潜入
狙撃手がいることをエルマーに告げると、ただでさえ老けきっていた彼の表情は、さらに険しいものとなった。地形により生じた膠着状態のうえ、敵狙撃手による周辺の監視、そして、彼が、悪を打ち滅ぼすべき軍人であるということが、大きなプレッシャーとなってのしかかっていた。
「この場に狙撃兵はいるか?」
俺がエルマーに問うと
「私は、狙撃の基本課程なら修了しています」
「十分だ。では、俺から作戦を提案する」
ここでの戦闘の最終目的は、反政府勢力の殲滅であり、狙撃手の排除はその一貫だ。
「まず、俺が周辺から遠回りして敵地へ潜入。狙撃手を探し出して仕留める。その後、銃声が立て続けに三発訊こえたら、それを合図に全戦力を持って前進しろ。エルマーは丘の上から反政府勢力の連中を狙撃。内部と外部からの一斉攻撃で、奴らを一網打尽にする」
作戦を訊いていたエルマーの顔からは違和感がにじみ出ていた。だが、それも当然だった。これでは、俺の身に振りかかる危険の大きさなど想像もつかない。
「少佐。それでは、あなたがあまりに危険です」
「これは、この状況を打開するための最善策を考えた結果、導き出した結論だ。この会話は、ここにいる仲間全員が訊いている。もし俺が死んだとしても、君の責任にはならない」
「そういう問題では……」
思う存分暴れるなら、なるべく味方の目につかないほうがいい。これまでそうしたように。
「作戦は夜間に決行する。陽が落ちてから二時間後、十九時からだ。それまでに目を慣らしておけ」
体中に草を貼り付けた俺は暗闇の中、膠着状態となった戦闘区域を左回りに匍匐前進しながら進む。降雪は昼過ぎには止み、西日の影響でほとんどの雪が解けていた。草木に付着している雪解け水が首や足首の隙間にときおり染み込み、俺は身震いする。エルマーたちのいた場所からすでに二百メートルほど離れたが、目的地まではまだ半分にも到達していない。敵がいる右斜め前方を見やると、ときおりサーチライトのような光が高原の一部を丸く照らし出していた。警戒、ご苦労なことだ。
さらに数分ほど、芋虫のようなゆっくりとした動作で匍匐前進を続ける。すると、頭頂部に固いものが当たった。顔を横向きにしながら進んでいたので気付かなかった。ゆっくりと顔を上げると、そこには墓がひとつだけぽつりと建てられている。風雨の影響で浸食がすすみ、あちこちに苔が生えている墓石には「国に尽くした名もなき男、ここに眠る」と彫られていた。きっと身元不明の軍人がここで力尽きたのだろう。カニアには、身元不明であったり、縁者がいない遺体を葬るための無縁墓地がある。身命を賭して散っていった名もなき戦士たちが少しでも安寧を得られるよう、退役軍人たちの求めによって施設されたのだ。ゆえに、このような形で軍人の墓があるのは珍しい。
俺が死んだら、墓標にはどのような文言が刻まれるのだろうか。そもそも、墓が作られるのかどうかもわからないが。寂しく佇む墓をしり目に、俺は前へと進み続けた。
墓を遮蔽物のように使いながら、俺は後ろを回って目的地を目指す。五分ほど経つと、ついに敵が隠れている丘の近くまできた。数メートル前の照明が、背後に立つ者の手によって付近を照らしている。丘の内側まで到達し右を見ると、テントが三つ設営されていた。中には簡易的なベッドや携帯食料があり、短期決戦を目的としていないことが見て取れる。丘で戦う者と休息を取る者でローテーションを組んでいるようで、往来は激しくない。丘の付近には戦車が暗闇に紛れ、静かに鎮座していた。二両のうち片方のキューポラが開き、中から上体を出した男が前方を確認している。
