ただ、貴方のために
最初に視界に飛び込んできたのは白い天井だった。左に視線をずらすと、いかにも複雑そうな機器が動いている。俺は腰を浮かせて自分の背中に手を当てたが、破片はついていない。きっとここはルイーゼの屋敷の中にあった病院の一室で、ルーカスの施設での戦闘で受けた背中の傷を治療してくれたのだろう。
病室は設備こそ整っているが、軍の最新のそれとは違っていた。外は静かで、室内は、開け放たれた右の窓から四角く降り注ぐ太陽の光と、聞こえてくる木々の擦れる音で満ちている。上体を起こして窓の外を見ていると、ドアが開いてセレーヌが入ってきた。
「ロイさん。気が付かれたんですね」
彼女は近づいてきて、機器の手前にあった椅子に腰かける。
「俺はどれくらい寝てた?」
「一日ですね。ルイーゼさんが言うには、出血多量による失神だそうです。治療はすでに終わっています」
どうりで体の調子がいいわけだ。
「……そうか。ルーカスはあの後どうなった?」
「今朝、施設で回収した証拠とともに、警察に引き渡されました。警察による施設の捜査が終わり次第、ルーカスは裁判にかけられると。本人は罪を認めているようです」
ルーカスの組織は公権力に根を張っているとルイーゼから訊いていたので、この言葉に俺は驚いた。なにかひと悶着あると予想していたが。
「それと、ルイーゼさんが言っていた、ルーカスへの捜査に対して消極的だった上層部の真意がわかったそうです」
それこそ、ルーカスの組織との癒着が原因なのでは、と俺は思っていた。俺やセレーヌの手を借りることで、そういったしがらみとは関係なしに動くのが、ルイーゼの狙いなのではなかったのだろうか。
「ルイーゼはなんと?」
「それが、私も聞いていなくて……。ロイさんに口で伝えたいと言っていました。今日の午後十四時に、謁見の間に来て欲しいと」
病室の時計は十三時を示していた。俺は急いで支度をし、セレーヌが用意してくれた軽食を胃の中に流し込むと、彼女の下へ向かった。
屋敷の中央、階段を上がった先にある両開きの扉を開けると、見上げるだけで首が痛くなりそうなほどの高い天井をした広間に出た。左右には大きな円柱がいくつも埋め込まれ、幾何学模様の彫刻が壁や天井にところせましと掘られている。扉を開けた音に気付いたルイーゼがこちらを振り向くと、歩いて近づいてきた。
「ここは、祖父の代まで謁見の間として使われていたの。けれど、父は人を上から見ることを嫌っていて、パーティーなどの宴のときにしか利用しなかった。みなが平等に楽しめるように、奥の玉座も取り払ったらしいわ」
確かに、謁見の間という名前をしているのに、ここには玉座と思しき物がなかった。
「大胆だが、偉大な父だな」
ルイーゼはあまり家族のことを語りたがらなかった。父の名前がベネディクトということくらいしか知らなかったが、民を想うよき人柄だったようだ。
「ええ。……私も、バラドュールの名に恥じない生き方をできたかしら」
そう言いながら、彼女は俺に背を向けた。沈黙が俺とルイ―ゼを取り巻く。俺は貴族ではないが、彼女と同じ≪五つ子≫であり、なにかのために身命を賭す生き方なら俺も理解できる。正面に見える女性の背中は、バラドュール家、そして人体兵器としての、ふたつの使命を帯びていた。
「上に立つ者に必要なのは器量と人格だ。血統は関係ない」
大人になってから背負った、バラドュール家の名前。≪五つ子≫として、そしてバラドュール家の人間として、後天的かつ劇的な変化を経験した彼女の人生は、想像を絶するものがあった。
「ありがとう」
警察のことを訊こうとして俺が口を開こうとするよりも早く、ルイーゼが本題に入りだした。
「警察が、なぜルーカスの捜査を足踏みしていたか。ルーカスの逮捕を機に上司を問い質したら、意外な返答が返って来たわ」
「癒着か?」
ある意味ね、と彼女はうなづいた。
「カスラ州の警察の成績が、イーリスの中でも抜きんでて優秀なのは知ってる?」
ああ、と俺は返事をする。
「カスラ州の警察は、高い成績を維持するため、増加の一途をたどっていた犯罪の原因であるルーカスの組織の本格調査をしなかった。自分たちがイーリス最高の警察であることを証明し続けるため、彼らを利用したのよ」
