別れ
俺は無線を切って、後部車両へと戻った。座席は閑散としていて、さきほどまで慌てていた乗客たちの姿はほとんど見られない。車窓から外を見ると、乗客たちが係員やセレーヌに誘導され、線路に沿って来た道を辿っていた。俺はセレーヌに声をかけ、車両内に戻って来るよう促す。彼女は誘導を止め、小走りで近づいてくると、速やかに中へ入った。
「ここにいる方たちが、なにを言っても避難してくれないんです。ロイさんからも説得していただけませんか?」
俺たちの前と左、そして後ろに座っている男たち。彼らが退くはずもない。
「拘束しろ」
俺が一声かけた直後、三人は立ち上がり、セレーヌに近づく。彼女は驚きに目を見開かせ、突然の出来事に困惑していた。
「抵抗しないでくれ。手荒な真似はしたくない」
感情を押し殺し、できるだけ冷酷な口調で俺は言い放った。セレーヌは、後ろで両手を組まされ、手錠を掛けられる。怯える彼女は、その流れにただ身を任せていた。
「これは……どういうことですか? 私、なにか失態を?」
「君は、反政府勢力に情報を流したスパイの容疑をかけられている」
今の時点でもっとも怪しい人物は彼女以外には見当たらない。俺や大将、博士が張った網がこのタイミングで反応したのだから。
『彼女がスパイかどうか、確かめる手段があります』
『訊こう』
『フリジア高原を通るという偽の情報をセレーヌに話し、反政府勢力の連中が当該地域に出現するのかを確認するというものです』
セレーヌがスパイであるという証拠を、どうにかして見つけ出す必要がある。根拠もなしに拘束には踏み切れない。
『外出する彼女を尾行して、現場を押さえることはできないのか?』
博士が言った。
『もしスパイなら、それなりに訓練を受けているはず。こちらの尾行に感づくかもしれない。いたずらに自由時間を増やしても、かえって怪しまれるだけだ』
残りふたりの標的が残っているのだから、悠長なことはしていられない。俺は心の中で付け加えた。
今までの彼女の言動がすべて偽装工作という可能性を考えると、セレーヌとのやり取りすべてが虚しく思えてくる。俺は、ただ手の平で踊らされていただけなのか。これまでに見せた仕草、表情は、すべて虚構に塗り固められていたのか。
『もし反政府勢力が現れたときの対処はどうする?』
大将は内容を詰めだした。おそらく賛成なのだろう。
『フスレに駐留している軍と、現地の警察を事前に配備させ、交戦させます。勝利すれば、反政府勢力に打撃を与えられるはずです』
本格的な武力衝突は非常に珍しい。数少ない戦いで勝利すれば、影響は大きくなる。治安維持を最優先とする、政府の方針とも合致する。
『お前の存在に、連中も頭を痛めているはずだ。それに、フリジア高原は広い。もしかすると、大規模な戦闘が発生するかもしれん』
穏やかな丘陵地帯と一面を覆う草原。フリジア高原はその景観的な美しさから、観光地としても有名だった。戦車や装甲車を投入するには十分な空間がある。大将の懸念は現実のものとなるかもしれない。
『そのときは俺も救援に向かいます……なにも起こらないに越したことはありませんが』
『わかった。では、私はアルバーンの若造に、機械化部隊の派遣を打診してみよう。フスレに行くのはいつだ?』
大将が問う。
『二日後です』
『二日後だな。博士、奴が要請に対して難色を示したときのため、いっしょに来てくれ。私はもう上層部の一員ではないからな』
『しょうがない』
と博士が呆れたような口調で言った。
『ロイ。大将の言う通り、これから私たちはアルバーンと話し合う。お前はこれまで通り、任務遂行に努めてくれ。くれぐれも、セレーヌには感づかれるな』
「そんな……私は無実です! 信じてください!」
目尻に涙をためたセレーヌの声は震えていた。
最悪の事態を想定し、最善の手を打つことが、あらゆる危険を防止することにつながるのなら、どれだけ冷酷な決断であっても、心を殺して遂行できる人間こそが軍人として求められる。今回のラスト・コート作戦が、それを体現しているように。
「信じられるかどうかは、これから分かる」
ふたりの男に取り押さえられたセレーヌは、目の前にいる俺をじっと見つめていた。頬を伝わる大粒の涙が、雪に染まったフスレの白い大地に小さな穴を穿つ。