不意に、一発の銃声が耳に入ってきた。発見されたのかと思い、音のした方角を急いで確認したものの、そこは森林地帯だった。奴だ。潜んでいる狙撃手が、エルマーたちに向けて撃ったようだ。夜間の射撃は困難だし、被害が出ていなければいいのだが。俺は照明を避けるようにして、最後に狙撃手を確認した森林を目指した。
道中で反政府勢力の面々の顔をいくつか確認したが、いずれも俺と同い年か、それより上の男性ばかりだった。革命戦争の影響を受けて大人となった人々だと思えば、自然と合点がいく。さらに奥へ進むと、後方で休んでいた人々の中に、ひとり異様に若い男が混ざっていた。黒い髪は短くまとめられ、丸みを帯びた輪郭は、まさに子供だ。だが、その目は据わっていて、兵士のそれと変わらない。弾倉などがぶら下がった粗末な戦闘服に身を包んでいるその様は、あまりに違和感があり、まさに、大人びて見せようとして必死に背伸びをする子供だった。
「エミール、疲れてないか?」
付近を通った男のひとりが、彼に気さくな調子で声をかけた。
「ううん。大丈夫だよ」
「いまからでも遅くない、フスレに帰ることだってできるんだぞ?」
エミールと呼ばれた子供は、首を横に振りながら
「お父さんとお母さんが受けた苦しみなんかと比べたら、僕がいまやってることなんてへっちゃらだよ」
「エミール、ご両親は、きっと君がこんな危ない場所にいることを望んでいない。こういう難しい問題は、俺たち大人に任せておけばいいんだ」
エミールの顔が急に険しくなった。
「そんなことない! 大人たちは、僕たちに何もしてくれなかった! お父さんは、戦争から帰ってきた後、おかしくなっちゃったんだ。近所の犬をすごく怖がったり、寝ているときに急に叫んだり。お母さんといっしょに偉い人たちに話しても、まじめに訊いてくれなかったんだ。僕たちを守ってくれたお父さんは……そのせいで……。お母さんも……」
エミールはしわくちゃな表情で泣き出した。だが、決して叫ぶことはなかった。必死で声を出すのを堪えながら、目尻から止めどなくあふれ出る涙は、悲しさだけでなく、悔しさや怒りも込められているかのようだった。
側にいた男はそっとエミールの頭を撫でる。エミールは少しすると泣き止み、星々が輝く夜空を見上げた。
「僕は、戦うよ。ほかの人が言ってるような、国のためなんてすごい理由じゃない。おっきい背中で僕をおぶって歩いてくれたお父さんと、いつも優しかったお母さんのために」
「……そうか」
男はエミールの肩を軽く叩くと、テントへ戻っていった。エミールは自分の身の丈より少し小さい程度の自動小銃を手にすると、丘の方へ駆け出す。
俺はエミールの側にいた男に自身を重ね合わせながら、その始終を最後まで見つめていた。
敵の拠点のすぐ外周を周っていたのと、夜の闇と草のカモフラージュが効いたのか、潜入はスムーズだった。森林地帯に入ると、俺は中腰になり、コンバットナイフを懐から抜き、夜に慣れた目で狙撃手の探索を始める。辺りは非常に暗く、数メートル先もよく見えなかった。足元に注意しながら歩き続けると、草が一定の方向に規則的に倒れているのを確認した。人が通った証だ。俺はその跡を辿っていく。徐々に平地が斜面に変わり始めた。
辿っていくと、前方には明らかに不自然な形で草が生えていた。平坦な大地に不自然な盛り上がり、そこに生える草。俺が今身に着けている偽装用の草とまったく変わらない。狙撃手がうつ伏せで戦闘態勢に入っているのだ。
側に落ちていた石を拾い、狙撃手がいるであろう場所の少し奥に向かって投げる。すると、音のした方向へ草が少し動いた。俺はその動きを見逃さず、狙撃手との距離を全力で詰める。