ルーカスと警察が手を結んでいたのではなく、警察が一方的に利用していた。まるで食物連鎖だ、と俺は思った。犯罪者という餌を根絶やしにせずにあえて残しておくことで、躍進する警察のための食料を確保しておく。
「一度国中から注目を浴びたカスラ州の警察は、より一層の期待をかけられるのとともにプレッシャーに耐えなくてはならない。栄えあるカスラ警察であり続けるため、ルーカスが率いる組織の登場、それに伴う犯罪の増加は、願ってもない事態だった。人々から必要とされるヒーローは、悪があってこそ成り立つもの。カスラの犯罪を撲滅したら――カスラ警察は用済みとなってしまうから」
ルイ―ゼの説明を訊くほど、俺は胸を締め付けられるような感覚にとらわれた。これではまるで――。
「俺たちみたいだな」
それを訊いたルイ―ゼは、目を閉じ、深くうなづいた。
「まったくね。あまりに私たちと同じような境遇だから、上司から話を訊いたとき、思ったように怒れなかったわ」
戦争という存在意義を奪われ、時代から拒絶された≪五つ子≫と、偉大な存在であり続けるため、悪を利用し続けたカスラ州の警察。立場や形こそまるで違うが、本質は同じだった。
俺はふと、フィリップのことを思う。彼は、犯罪に立ち向かうことに生き甲斐を感じていた。悪を許さず正義を貫き通そうとする純粋な信念は称えられるべきだろう。だが、その思いも、社会という清濁入り混じったシステムに、知らないうちに利用されていた。偽りに塗れてでも栄光を誇示したいカスラの警察にとって、フィリップほど欲しい逸材はほかになかっただろう。真相を知っている連中がほくそ笑んでいる様を思い浮かべ、俺はやり場のない怒りに震えていた。
「ルーカスが公的機関とつながっているという話はどうなった?」
「調べてはいるけど、めぼしい書類は見つかっていないわ。もしかすると、今回の関係に似ているのかもしれない」
ルーカスを利用しようしていたのは、警察だけではない、ということだろうか。思い当たる証拠と言えば、カスラ州の警察の配備計画書だが、あれでは情報が少なすぎる。現時点では判別のしようがない。
「……ルーカスは、今回の逮捕を嬉しがっていたわ」
復讐に生かされていたと、ルーカスは言っていた。一心不乱に続けてきた自分の業が、どこかの誰かによって食い止められるのを、彼は待っていたのかもしれない。
彼につき従っていた、クルトやほかの構成員たちは、今回のできごとをどう受け止めるのだろう。純粋に犯罪を望む精神病質者もいれば、クルトのように、ルーカスに惚れ込む者もいる。ルーカスと同じく、政府への復讐に燃えていた輩もいただろう。軍に居場所がなければ、あるいは離れれば、俺もルーカスのようになっていたか、彼の組織に入っていたかもしれない。
ただ言われるがままに動く俺よりも、このような現状を打破しようと努力する彼らこそ、真に評価されるべきなのだろうか。正気と狂気の境目とは、いったいどこに存在するのだろう。
「戦友として、奴に引導を渡せてよかったよ」
「……そうね」
ルイ―ゼは俺の目をじっと見つめていた。その表情は穏やかで、ただ見つめていたくて見つめているようにも思える。少しのあいだ見つめ合った後、彼女は口を開いた。
「もうひとり、引導を渡さなくちゃいけない相手がいるわ」
彼女の言う通りだ。俺は、ルーカスの逮捕に協力するという、ルイーゼとの約束を果たした。
つぎは、彼女が俺との約束を果たすときだ。
俺は口をつぐんだまま、右の腰に下げたホルスターから、リボルバーを静かに取り出す。自分を殺す準備を目の前でされているというのに、ルイーゼの表情は、穏やかなままだった。俺は撃鉄を構えた左手でゆっくりと引き、人差し指をトリガーにかける。
「まさか、本当に約束を守るとは思わなかった」
彼女は、得物であるショットガンも、護身用の拳銃も持っていない。戦闘服に身を包んでいるわけでもなく、至って普通の服だった。俺は両手でリボルバーを構えなおし、ルイーゼの眉間へと照準を合わせる。
「約束だからね。守って当然よ」
「最期に、ひとつ教えてくれ」
「もちろん」
「お前のような人間が、なぜ反政府勢力に与したんだ」
あの飲食店で再会したときから、それだけが気がかりだった。街の治安を守りたいという一方で、反政府勢力に加わるという、矛盾した思考は、俺には理解できない。永遠の別れをする前に、疑問を残しておきたくないのだ。
