フスレ
夜間の見張りを交代で行っていたエルマーの顔は疲労に満ちていたが、戦闘前と比べて明らかに“若返っていった”。少し前までは、まるで四十代くらいに見えていたという旨を彼に伝えると、声をあげて笑い出したので、俺もつられて笑ってしまった。周囲で寝ていた者たちに謝りながら、バイクを取りに行くため、俺は丘を駆けあがり広い平原地帯を一直線に抜ける。
昨晩は視界が悪かったせいでよくわからなかったが、本当に美しい光景だ。目の前に広がる、白んだ空を背景に、風に揺れる草木という構図は、まるで一枚の絵画のようで、フレームを置くだけで完成するのではないかと思ってしまうほどだった。すぐ右にある装甲車の残骸ですら、ここでは一種のオブジェクトのようにも思える。偵察に使っていた丘を越えると、奥に立つ一本の木にバイクが立てかけられていた。俺は対戦車ライフルが入っているふたつのアタッシュケースを左右に括り付け、差さりっぱなしだったキーを回す。
森林で戦った、ミレイユと呼ばれた狙撃手の言動をふと思い出した。“先生”がヴィンセントを指している可能性は高い。俺の動向は、おそらくミレイユを通してあいつの耳に入るはずだ。ひとまず、フスレにいる、彼の調査を担当していたフリッツと話し合うべきだろう。
俺はバイクを走らせ、エルマーたちの下へ戻った。そこでは、すでに全員が起き出し、遺体を運ぶ者、警戒を続ける者、今後の方針を練る者たちが忙しなく動いている。エンジン音に気づいた付近の者たちが一斉にこちらを向いた。
「そろそろ俺は行くよ」
バイクに跨りながら声をかけると、エルマーがこちらに歩み寄って来た。彼は微笑みながら、俺に向けて右手を差し出す。
「ともに戦えて光栄でした」
互いの右手を力強く握りながら、
「こちらこそ。君たちはおそらく、現在のイーリスでも有数の実戦経験豊富な部隊だ」
するとエルマーは一層口角をつり上げ、
「きっとそうでしょうね」
今回の戦闘における勝利は、政府を通し、各メディアで大きく取り沙汰されるだろう。それだけ、反政府勢力の士気に打撃を与えられるというものだ。
「年端もいかない子供まで加わっているとは、衝撃でした」
エルマーが言っているのは、エミールのことだろう。俺は彼がいるテントの方を振り向いた。ところどころが焦げた簡易ベッドで、彼は仰向けのまま静かに眠っている。身体には、俺が譲ったコートが覆い被さっていた。
「革命戦争の被害を受けた者は多い。彼も、その中のひとりだった」
子供は物事を真正面から、純粋に捉える。うまく受け流すという術を知らないからこそ、衝撃も大きくなってしまう。まだ世界の右や左がわからない以上、いま頭の中にある知識だけで行動を起こすしかない。エミールの決断は、小さな戦士ができる最大限の抵抗だった。
革命戦争当時も、家族を守るため、イーリスの子供が銃を使って敵を射殺したという報告はまれにあった。銃の使い方を誤り、自分で自分を撃ってしまったという話も少なくない。エミールは、昨晩の戦いのときベッドの下で怯えていた。それが普通なのだ。いったいどうして、見てくれもほとんど変わらない人間同士で殺し合わなければならないのだろう。そんな青臭い話題でさえ、子供なら真剣に考える。そして、その真っ直ぐな心を保ったまま大人になった者たちは、世界の薄汚れた姿に気づき、苦悩するのだ。フィリップやセレーヌのように。
この世で嘘をつかないのは、子供と死体だけだ。昨晩、エミールが俺に向かって放った言葉は、胸に深々と突き刺さっていた。
「戦争の時代と、平和な時代を生きる者ですか……。両者が手を取り合える時代がくればいいのにと、願ってやみません」
俺は深くうなづく。
「そうだな」
アルバーン中将に報告をしてくれるというエルマーに別れを告げ、俺はフスレに向けて走り出す。サイドミラー越しに、こちらを見つめる男たちの姿が見える。忘れないよう、俺はその雄々しい立ち姿を目に焼き付けた。
