序章~少年、丘の上で老人に最後の話しを語らせること~
風が吹き渡って、海原のように波打つ草原を、二つの人影が歩んでいる。
「良い天気だ」
少年の前を歩く老人がこちらを向かずに語り掛けてきた。
もっとも、空を見上げて確認するまでもなく、今日は朝から灰色の雲が重く垂れこめている。
「えーっと、今日は朝から曇っているよ?」
少年は歩き疲れてしまって足元へ向きがちだった目線を上げて、老人へ問いかけた。
彼は襤褸をまとったその老人を皮肉ったわけではなかった。
言われたことをそのまま受け取ってしまう素直すぎる性格なのだ。
「うむ、良い天気ではないな」
老人が歩を進めると、腰に付けた水袋が不規則に揺れて水音が微かに聞こえる。
その水袋と何やら大事そうに抱えた布の包みだけが老人の持つ財産のすべてだった。
「そう──相応しい天気と言うべきか」
草原に雲が出ることは少ない。良い天気ではないにせよ、珍しい天気ではある。
「おじいさんがとっておきのお話しをするのに?」
一方、老人の後ろをついて歩く少年の方は身ぎれいな服装で、少年と老人とが不釣り合いな身分の人間であることは一見して明らかだった。
少年は街の貴族の次男だ。
少年の親は来世の魂の平穏のため、慈善団体へ寄付をしていて、老人はその寄付で生かされている物乞いだった。
老人は常の物乞いと少し違っていた。
彼は施しを受けると、代価として自らの武勇伝を語る。
ただ、わざわざ施しをして、滑舌の悪い老人の自慢話を聞きたい物好きなど、そうはいない。
なにせ酒場へ行って施す金額にちょっと上乗せすれば、本職の吟遊詩人が楽曲つきで素晴らしい物語を歌ってくれるのだから。
そういうわけで、老人は街のちょっと有名な変人で、皆の笑い者だった。
ただこの少年だけが、単身城を落としたり、人魚と恋に落ちたり、怪しげな渦に入って別世界を冒険したりといった、老人の与太話を信じた。
「うむ、あの日もちょうど、今日のように曇っていた」
「あの丘に向かっているの?」
「そうだ」
二人の先には小高い丘があり、どうも老人はそこを目指して歩いているように見える。
「丘に何があるの?」
老人はすぐには返事をしなかった。
少年からは前を行く老人の表情は窺い知れない。
「あの丘に私のすべてが眠っている。輝ける黄金の日々の思い出が」
「?」
「その眠れる思い出を掘り返しに行くのだ」
少年には老人の言葉が理解できなかった。実は足が重くて挫けそうになっていて、余計なことに思いをいたす余裕がなくなっていたせいでもある。
「着いたら休んでいい?」
「うむ、水を飲んでどこか腰掛けるといい」
「ありがとう! うわっ!」
かつん、と少年が何かに蹴つまずいた。
それは人間の風化しかかった頭蓋骨だった。半ば地面に埋もれていたのを少年の足が掘り出してしまったようだ。
頭蓋骨は少年に蹴られてあっさりと砕け、土へと還っていった。
「ひいっ」
少年は気が動転して前を行く老人の襤褸にすがりついて裾を引いた。
「どうした」
「ず、頭蓋骨が。きっとここで昔、人が死んだんだよ」
老人は振り返り、目を細めて少年へ告げた。
「死んださ。大勢死んだ。よく見てみい」
促されて少年が改めて周囲を見渡すと、足元ばかり見ていたせいで気付かなかっただけで、草の海原のそこかしこで、岩礁のように白骨が野ざらしになっているのが見て取れた。
白骨以外で特に目に付くのは武器だ。錆びついた剣や折れた槍などが所々まとまって捨てられている。
少年はすっかり怯えてしまった。
なにせ彼は生来優しい性格で荒事とは無縁の生き方をしてきたし、一方で想像力が豊かなせいで、それだけの人が死んだ恐ろしい出来事について色々と思いを巡らせてしまったからだ。
「ここは魔の者の土地だって。入っちゃダメだって。母さんが」
魔の者とは、遙かな昔に人の身でありながら大罪を犯し、大いなる神から劫罰を受けて人ならざる存在へと堕ちた者たちのことだ。
彼らは自らが犯した罪の為に狂い、常人の理を超えた倫理観で人を弄び、殺す。
