せめて最期は微笑んで
短編ですのですぐに読めると思います。楽しんでもらえたら幸いです。
即身仏———密教の教義において、僧は死なず、衆生救済を目的として永遠の瞑想(入定)に入ると考えられている。僧が入定した後、その肉体は現身のまま即ち仏になるため、即身仏と呼ばれる。日本で最初に入定したのは空海で、空海は死んでおらず現在も高野山で入定しているというのが、空海が居住している高野山の公式見解である。
江戸時代には、疫病や飢饉に苦しむ衆生を救うべく、多くの高僧が土中に埋められて入定したが、明治期には法律で禁止された。
〔Wikipediaより引用〕
ざっざっという音がする。何の音だ?私を埋めている音だ。なぜ私は埋められている?仏となるために。なぜ仏に?それを皆が望んでいるから。
私は自問自答をしながら自らの棺桶の中で身じろぎをした。生きたまま自らの棺桶に入り、土中に埋められているというのに、意外と冷静でいる自分に少し驚く。あまりにも現実離れしていることだからだろうか。
私の所属していた寺の付近にある村々では、干ばつによる作物の不作によって人々が飢餓に喘いでいた。そうした村人のあいつぐ訴えを聞き入れ、民を救うために僧侶の中から即身仏となる人を選ぶこととなった。そうして白羽の矢が立ったのがこの私だったのだ。年長の僧たちは常日頃には高尚なことばかりのたまっていたが、名乗り出ることはなかった。なんだかんだ理屈をこねて、1番若い私になすりつけたのだ。結局はみんな自分のことが可愛いのだ。だが、寺としてのメンツのためには誰かを贄に捧げなくてはならないのだった。私は寺のメンツのために死ぬのだ。拒否権はなかった。
昔読んだ文献には、即身仏になるためには厳しい食事制限をして身体の水分、脂肪分を極限まで落とさなければならない、と書いてあったが、私はすでに久しくまともな食事にありつけておらず、骨と皮のような様だったので、その修行は割愛された。あくまでも形式的に生贄を捧げるだけなので、細かいところまで気にするような者などいなかった。
それから私は大きな盃に満たされた漆を飲まされた。
即身仏になるためには、漆を飲むことにより体内の防腐をすることも必要なのである。
粘性の強い液体が口に注がれた瞬間、舌に電気が走った。私は何度も嘔吐した。それはそれは、カラカラに乾いた私の身体からこんなにも水分が出るものかというほどに。
その数日後、村人や老僧たちに見つめられる中、私は埋められた。
私の入れられている木棺はかなり窮屈で、膝を抱えて座らなければならなかった。そして、足の隙間にかろうじて置いた蝋燭の火に照らされて鈴が鈍い光を放っていた。
私はとりあえず蝋燭の火を頼りに経を読むことにした。
おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まかはんどま じんばら はらばりたや うん
少し唱えただけで息が切れる。地上から木棺の中まで貫通している一本の竹、そこからしか空気は供給されていない。しゃらんしゃらんと鈴の音が虚しく響く。
私は5日ばかりで読経をやめた。だが、定期的に弱々しく鈴の音を鳴らすのだけはやめなかった。鈴の音で上の者は私の生死を確認しているのだ。だから鈴の音がとまると竹の筒は塞がれ、私はおそらく窒息死するだろう。窒息死、死ぬこと。私は死にたくないのだろうか?そうだ、私は死にたくない。土中に埋められてから日に日に生への執着が強まっていくのを私は感じていた。あれだけ世の惨状を憂い、いつ死んでもいいと思いながら日々の暮らしを送っていたのにもかかわらずだ。
じじっ。蝋燭が小さく叫んで消えた。そして圧倒的な暗闇が辺りを塗りつぶす。刹那、身体の奥底から、叫び出したいほどの恐怖が湧き上がってきた。嫌だ!助けてくれ!死にたくない!私は棺の蓋をどんどん、と激しく叩いて、叫んだ。しかし、声は言葉とならず、ただ乾いた喉を隙間風が通り過ぎるだけだった。
だめだ、もう声が出ない。あたりが再び静まり返る。すると、その静寂の合間を縫ってかさかさという音が聞こえた。その音は本当にかすかな音であったが、私の周りの様々な方向から聞こえてくる。どうやら音を発しているものは一つではないようだ。私はその音の正体を知って戦慄した。暗闇の中うごめいていたのは多数の虫だったのだ。木の側面を食い破り、棺の中に虫が入り込んでいる。そして、私が死ぬのを待ち構えているのだった。死んで、少しずつ腐りゆく私の身体を自らの食糧にせんと待ち構えているのであった。
私は仏に祈った。祈りすがった。今まで僧としてかなり不真面目な方で、仏の存在にすら懐疑的だった私が。この私がだ。それしか、仏しかすがれるものがなかったから。ただひたすらに念仏を唱えることしかできなかったから。
どれほどの時間が経っただろうか、ふいに竹筒を通して一筋の光が木棺の中に差し込んできた。それは、夕焼けにも似た柔らかな橙色をしていた。私はその光に駆け寄った。手のひらに光が当たる。あたたかい。それは、忘れかけていた大地の暖かさだった。
その時、柔らかな光が木棺の中全体に広がり、私は夕焼けの中に包まれた。光に包まれる中、私は頬が濡れるのを感じた。あれほど水分を絞り、もうからからに乾いているはずの私の眼から涙が溢れて頬をつたっているのだ。私は泣いていたのだった。そして、私には確かに聞こえた。そろそろ、いきましょう という誰かの声が。私はふっと微笑んだ。
ある晴れた日、ざくっざくっ、と小気味のいい足音を立てながら2人の村人が歩いていた。
いやぁあの坊さんのおかげで今年は大豊作だべ。んだんだ。本当に感謝せねばならんな。あのお坊さんが亡くなられてからもう半年も経ったのか、早いものだな。ん?おい!どうした!? な、なんだこれは!?
2人の見つめる先には、ぽっかりと大きな穴が口を開けていた。そこは、あの僧が即身仏となるために埋められていた場所であった。そして、穴の底にはまるで生きているかのように微笑んでいるあの若い僧の遺体が座っていた。
遺体の頬から一滴の水がぽたっと落ち、鈴にあたり静かな音を響かせた。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。設定など不備や至らぬ点などあったでしょうが、少しでも楽しんでもらえたのであれば本望です。