フスレに向かうための道路は整備されているおかげか、非常に快適だった。丁寧に敷き詰められた石畳の道は凹凸がほぼなく、腰にかかる負担もほとんどない。エルマーからもらった予備のトレンチコートをなびかせながら、高原地帯を走り抜ける。ニ十分ほど経つと、目的地であるフスレが見えてきた。降り始めてきた雪によって、美しく化粧をした、コンクリートとレンガの家々が視界に飛び込んでくる。街に入り、俺はまずフスレのイーリス軍基地に足を向けた。フリッツと会うのはもちろんだが、“彼女”とも話しをしなくてはならない。
入口にいる兵士に話し、基地内へ入ると、フリッツが俺を出迎えた。刈りあげられた坊主頭と不似合いなほどの温厚な顔のギャップは、一度見れば忘れられないほどの衝撃だった。背丈は俺よりも高く、おそらく百九十センチメートルはあるだろう。非常に丁寧な物腰だったのも、その違いを際立たせた。バイクから降り、彼に先導される形で俺は会議室へと向かった。
「エルキュール大将閣下よりお話は聞いています。フリジア高原での戦闘、無事に切り抜けられたようで何よりです。現在、フスレの駐屯部隊が、残党の掃討を行っています。逃走している者のうち、すでに十人は射殺したと報告が入りました」
会議室に向かう道中、フリッツは俺に話を持ち掛けた。
「なら安心だ。だが、問題は別にある」
厳かな雰囲気を醸し出す廊下を抜け、俺とフリッツは会議室へ入った。中央に置かれている長机には、すでにフスレ全体の地図が置かれていた。フリッツは地図の前に立つと、俺に顔を向ける。
「その問題とは?」
「フリジア高原での戦闘で出会ったミレイユという名の狙撃手を取り逃した。逃亡している十三名とは別の人間だ。そいつは、俺のことを先生から訊いたと話していてな。もしかすると、その先生がヴィンセントである可能性がある」
「それは厄介なことになりましたね」
「それと、訊いているかもしれないが、ヴィンセントは反政府勢力の連中に軍事に関する知識を教えているらしい」
「軍事技術の教授に関しては閣下から訊きました。ヴィンセントは、戦後に投資で得た分と、政府から支給されていた分の金を使い、数年前から孤児院を経営しています。教鞭をとっている場があるとすれば、孤児院の可能性が高いでしょう」
「君は知らないのか?」
するとフリッツは
「ジェラルド博士から、<五つ子>のプライベートには極力近づくなと言われています。きっと、正確な研究結果を知りたいからなのかと」
俺は心の中で舌打ちした。
「それに、まさかこのような事態になるなど思ってもみませんでしたから……」
フリッツの考えはもっともだ。誰よりも驚いているのは、ほかでもない俺なのだから。
「いずれにせよ、現地に行けばわかることだ。その前に、ヴィンセントを仕留めなければいけない」
彼は少しのあいだ目を閉じたかと思うと、すぐに開いた。気持ちを切り替えたのだろう。
「ヴィンセントは、毎週金曜日に自宅で晩餐会を開いています」
「それなら知ってる。このレポートに書かれていてな」
俺は懐から、ルイーゼが書いた報告書を取り出した。経緯を説明すると、フリッツからは驚きの声が漏れる。
「ならば、話は早いですね」
彼は右手の人差し指を滑らせ、ヴィンセントの家から南にある丘を指した。
「ここからなら、標的の家まで射線を遮るものはいっさいありません。八百メートルほどありますが、一直線で狙えます」
「奴の家には侵入できないか?」
「ヴィンセントとともに退役した元軍人が、警備を行っています。ヴィンセントがいまも訓練を施しているはずですから、腕は落ちていないはずです。正面からぶつかれば、相当な苦戦が予想されます」
ヴィンセントの得意とする領域に入るのは好ましくないが、一方的な狙撃なら問題ないだろう。晩餐会で荒事をして注目を浴びるのは、奴にとっても不都合なはずだ。
「なら、それは最後の手段にしよう。……仮にミレイユから情報を訊いたとして、奴はスケジュールを変えると思うか?」
俺が問うと
「確証はありませんが、可能性は低いでしょう」
予想通りの返答だった。ヴィンセントは、ラインハルトやルイーゼ、デイビッドとは違い、用意された数多の選択肢の中から、化け物になるということを選んだ。それは、彼が戦いに飢えている怪物であるということの証左でもある。もし、俺が暗殺しようと近いうちに来ることを知っても、彼は背を向けない。むしろ、諸手を上げて歓迎するだろう。相手が人体兵器ならばなおさらだ。戦いを渇望する男は、強敵を打ち負かすことで、自分の存在意義を確かめる。
