斜陽
不意に、孤児院の裏口のドアが勢いよく開け放たれる。外へと出てきたのは――フリジア高原で出会ったエミールだった。エルマーは無事に責務を果たしたようだ。
だが、再開の感動など微塵もない。エミールの顔は怒りに満ちていた。あのときのようにナイフは隠し持ってはいない。両腕を精一杯動かしながら全速力で走ってくると、ヴィンセントの首を掻っ切ろうとしている俺にぶつかってきた。しかし、小さな子どものどつきなど大した衝撃もなく、エミールは反動で後ろへ派手に転ぶと、尻餅をついた。
「やめろ!」
目尻に溢れんばかりの涙をためたエミールは、俺を糾弾した。ヴィンセントが彼に見えないよう、俺はエミールの前にしゃがみなおす。彼は俺の服をつかむと、全力で後ろへ引っ張った。だが、七十七キロの体重
を少年が動かすことは容易ではない。
俺の腰に手を回して引っ張る。
つぎは脚を、腕を引っ張った。
今度は、俺の背中を思い切り殴り始めた。
だが、俺の行動は止められない。コンバットナイフが少しずつヴィンセントの首に近づいていく。
「やめろ! やめろ!……お願いだから、やめてよ!」
エミールの嗚咽を背中越しに訊きながら、俺はヴィンセントの頸動脈を斬れる位置まで刃を沈み込ませた。斬られた箇所から、噴水のように血が沸き上がり、たちまち周囲に赤い円を描き始める。強烈な鉄の臭いが鼻をつき始めた。
「いやだ! 先生、死なないで!」
ヴィンセントに駆け寄ろうとするエミールを右腕で制する。鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった顔は、言い表せないほどの哀しみで満ちていた。ヴィンセントの最期を看取ろうとするが、エミールは“憎き敵”によって阻まれている。ときおりあげる絶叫は、この世の終わりを目撃したのかと思えるほどで、立膝をついてただその光景を眺めている俺の全身に寒気が走った。
突然、エミールの抵抗が止んだ。彼を見ると、顔を俯かせ、地べたに座り込んでいる。俺はヴィンセントの状態を確かめるため、右手の動脈部分に触れたが、すでに“こと切れていた”。俺の表情からそれを察したのか、エミールはもう歯向かってくることも、罵倒してくることもなかった。護衛のひとりに院内へ連れていかれているあいだもいっさい話さず、俯き続けていたせいで表情も見えない。
フリジア高原で彼は、味方を失い、ここで先生を失った。ロイ・トルステンという死神が、彼から大切な存在を奪い去った。
「ヴィンセントの遺体は、こちらで厳重に保管させてもらう」
彼の遺体に付着した汚れを落とした後、俺は護衛の男たちが持っていた無線機を借り、フリッツたちと連絡を取る。元部下だったフリッツからは、上司だったヴィンセントとの戦いや、彼の言動に関する言及はいっさいなく、ただ相槌をするだけだった。だが、それも当然だ。ヴィンセントは、俺たちにとって“敵”に過ぎないのだから。
フリッツがよこした車に乗りながら、俺は孤児院の中を見ていた。窓越しに見えた子どもたちの表情は一律して恐怖と困惑に染まっていた。ただひとり、憎悪の眼差しを向けるエミールを除いて。
この作戦が終わって年月が経ち、彼が大人になったら、反政府勢力のような組織を興すだろうか。彼自身が失ったものを取り戻すため、世界に牙をむくだろうか。そうなったとしても、誰もエミールを責めることも、罵倒することもできない。そのような悪を生んだのは、他ならぬ俺たちなのだから。そして、ヴィンセントが言ったように、秩序を守る者たちは、武装して反旗を翻した者たちをただの敵として認識し、粛々と殺す。そのくり返しだ。
俺たちを乗せた車と、ヴィンセントの遺体を乗せた車が、徐々に孤児院から遠ざかっていく。勝利の余韻になど浸るつもりはない。彼が遺した言葉の通り、早急にラスペン州にいかなければ。
フリッツに案内されるまでもなく、フスレ基地への帰還した俺の足は、無線機のある部屋へと向かっていた。俺は無線機の調整を済ませ、博士を大声で呼ぶ。
『どうした? やけに興奮しているな』
俺はヘッドセットを力強く握った。
『冷静でいられるものか……! 俺のバッジの中に、録音機が入っていた。これがなにを意味するのか、あんたならわかるはずだ』
『録音機だと? それは本当か?』
博士の声からは焦燥の色が滲みでていた。
『ああ。ヴィンセントが死の間際に俺のバッジを壊して見せてきたんだ。なんなら、写真を撮ってカニアまで郵送してもいい。俺は、無意識のうちに作戦内容を漏洩させていたんだ……!』
『……なるほど。イーリス製の録音機の欠点を利用したのか……。通信のタイミングを狙って情報を盗んでいたのなら、やはり作戦を事前に知っている者が怪しくなるな』
情報漏洩をしたのが俺でも、そうなるよう仕組んだのは、当然俺以外の誰かとなる。だが、作戦を知っているのは、博士を含む上層部、大将、オスカー、エリィ、フリッツ、支援を行う部隊と、以外にも幅広い。博士は俺と話す機会はもっとも多くなるので、わざわざ録音機を仕込む必要がない。確率は低いだろう。