少年が人骨から咄嗟に魔の者を連想したのは、彼が寝物語にこの草原を支配する恐ろしい存在について度々聞かされていたからだ。
曰く、かつてこの草原は肥沃な地であった。
周辺四ヶ国の王は誰もがこの地を強く欲したが、草原は魔の者「戦の大公」の領土だった。
王たちは示し合わせて連合し、魔の者を討伐する軍を興した。
しかし、どれほど群れようとも所詮は人の子、魔の者には敵すべくもなかった。
討伐軍は鏖殺され、彼らの叢雲の如く積み上がった死体で穢れた。
爾来、草原はこう呼ばれるようになった、「大公の狩猟場」と。
魔の者の伝説を知ってか知らずか、ともかく老人にはこの地を畏れる風はない。
「うむ、そうかも知れぬな。ここにはまだ、魔の者が棲んでおるかも知れぬ。だが陽のあるうちは恐れることはない」
「それと、殺したのは魔の者ではない。戦さがあったのだ」
現金なもので、魔の者ではない、つまり自分には危険がないとわかって、少年はやや生色を取り戻した。
「昔のことなのにこんなに跡が残っているなんて、大きな戦さだったのかな」
「ああ。何せ周りの四つの国の軍が集まってここで──」
老人はここ、を強調するためか元気な方の足で地を二度踏みしめた。
「──最後の戦いをしたのだからな」
それから幾ばくもなく二人は丘の頂上へ辿り着いた。
各々手ごろな大きさの石を見つけて腰を下ろす。周囲より高い場所にきたせいか、風が腰を下ろした老人の襤褸を時折はためかせている。
老人は小脇に抱えていた布の包みをそっと地面に置いた。
相変わらずの曇り空で、陽はまだ天に高い。
老人は水袋の栓を開けて喉を潤し、唇を湿らせた。まだ中身が残っている水袋を少年へ渡す。
少年はそれを両手で受け取ると早速口をつけ、ようやく人心地がついた。
老人が口を開いた。
「私は今までにたくさんの話しをお前に語った」
頷く少年。老人の話しはそれまでに少年が読んだどんな物語よりも少年の心を沸き立たせてきた。それは老人が真実の冒険を語っているからだと、少年は信じていた。
「これが最後の話しになる」
「え?」
少年は大きく瞳を見開いて老人を見つめた。その瞳には驚きと非難の色があった。
「とっておきの話しと言ったろう? 私にはこれからお前に聞かせる話しを超えるものは、持ち合わせておらんのだ」
「僕は、おじいさんが大好き。もうお話しがなかったとしても、それでも、僕はおじいさんと会ってお話ししたいよ」
少年は対等な話し相手に飢えていた。彼には所謂同年代の友達がおらず、会話の相手は常に目上か目下の人間だった。
「おお、おお、そうか。しかしな、私はご覧の通りもう何も持ち合わせておらん」
老人は芝居がかった仕草で両手を広げた。
「ただ話しがあるのみ。だから、とっておきの話しをしてしまったら、それをお前に与えてしまったら、本当に私は何もなくなってしまうのだよ」
「それでも、お前は私の最後の話しを聞きたいのだろう?」
少年は俯いて逡巡を示したが、すぐ顔を上げ老人へ告げた。
「うん。それでも、僕は聞きたい」
「そうだ。それでいい。お前は聞き、そしてやがて来る者へ話せ」
老人は地面に置いた布の包みを丁寧に開いた。
中から現れたのは一旒の軍旗だった。鮮やかな赤地に金で鷲獅子が縫われている。
「これは今から話す黄金旗ではない、ただの軍団旗だが」
老人はそれを片手でさすりながら瞑目した。
「またこの丘へ登り、旗を見ると、あの戦いのことをはっきりと思い出す」
少年は街でいつも老人がする話しを聞く時と同じように、両膝を揃えてその上に小さな手を乗せ、じぃっと聞き入った。
「無双の勇士も、鬼謀の策士も、死ねば等しく骸となる。私も。そしていつかは、お前も」
「死ねば蓄えた財貨も、極めた地位も、すべては虚しくなる」
「だが、名は残る」
「翔けよ、はためく黄金旗。私はずっと探していた。だがそれは失われ、どうしても再び見出せなかった。もうこの世にはない、物語の中だけにある伝説の存在なのかもしれん」
「お前は私を信じて笑わなかった。だから私は語らねばならぬ。かつて栄光に包まれた者たちの最後の戦いを、その生き様を」