「では、金曜日の夕方から、この南にある丘で待機する。フリッツ、観測手を頼めるか?」
「任せてください」
俺たちは十分ほど話し合い、詳しい段取りを決めた。まず、十六時から丘で待機し、対象が晩餐会を始めるのを待つ。そして、始まったら窓越しに彼の姿を探し出し、その場で射殺する。もしヴィンセントが姿を現さなかった場合は、日を改め、孤児院に来たところで奇襲をかけるというものだ。両方に失敗したら、フスレの駐屯部隊を選抜して部隊を編成し、ヴィンセントの自宅を夜間に襲撃する。
「では、この手筈でいきましょう」
ただし、孤児院には子どもがいるため、中に入ることはできない。接近戦になれば、彼らに構っている暇などないのだ。子どもを殺すなどという所業は、俺には不可能だ。
「それと、ひとつお話ししておきたいことが。閣下から少佐当ての伝言です」
フリッツの表情が厳しくなる。俺は心の中で身構えた。
「それは?」
「……クルスとカスラ州の治安が悪化してきています。クルスでは、ラインハルトの情報をひた隠しにする警察と政府に、生前の彼が属していた土木系の事務所や組合が情報の開示を要求しています。運の悪いことに、政府を糾弾するという点で一致している、反政府勢力と同じ場で集会をする機会が増えているようです」
「……カスラ州はどうなっている?」
「クルス州よりもひどい状態です。ルイーゼの死を、ルーカスの組織によるものという偽装自体は暴かれていません。ただ、組織の中に戦争肯定派の者が多く在籍していることが数日前に判明して以来、ルイーゼを支持していた体制派が、戦争肯定派と同じ考えである反政府勢力と激しく敵対しており、すでに両側で死人が出ているようです。これらふたつの州では、それぞれ駐屯部隊が警察と協力して、暴徒鎮圧に臨んでいます」
フリッツは懐から二枚の写真を取り出した。一枚目には、デモ運動を行っているクルスの人々の光景が写っていた。警察官に囲まれ、舞台に上がったひとりの男がなにかを大声で呼びかけている。二枚目は、カスラでさきほどの説明にあったふたつの勢力であろう人々が、一触即発の睨みあいを続けているというものだった。モノクロの写真によって、彼らの顔に刻まれたしわが、余計に強調され、憤怒の表情を際立たせている。
やってきたことが、すべて裏目に出ている――俺は顔を曇らせた。まったく想定していなかったというわけではないし、こういったリスクを承知のうえでここまでやってきた。博士が<五つ子>を故郷に帰さなければ良かったと言えばそれまでだが、直接的な原因は今回の作戦にある。上層部による隠ぺい工作自体はうまく行っていた。だが、その巧みさが問題になってしまった。とくに、カスラでの件は、完全に俺たちが争いの火種をつくっている。
平和のための戦い。やむを得ない犠牲を顧みないことで、不特定多数の人々の安寧を得るための戦いが、新たな問題を生み出した。いや、これすら、必要な犠牲なのだろうか。分子に入る数字が分母より小さければ、そこにどれほどの数が入ろうと、使命と正義感のもとに許されるのだろうか。
「……少佐。私が言うのも変ですが、任務の達成に犠牲はつきものです。国の未来のため、前に進んでください」
フリッツの言葉からは、俺の背中を押そうという、前向きな気持ちが感じられてた。そうだ。こんなところで立ち止まってはいられない。中途半端というのは、もっとも最悪なことなのだ。
「ありがとう。少し気が楽になった」
彼は屈託のない、さわやかな笑顔で
「お力になれたのなら幸いです。この後、少佐はどうされる予定ですか?」
「“事情聴取”に向かおうと思ってる。セレーヌが捕らえられている独房はどこだ?」
俺はフリッツから彼女がいる独房の場所を聞き出し、踵を返して会議室を後にした。地下二階にあるという独房に向かうため、響く靴音を訊きながら下へと降りていく。地下へと進むごとに、空気が重く、淀んででいく気がした。