『あんたは以前、スパイを射殺したと言ったはずだ。その内容を、まだ詳しく訊いていなかったな』
博士はうなるような声を出しながらしばらく黙っていると、とつぜん勢いのある口調で話し始めた。
『……護衛の者がスパイを射殺した場所は、私の家のすぐ外だった。家の書斎が荒らされていてな。棚のほとんどが乱雑に引き出されていた』
博士は一度息を吐いた。
『五つのバッジを保管していた棚も同様だった。わざわざ鍵をこじ開けたようだが、数は減っておらず、棚が引かれていただけだった。もしかすると、そこで本物と録音機入りのを交換したのかもしれない』
作戦内容の漏洩は、ブルク州で俺が博士に初めて連絡したときから始まっていたのだ。逆を言えば、ブルクでの待ち伏せは、作戦を開始前から知っていた者にしか為しえない。あのときは戦車に加え、正規軍の軍服までも用意していたのだから、かなり余裕をもって動いていたはずだ。
『ヴィンセントは、セレーヌと離れた俺が、フスレに入ってからの作戦内容をすべて把握していた。つまり、一連の出来事は、セレーヌの仕業とは限らないということの証明になる。彼女を釈放するよう、軍に掛け合ってくれ』
『元々状況証拠だけだったからな。手続きはスムーズに済むだろう。大将には、再びスパイ探しに加わってもらえるよう打診しておく』
『わかった。俺はこのままデイヴのいるラスペン州へ向かう』
――現地では誰とも協力するな。
ヴィンセントの遺した言葉が、俺の心の中に渦巻いていた。
翌日の早朝。軍用車に乗りながら、俺はフスレ州の北西にあるラスペン州を目指す。セレーヌは、本作戦から外し、終了までフスレの基地で待機させるよう博士に話した。精神的な負荷がかかっている状態で参加されるよりは、いないほうがいい。結果的に、それが彼女の命を守ることにもつながる。すでに彼女は実戦に臨み、兵士がすべからく経験すべき通過儀礼を耐えた。それで十分だ。
物思いに耽りながら、車で舗装された道を進んでいく。雪は降っていなくとも、北風は容赦なく車体を襲った。厚手のコートを着ていても、隙間風が吹きすさぶ車内はかなり寒かった。
デイビッドの身になにかが起こっているのは確かだ。ヴィンセントの遺言だけではない。エリィが言っていていた、デイビッドとの音信不通の件もある。昔からあまり積極的な性格ではなかったが、連絡を怠るようなことは、俺が知る限りではなかったはずだ。
二時間ほど走り続けると、フスレのように美しい雪化粧をした街並みが前方に見えてきた。近づくにつれて車の往来の頻度も増えていく。街灯や家々の明かりに反射した雪は美しく、大きなひとつの装飾品のようにも思える。
「ようやくか……」
街へと入り、俺は表情を引き締めつつ基地へ向かった。大きな金網の門の左右に立った兵士は、寒さなど微塵も感じさせないような冷静な表情で、こちらを見つめている。バッジはヴィンセントが木っ端微塵にしていたため、身分証明には使えない。俺は車外へ出ると、左の兵士に近づいて、ブルクでセレーヌにも告げた非常通信用の番号を兵士に教えた。一瞬だけこちらを訝しむと、基地内へ走っていく。しばらくすると、さきほどとは打って変わって穏やかな表情になった彼が戻って来た。お待ちしていました、と握手を交えて歓迎され、俺も中へと入る。
入ってすぐのロビーでは、小柄な男が椅子に座っていた。デイビッドを監視していた男・テオだ。短い茶髪の髪、小奇麗なスーツに身を包んだ彼は、俺を見つけると立ち上がり、こちらへきびきびと歩いてきた。
「お待ちしておりました。ロイ少佐」
差し出された右手に、俺も応える。
「ありがとう。……悪いんだが、ここに長居をするつもりはない。早急にデイビッドのもとへ向かう」
テオは顔をしかめると
「緊急事態ですか?」
情報の漏洩を防ぐため、例の録音機の話は俺と博士のあいだのみで共有することにしていた。だからこそ、テオの疑問はもっともだ。
「少々、厄介な事態になっていてな。上層部との話で、作戦の期限が早まった。そのせいで、あまり悠長には構えていられなくなった」
我ながらかなり雑な嘘だが、上層部の決定は絶対だ。こう言えば、国に仕える人間のほとんどは口ごもり、自らを納得させようと努める。
「そうだったのですか。それでは、私も同行いたします。人手が多ければ、所要時間も短縮できるでしょう」
「いや。単独で行動せよとの命令も受けている。セレーヌのこともあるしな」
テオは少し考え込むと、俺の目を見た。
「……了解しました。念のため、いつでも出動できるよう、自分を含めたラスペン州駐屯部隊の一個小隊を待機させておきます」
「助かる」
俺とテオはロビーでの短いやり取りを終え、そこで解散した。俺はまず武器庫へ向かい、二丁の対戦車ライフルに使う五十口径弾を始め、拳銃の弾、手榴弾、閃光手榴弾をバックパックと、別に用意した鞄に詰めた。軍の補給を受けるのは、これが最後だ。博士以外には、誰にも頼ることはできない。デイビッドと早々に決着をつけ、この作戦を終わらせる。