質問されたルイーゼは、一瞬だけ驚いたような顔をした後、俺に向かってほほ笑んだ。そんなこともわからないの、と俺をからかっているかのようだ。
「あなたのことが好きだから」
思いもよらない返答を受け、俺は混乱する頭の中を悟られないよう、冷静を取り繕うのが精一杯だった。俺の訊き間違いでなければ、彼女は俺のことを好きだから、と言った。
「反政府勢力には、本来≪五つ子≫全員が参加するはずだった。だから私は、ロイも来てくれると思って反政府勢力への参加を決めたの。あなたと、もう一度会いたかったから」
「……俺と会うために?」
まだ頭が混乱していて、俺はオウム返ししてしまう。
「そう。でも、ラインハルトがあなたに殺されたことを知って、それも叶わないと悟ったわ。それでもあきらめきれなくて、私もルーカスを“利用したの”」
「事件解決への協力を申し出たのは、予定が狂った後も、俺といっしょにいる時間を作るため?」
彼女はうなづいた。
「最初はちょっと気になるくらいだったんだけど、≪五つ子≫として戦場に出るようになってから、リーダーとして戦うあなたを見ていて、どんどん惹かれていった。恥ずかしくて、けっきょくこの瞬間まで言えなかったけど」
彼女は続ける。
「少しのあいだだったけど、あなたと話せて、いっしょに戦えてよかったわ。……施設で戦ったとき、庇ってくれてありがとう――あなたが死んでしまうんじゃないかって、すごく心配だった」
気付けば、彼女の目尻から涙が流れ落ちていた。きれいな肌をした頬から、一筋の水滴が軌跡を描きながら落ちていき、床に小さな水たまりをつくる。
「本当……無事でよかった」
俺の指示に従って動いていたこと、傷を負った際には、優しく付き添ってくれたこと、彼女に協力することを決めてからいまに至るまでの時間が頭につぎつぎと浮かんでくる。
俺はリボルバーを左手に持ったまま、彼女を抱き寄せた。こんなことはその場しのぎでしかないのはわかっている。それでも、俺を想って死にゆく人間をいつくしむのことが間違っているとは思わない。
「あなたがシオンさんと同居し始めたと知ったとき、人生でいちばんショックだったの」
言葉を震わせながら、ルイーゼは顔を俺の胸に預けながら言った。
「どうしていっしょに戦ってきた私じゃなかったんだろう、あのとき勇気を出して話しておけばよかったって。ずっと、ずっと悩んでた」
彼女の頭に手を置き、美しい金色の髪をそっと撫でる。俺よりもいい男なんて、イーリスを探せばいくらでもいるだろう。だが、ルイーゼ・バラドュールは、ロイ・トルステンへの想いを胸に抱き続けた。叶わない恋だと悟った後も、また会える、そのときを夢見て。
俺は、彼女の想いに応えることはできなかった。シオンや、養子のレアールと作り出した世界を壊すことなんてできない。三人で過ごしてきた思い出は、俺にとって≪五つ子≫として戦った日々と同じか、それ以上の価値がある。それでも、今のルイーゼの想いをはっきりと断るなんて所業もできそうになかった。
泣き止んだルイーゼは、俺の顔を見上げた。
「でも、私はあなたの“影”を知ってる。シオンさんの知らない、あなたの過去を。化け物として戦場で生き、ともに戦い、背中を預け合った日々を。それに、こうしてあなたとまたいっしょに過ごせた……。後のことはエリィに話してあるし、もう思い残すことはないわ」
ルイーゼは少し背伸びすると、俺の右耳にそっと囁いた。
「殺して」
俺は左手を彼女から離し、撃鉄が引かれたままの状態を確認すると、弾がルイーゼの心臓に当たるように位置を調整し、静かに銃口を胸へ押し当てる。
「ありがとう」
ルイーゼは笑顔を俺に向けた。
「どういたしまして」
刹那。銃口から放たれた弾丸がルイーゼの心臓を貫く。弾は背中をも貫通し、磨き上げられた美しい床が、彼女の鮮血で染まった。急所を正確に射貫かれたルイーゼは、力なく俺へ倒れ込む。
ふたり目の≪五つ子≫、ルイーゼ・バラドュールの処刑執行を告げる銃声が、謁見の間にこだましていた。俺は、弾が貫通し、彼女の体内を破壊し尽くさなかったことに感謝しつつ、首に下げられていたドックタグを取り、血が付いていない床に亡骸をそっと寝かせた。ルイーゼを殺した“張本人”はその場に跪いて、死んだ彼女の冥福をしばしのあいだ祈り続ける。
――残りはふたり。




