丸い世界
――国境までガリムを追い返したが、ここからが本番だ。奴らが建設した要塞を落とさなければならない。
三日前、エルキュール大将はそう言った。ガリムが今回の戦争を仕掛ける際に最初の拠点とした場所、ロンバイル要塞だ。イーリスとガリムにまたがる交通の要衝・ロンバイル草原のガリム側に建設された要塞で、十九世紀後半に建てられた。そこまでに至る道にはひとつの小さな町と、緩やかに隆起した丘陵地帯があり、そこを抜けると、国境を挟んだ反対側にロンバイル要塞がある。町の南西と南東に森が広がっているが、そこからでは要塞との距離が離れすぎて有効な銃撃はできない。本土での戦いを怖れたガリム軍の鬼気迫る攻撃に、イーリス軍はすでに二日足止めを食らっている。互いが本土を背景にしている以上、兵站は万全であり、それがここにおける戦いをより激しいものにしていた。間違いなく、ミディレルと同規模か、それ以上だ。
銃弾と砲弾の雨が吹きすさぶ戦慄の光景を、俺はスコープ越しに見つめていた。
「どうだ、機関銃手が見えるか?」
俺と同様にうつ伏せ状態になっているヴィクスが言った。<五つ子>の投入は、味方の部隊が要塞に突入した後。さすがに、一方的な攻撃を受けるしかない場所に投入しても意味がないと言う大将の案だ。俺とヴィクスはほかのメンバーと分かれ、ともに戦場から離れた丘で偵察を行っていた。くぐもった砲撃音や銃声が連続して訊こえてくる。
「ああ」
高倍率のスコープをつけた対戦車ライフルを覗き込む。灰色で統一された石造りの一角、四角い穴の中から射手が重機関銃を撃っている。弾道が流れ星のように発光する尾を引いて、味方の陣地目掛けて飛んでいた。
「東から風、〇.一メートル。目盛りを修正しろ」
俺はスコープの目盛りをずらし、対象との適切な距離を割り出した。ちょうど一キロほどだ。
「準備はできたか?」
俺は左手の握りこぶしから親指を上げ、準備万端であることを伝える。
「撃つタイミングはお前に任せる」
高鳴る鼓動を必死で抑えながら、俺は息を大きく吸い込み口を閉じた。弾道の落下を見越して、対象の頭部からやや上にレチクルの交差点を合わせる。戦場からひと際大きな音が訊こえた瞬間を狙い、引き金を引いた。
眩いマズルフラッシュとともに、弾丸が狙った敵の元へ飛んでいく。銃声が鳴ってから一秒後。
弾は相手のヘルメットを吹き飛ばした。弾道が上過ぎたようだ。
「ミス」
ヴィクスの淡々と告げた言葉が、失敗から受ける落胆をより大きなものとした。一度攻撃を控え、ほかに注意を引かれるまで待とう。
「感がいいな。こちらを見ている」
スコープ越しでも、相手の動きをつぶさに確認できる。男はヘルメットを被り直し、こちらをしきりに観察していた。太陽は俺たちの斜め上に位置しているから、スコープの反射光で発見されることはないだろう。
金属音がしたので左を向くと、ヴィクスは自身の狙撃銃を後ろから取り出して構えた。五秒と経たずに銃声が鳴り響く。スコープで確認すると、ひとりの兵士が要塞から落ちていった。だが、俺の狙っていた相手ではない。
「最初にお前が狙った男は、いまのでこちらのだいたいの位置をつかんだだろう。早くしないと撃たれるぞ」
その予言が的中したことを告げるかのように、俺の四メートルほど右から空を裂く鋭い音が訊こえた。
突然の言動に、俺は混乱していた。一キロとはいえ重機関銃の弾なら容易に届く。銃身も長いため、命中率もいいはずだ。これでは自殺行為だと言われてもしかたない。なぜ俺が逃した方を狙わないのか。
「なに考えてんだ! 自分たちの位置をあえて知らせるような狙撃手がいるか!」
俺はスコープを覗き、もう一度同じ敵に照準を合わせながら怒鳴った。
「逃げるつもりはない。お前が長距離狙撃を成功させる瞬間を、この目で見させてもらおう。お前が腕を吹き飛ばされでもしたら、そのときは私が反撃する」
全身から汗が噴き出していた。これだけ離れていても、重機関銃の弾が当たればただでは済まない。ヴィクスの言う通り、腕の一本や二本は軽く吹き飛ぶだろう。もう、やるしかない。
震える右手でグリップを優しく握り直す。スコープの中にいる敵は、明らかにこちらに向けて発砲していた。そのうち、ほかの敵も気づいて同様に撃ってくるかもしれない。レチクルをさっきよりも上にずらす。同時に空を裂く音が近くなる。敵も弾道を少しずつ修正しているのだ。俺は肺からすべての空気を吐き出した。余計なことはいっさい考えず、相手に弾丸を叩きこむためだけに全神経を集中させる。“ここ”には、俺とあいつしかいない。そう思うと、少し気が楽になった。
トリガーに当てていた左手の人差し指を押し込み、二発目の弾を発射する。間を置いて、弾丸は正確に敵の頭部に命中した。ヘルメットは吹き飛ばず、頭もろとも風穴を開けている。
「頭部命中」
力なく崩れ落ち、縁に上半身を預けて垂れているのを確認した後、俺はスコープから目を離す。急に胸が苦しくなり、息を思い切り吸った。そしてゆっくりと吐いていく。まだ生きていることに、俺は心の底から感謝していた。
「よくやった」
ヴィクスは俺の肩を叩きながら言った。
「つぎこんなことやってみろ。思い切りぶん殴ってやる」
自分でも信じられないようなか細い声に、ヴィクスは笑った。
「風が吹く中、敵に位置を悟られている状態で、一キロ以上の狙撃を決めたんだ。もっと自分を誇っていい。その事実は、これからのお前にとって大きな自信になる。自信は自らの士気高揚につながり、身体を力強く動かしてくれる」
結果論だが、自分の中に自信が付いたのは確かだ。仮に訓練で成功させたとしても、実戦ではないという事実が俺の中に悶々と立ち込めていたことだろう。そういう意味では、ヴィクスの言い分は正しいと言える。
「狙撃手はつねに孤独だ。観測手がいてもな。スコープを覗けば、敵以外には誰も見えなくなる。だからこそ、自信が必要なんだ」
「言いたいことはわかる。ただ、“生徒”に対する教え方としては、ずいぶん荒いな――」
ありがたい教えを訊いていると、主戦場で動きがあった。要塞からの攻撃が緩んだ隙をついたイーリス側の重戦車八両が、遮蔽物から砲塔を出して一斉砲撃を行った。要塞前に構築されていたガリム側の防御陣地が跡形もなく吹き飛ぶ。弾薬がまとまっておかれていたのか、オレンジと黒の煙が上空へ立ち上っていた。
砲兵部隊も攻撃に続く。放たれた無数の砲弾のうち一発が要塞の扉に大きな風穴を開けた。
「戦況が動くぞ」
ヴィクスはつぶやくと、伏せた状態で後方へ下がっていく。
「もう数分もすれば俺たちにも出撃命令が下るだろう。ルヴィアたちのところへ戻るぞ」
ああ、と俺は返事をし、慎重にヴィクスの後に続いた。




