にも馴染みのパーティーメンバーがいた。筋骨隆々の屈強な強面戦士、したたかだが愛嬌のある猫耳の盗賊少女、普段は無口なものの戦闘時には的確な作戦を立てる男魔術師。彼等とはゲーム内のチャットやメッセージ機能で頻繁に連絡を取り合っていた。
その中でも特に親しく付き合っていたメンバーの名前が、リヒトだった。
性別に種族に職業、容姿やイメージカラーまで細かく設定できるゲームである。凛々しい人間の青年のビジュアル、騎士という職業に見合った槍と大盾。チャットやメッセージ上では爽やかさを帯びた男言葉で語るそのキャラクターは、姉の作ったジャスミンという女性僧侶と積極的に交流していた。
なにせ姉のキャラクターは、結婚指輪のアイテムまで所有していたのだ。キャラクター同士の結婚機能があるゲームも今や世に溢れているが、リヒトとジャスミンもまたその機能の恩恵に預かったふたりであった。
「リヒトはね、とても優しいの。いつも私を気遣ってくれる。もし、万が一リアルで会うことがあったら、本物の私もお嫁さんにして欲しいと願うのでしょうね。絶対に無理だから私だけの夢だけど」
ゲーム上の伴侶であるリヒトに、姉のPCとアカウント経由で連絡を取る。躊躇がなかったといえば嘘になるだろう。
だが、それは病気が進行しゲームすらもままならなくなった姉からの、たっての頼みであった。たったふたりきりの姉妹だ。そりゃあ思春期真っ盛りの頃には、家族に優先され労られる姉に複雑な感情を抱いたこともあるが、それを差っ引いても私は姉のことが好きだった。助けになりたかった。
だから姉の死後、長らく放置されていたPCを起動した私は、言葉に悩みながらリヒト氏宛てのメッセージを打ったのだ。
『去る○月○日、姉は長年の闘病生活の果て、天国へ旅立ちました』と。
***
生前姉が使っていた部屋へ、リヒトさんを招き入れる。
西向きの窓から、昼下がりの明るい光が差し込む。レンタルしていた介護ベッドや車椅子を返却した部屋はがらんとして空虚で、未だに私は違和感を覚えてしまう。だが初めて足を踏み入れたリヒトさんは「ここがジャスミンの部屋か」と感慨深げに部屋を見回した。
ベッドこそなくなったものの、サイドテーブルには愛用のノートパソコンとゲームの攻略法を書き記したノートが置かれている。棚に飾られたぬいぐるみは、私が物心もつかぬほど幼い頃に父から貰ったものだと聞いた。壁は幾枚もの写真やポストカードで彩られている。その大半は姉がまだ自力で歩けた頃に共に出掛けた行楽地であり、私が学校行事での旅行先から送った絵ハガキもちらほら混じっていた。
「この写真はジャスミンと君か。姉妹仲が良かったんだな」
壁のスナップ写真を眺め、微笑ましげにリヒトさんが呟く。「私は家族写真というのをあまり撮った経験がないから羨ましいな」という彼女の言葉には憧憬が詰まっているように感じた。
確かに姉妹仲は良かったと自分でも思う。姉とふたりで写る己の顔は、いずれも良い表情をしていた。父に似て細面で綺麗な面立ちをした姉と、母譲りのちんちくりんで丸顔童顔の私。ふたり並ぶと改めてあまり似てない姉妹に見えるが、それもまたお互いに足りないものを補い合っているようで面映ゆかった。
「私はゲームやネットを介してしかジャスミンを知らないが、イメージ通りだ。綺麗な人だったんだな」
「姉が聞いたら喜びますよ。いつもリヒトさんの話ばかりだったから」
姉が私に語ったゲーム関連の話題でリヒトさんの名前が挙がる頻度は相当高かったので、満更誇張でもない。だがそのやりとりを直接聞いたことのない彼女は「そんなになのか」と涼しげな目を丸くしてみせた。
もし人の記憶を忠実に映像化できる最先端技術が今すぐ実用化されたなら、私の脳内の姉を彼女に突きつけてしまいたいと思う。ベッドから思うように起き上がれず狭い世界に幽閉されていた姉だが、リヒトさんを語るときは爛々と目を輝かせていた。白い頰を鮮やかに上気させ、歌うが如くその名前を口ずさむ。恋愛経験などてんでない私だが、ゲーム内の騎士に耽溺する姉は恋をする乙女の面持ちをしていた。
「リヒトさんとのやりとりに、姉は随分励まされたと思います。大袈裟じゃなく、生きる気力を与えられていたんじゃないかな」
事実、病気が発覚した当初は余命五年以内と医者に言われていた姉は、実際にはそれから八年以上も生きた。日進月歩の医療技術や担当医師たちのサポートも勿論だが、PC越しの友人たちとの交流もまた大きな支えになったのだろうと推察する。
私の忌憚なき言葉に、しかしリヒトさんは困ったように微笑んでいた。どこか中性的で爽やかな口調が僅かに歯切れ悪くなる。
「それが本当ならたまらなく嬉しい。だが私は、彼女に本当のことを打ち明けられなかった」
「本当のこと、ですか?」
言葉の意味するところを薄々察しながら訊ねる。案の定、彼女の続けた内容は虫食いパズルさながら推察にぴたりと当て嵌まった。
「君もジャスミンに聞いたかもしれないが、ゲーム内で私とジャスミンは結婚していたんだ。だが、結局私は、現実世界の自分は女なのだと言い出せなかった」
サイドテーブルに歩み寄ったリヒトさんの手が、閉じたノートパソコンをそっと撫でる。窓から降り注ぐ清浄な春光を浴びる彼女は、静かに憂いているように見えた。私を振り返るとおもむろに口を開いた。
「君さえ良ければ、聞いてくれないか。ジャスミンに伝えたかったこと、伝えられなかったこと。彼女の思い出はたくさんあるんだ」
既に声に躊躇いはなく、凛と決意に満ちている。彼女の真摯な眼差しや物言いが嬉しかった。私もまたサイドテーブルに歩み寄り、姉の形見のノートパソコンを持ち上げた。
「紅茶のおかわりを淹れますね。ゲームの記録を読み返しながら、リビングでゆっくり聞かせてください」
リヒトさんが安堵の面持ちで頷く。
私も姉について伝えたいことは山ほどある。共に外出中の母と祖母が帰るまでにどれだけ語れるだろうかと、淡々と刻む壁掛け時計の針に目を遣りつつ思った。