「運が悪かったな」
草を踏みしめる音に気づいて狙撃手がこちらを向いたときには、俺は狙撃銃を奪い後方に投げた。殴ろうとしてくる相手の拳を受け止め、そのまま背後に回る。首を絞め、ナイフを心臓部に突き立てるために右腕を振り下ろした。しかし、狙撃手は俺の右手首を寸前のところで掴むと、そのまま背負い投げの要領で俺を投げる。一般人だと思って油断していたのか、俺は派手に転び、肺から空気が一気に押し出された。俺は素早く起き上がり、ナイフを構え直して狙撃手と対峙する。すると、一連の動作で、鼻元まで覆っていた狙撃手のマスクが外れた。
フードを被っているせいか、一部は影で見えないが、月光に照らされ、顔の半分が明らかになった。亜麻色の美しい髪は肩まで届いていて、すらりとした端正な顔を華々しく飾っている。だが、その輪郭にはわずかながら幼さが残っており、セレーヌよりも幾分か若い、十七、八といったところだった。目を凝らすと、胸部は膨らんでいて、腰のくびれも目立つ。
「……女か?」
すると、目の前の狙撃手は
「女が戦っちゃいけない?」
鮮やかな碧色の瞳が俺を睨みつける。
「そういうつもりで言ったつもりはない」
女性は中腰で、左手にナイフを構えていた。もう片方の手は背中に回っている。拳銃を取り出そうとしているのだろう。
「馬鹿な男。敵地のど真ん中にわざわざ来るなんて。ここで私が銃を撃ったらどうなるか、わかるわよね?」
俺は右手のコンバットナイフをさらに固く握りしめた。
「その前に、俺のナイフが君の咽頭か右手を斬る」
睨みあう俺と彼女のあいだを、夜の静かな風が通り抜けた。木々のざわめきが、いまこの場のすべてだった。狙撃手の目は、虎視眈々と俺が隙を見せるのを待ちわびている。しばらくの沈黙の後、口を開いたのは彼女だった。
「私は勝ち目の戦いなんていつまでもやりたくないわ。そうでしょう? ロイ・トルステンさん」
唐突な言葉に俺は目を細めた。名前を言われて心臓の鼓動が一瞬激しくなったが、想定の範囲内だ。
「勝利する可能性が極端に低いなら、俺はそもそも戦わない」
「そう」
彼女は素っ気なく答えた。
「先生から話は訊いてるわ。≪五つ子≫と戦うときは、たとえ相手がひとりでも中隊規模で迎え撃つのが安全だってね」
先生と言われ、俺は思い当たる節があった。無論、三番目の標的である、ヴィンセント・グラッツェルだ。
「それはずいぶんと優秀な先生だ」
俺は彼女が後ろに回している手を注視していた。女性を手にかけるのは心苦しいが、もし拳銃をこちらに向けるような動きを見せたら、ナイフを投げて首に刺す。
「それにしても、女のスナイパーなんて珍しいな」
「ええ。“こういうとき”、男はみんな油断するでしょう?」
言い終わるのと同時に、彼女の背後から落ちた円形の物体が、鈍い音が立てた。閃光手榴弾だった。俺はすぐさま背後を振り向き、耳を押さえる。それとほぼ同時に、爆発音とともに、甲高い音と眩い光が辺りを照らした。立ちくらみでふらつく足取りで振り向くと、すでに彼女はいなかった。
「くそ……」
らしくない失態だ。俺は自分を叱責した。あの狙撃手の言う通り、女というだけで、無意識のうちに油断してしまったのだろう。本来なら、睨み合う前に殺しておくべきだったのだ。
少し間を置いて、下のテントから人が出てくる。一両の戦車の砲塔がこちらを向いていた。閃光手榴弾の爆発は、彼らの気を引くには十分だった。俺は狙撃手が持っていた狙撃銃が、地面に置かれたままであることを確認し、懐からリボルバー取り出して上空に三度引き金を引く。
俺は弾丸の如くその場から飛び出し、六十人と二両の前に立ちふさがった。