「残酷な真実があるとわかっても、私、あなたとともに戦えることがとてもうれしくて……。新米でも、きっとあなたの役に立てると、一生懸命頑張りました……!」
「連れていけ」
男たちに誘導されるがまま、彼女は俺の横を通り過ぎ、駅の方角へと連行されていく。
「不要な存在として生きてきた私に、意味を与えてくれた、あなたのために、私は――」
俺はただ彼女の目を見続ける。澄んだ美しい瞳を。
「私は、ただ、あなたのために……」
連れていかれるあいだも、まるで、別れを惜しむ子供同士のように、セレーヌは首を振り向かせて俺を見つめ続けていた。やがて車が到着すると彼女は後部座席に座らされ、フスレに向かって走り去っていく。その流れを、俺はずっと見ていた。いや、見ていることしかできなかった。
彼女の逮捕は、状況証拠からの推理に基づいたものだ。真偽のほどは、今後の取り調べではっきりするだろう。この作戦は、たとえ何があろうと中断は許されないのだ。ラスト・コート作戦の失敗は、イーリスという国の破滅を意味する。セレーヌは俺にとって大切な部下だが、その部下が作戦遂行に対して大きな障害となるならば、個人的な感情を抜きにして、客観的な決断を下さなければならない。
武器を取りに行くため、俺は踵を返して列車内の倉庫へ向かった。大きめの扉が付けられた車両を見つけ中に入る。薄暗く、ほこりっぽい中に、ひと際大きなアタッシュケースとバックパックを発見し、その場で戦闘服に着替えた。外に出た俺はさらに後ろの車両へ行き、事前に手配してあったバイクを持ち出す。
寒空の下、俺はバイクに跨り、エンジンを温めるためしばしのあいだ待機していた。彼女が連行されていくときの、戸惑いと悲しみに満ちた表情が、脳裏にこびりついて離れなかった。俺の判断は正しい――勇ましく鳴るエンジン音を訊いて気を紛らわせながら、俺は頭を切り替え、今後のことを考える。
今回の作戦でいちばん厄介なのは、実戦経験で俺に勝るヴィンセントだった。少なくとも、純粋な狙撃戦になれば、俺の勝ち目は薄い。接近戦に持ち込むか、あるいは気づかれる前に射殺するしかない。俺は一抹の不安を胸に留めつつもバイクを走らせた。線路から外れ、戦友たちのいる西へ。しんしんと降る雪が、俺の顔を優しく、ときに激しく撫でた。
数分ほど走ると、銃撃や砲撃の音が一段と激しくなってきた。緑色の自然と、白色の雪が彩る空間にはあまりに場違いな、くぐもった轟音が高原の空気を震わせ、俺の胸に響く。前方に数名の兵士がいることを確認し、バイクを待機していた装甲車の側まで滑り込ませた。突然の出来事に驚いた周囲にいた兵士たちが俺に銃を向ける。
「参戦するためここに来た、イーリス陸軍ロイ・トルステン少佐だ。指揮官と話をさせてくれ」
俺がバッジを見せると、彼らは慌ただしく銃を下ろした。野戦司令部のようなところからひとりの男が近づいてくる。
「第九一四即応部隊隊長、エルマー・アンデルス大尉です。アルバーン中将よりお話は訊いています。革命戦争を生き抜いた方とともに戦えて光栄です」
敬礼の後、俺が右手を差し出すと、彼も応える。エルマーは、歳では俺とあまり変わらない様で、鋭い目つきは、正義のために人を殺すことに対する覚悟を示していた。だが、いまの状況が、彼の顔を異様なまでに老けさせている。眉間にはしわが寄っていて額には汗が大量に浮かび、結んだ口はかすかに震えている。緊張しているのが見て取れた。
「いつ入隊したんだ?」
「五年前です」
つまり、彼は戦争を経験していない。きっと市民の暴動やデモの監視、鎮圧がせいぜいといったところだろう。だが、そのような小さな事案は、たいていの場合警察が対応するため、軍が出動するほどの規模はほとんど起こらない。高等な訓練を積んだベテラン。言わば、エルマーは仮初の玄人だった。
「状況はどうなってる?」
「現在確認できる限りでは、反政府勢力は戦車を三両投入しています。対して、こちらは戦車二両に、装甲車が三両。このさきに丘があるのですが、そこから先は開けた地形で、身を隠す場所がありません。反対側に反政府勢力がいて、膠着状態に陥っています。砲兵隊がいないため、榴弾砲による砲撃もできず、中々突破口が見出せません」
エルマーが話し終える直前、轟音が鳴ったかと思うと、四十メートルほど前方の盛り上がった地形の背後から土が噴き出すように散らばった。戦車の砲撃だ。開けた地形に突撃すればいい的。それをお互いが理解しているからこそ、中々踏ん切りがつかない。
「まるで塹壕戦だ」
銃や兵器の性能が上がっても、塹壕は兵士の隠れる場所として有効な存在だった。だが、戦車の登場や大砲の性能向上によって精密攻撃が容易くなると、膠着状態は起こりにくくなり、より高度な戦術が必要となった。だが、それを実証するための戦いは、少なくとも国家間では、いまだ起こっていない。
「ええ、同感です。とは言っても、私は資料の中でしか見たことがありませんが……」
エルマーがばつが悪そうに言う。
「あんな品のない戦い、経験しなくて正解だ。命がいくつあっても足りやしない――もっとスマートに戦いたいもんだ」
俺は軽口を叩く。エルマーの表情が多少綻んだことを見ると、話を戻した。
「敵はどれくらいいる?」
「報告によれば六十人ほどらしいです。対して我々は警察と合わせて四十七名。アルバーン中将が言うには、最近各地の反政府勢力の運動も活発になっているらしく、軍の出動頻度も増えていて、ほかの即応部隊との折り合いがつかなったと」
大将や博士の打診があってこれとは、それほど国内情勢がひっ迫しているということなのだろう。
「わかった。ひとまず、俺は丘に登って周囲を偵察しよう。ニ十分ほどしたら戻る」
「了解しました」
俺は背負っていたアタッシュケースのうち一組をエルマーに託し、うつ伏せや仰向けになった兵士や警察官たちが散発的に発砲している様を横目で見ながら、もう片方の得物を担いで丘のもっとも高い場所まで走る。うつ伏せになって近くの草むらに潜み、アタッシュケースから銃を取り出して組み立てていく。ホットドッグほどもありそうな消音器を銃身の先端に装着し終え、俺は丘からわずかに体を乗り出して、スコープ越しに当たりを見渡し始めた。エルマーの言う通り、眼前には平原が広がっている。その両端には砲撃の跡のような、小さなクレーターが多々残っていた。味方と反対側を観察すると、丘の頂点から、微妙に帽子や髪の毛が見えたが、このままでは撃っても身体には当たらない。俺はその後も辺りを見回すが、厄介なことに、二両の戦車は、いずれも器用に砲塔部分だけを丘から出せるように位置を調整していた。位置もそうだが、俺の銃では現在の装甲車両は抜けない。のぞき窓を狙うのが関の山だ。
ただの民兵が、装甲の向きや厚さなどを意識して戦車を展開するはずがない。ヴィンセントの入れ知恵であることは明白だと、俺は眉間にしわをよせながら考えた。
反政府勢力がいる後方を観察していると、テントが施設されていた。吹き付ける風でときおりなびいているのがわかる。だが、天井の一部が見えるくらいで、人の出入りは確認できない。天幕まで設営しているとは、奴らは長期戦になってもお構いなしということか。戦争のプロに対して、腰を据えて戦うだけの力量や自信が、彼らにあるのだろうか。心の中で疑問を抱きながら、俺は銃を上げてスコープでさらに奥を見やる。森林地帯のようで、生い茂った木々がいっぱいに広がっていた。スコープの倍率を上げると、茶色い毛並みをした、可愛らしいリスが一本の木をよじ登っていた。こんなときに呑気なものだ。
すると、奥の草むらでなにかが光った。その煌きを視認したとたん、全身から冷や汗が一瞬で噴き出し、心臓の鼓動が早鐘を打つ。本能が脳の仲介を待たずして、俺の全身に危険を伝えてきた。
俺は体に力を込め、うつ伏せのまま思い切り左へ一回転した。だが、想定していた、弾丸が空気を引き裂く音は訊こえてこない。風が俺の側にある木を揺らす音だけが耳に入っていた。いまのは間違いなく、スコープの反射光だ。後方の森林、ここから八百メートルほど離れた地点に、少なくとも狙撃兵がひとり潜伏している。射撃してこなかったことを考えれば、こちらの存在に気づいていなかったのかもしれない。とはいえ、これではますます前進が困難になる。歩兵や戦車を片付ける前に、まずは狙撃兵を排除してなくては。俺は身体を射線に出さないよう慎重に丘を駆け降り、エルマーの下へ向かった。




