天秤
暗い。眼前に広がる一寸先も分からないほどの暗闇は、まさに漆黒と呼ぶにふさわしい。音もなく、ただただ黒く広がる空間に身を委ねていると、まるで夜空を漂っているかのような感覚に囚われる。だが、ここはそんな修辞が似合うほど、美しい場所ではない。
頭上の豆電球が光を発すると、今の状況がはっきりと浮かび上がってきた。六畳ほどの殺風景な部屋の中央にぽつりと佇む椅子と、そこに座って憎しみの表情で睨む男が俺の目の前にいる。ベントの酒場の裏路地で拘束した、犯罪組織の構成員だ。
気絶させた彼をルイーゼの屋敷の地下室まで運び、椅子に縛り付けてから一時間ほどすると、彼は目を覚ました。見知らぬ部屋へ誘拐されたことに気づいて困惑する彼に、内部へとつながる専用のマイクを通して、組織の根城を教えろと言った。告白してくれたあかつきには、君を開放し、身の安全が確保されるまで政府による保護がつくとも。
そう言い放ってから明かりを消し、早十時間が経過した。暗闇の中、椅子に縛り付けられたまま長時間、ただそこにいるというのは、かなりの苦痛を伴う。だが、男は一言も言葉を発しなかったため、逆に痺れを切らした俺が、こうして部屋にやってきたというわけだ。
「名前をまだ聞いていなかったな。君の名前は?」
「……クルトだ」
「クルト君。俺たちには時間がない。だから、君に優しく接してやれるのは、あとわずかだ」
何の声色の変化もなく、平坦な抑揚で発した俺の忠告を聞くと、彼は口を開く。
「俺から話せることは何もない」
大抵、拷問の先に待つのは、洗いざらい情報を吐いた挙句の死か、沈黙を保ったままの死だ。だが、犯罪組織の構成員を確保できたことは大きい。ルイ―ゼと相談した結果、このまま生かしておく方がメリットも多いという結論に至り、さきほどの提案をした。いざというときは、人質にもなるだろう。
「そうは言うがね。強硬な姿勢は、今の君にとってはマイナスでしかない。ただ、組織の本拠地の所在を話すだけで、君は自由と安全、第二の人生を手に入れられるんだぞ」
「ボスに不利になることを話すつもりはねえ」
「ほう」
よく躾けられていることに、俺は関心した。
「いつでも殺してくれて構わない」
「殺す? そんなわけないだろう」
予想外の言葉を耳にし、彼はこちらを見た。
「君は“絶対に殺さない”。死ぬまでの限界のところまでを見極めて、丁寧にいたぶり続ける。君の口から情報が聞けるまで」
彼の顔に、あからさまな動揺の表情が浮かんだ。俺はさらに彼を追い立てるべく、一枚の写真を見せた。
「適切な処置があれば、これぐらいまで人間は耐えられる」
そこに映っていたのは、革命戦争当時、敵の軍事技術の情報を得るため、イーリスが捕らえたガリム兵だった。クルトと同じように椅子に縛り付けられた男は、鞭や刃物などにより全身にできた傷から血を流し、力ない表情で天井を見つめていた。何より衝撃的なのは――両腕が無いことだ。肘から下の腕がきれいさっぱり消えてなくなっている。
「ちなみに、腕を切断したときに麻酔は使われていない。きっと、身体を力づくで押さえつけながら、ナイフかノコギリで切ったんだろうな」
あくまでもルイーゼから聞いた話だが、当時はまだ麻酔はほとんど普及していなかったという。電球の光のせいで薄い影になっていたが、それでも、クルトの顔から血の気が引いてくのがわかった。
「一時間後にまた来る。話す気になったら言ってくれ」
「話すつもりはないと言ってるだろう」
衝撃的な写真を見せても、クルトの人生が作り上げた秤は、自分の命よりも、ルーカスへの忠誠心のほうに傾いていた。まだ足りない。まだ恐怖が足りない。
「立派な忠義だな」
俺は写真を懐にしまい、数秒考え込むんだ後、部屋を出た。向かう場所は、この部屋へ音を送ったり、聞いたりできるところ。そこには、ルイーゼとエリィが待機している。ドアを開けて中へ入ると、ふたりともこちらを向いた。
「どうだった?」
「ダメだ。思ったよりも忠誠心が強くてな。精神的に追い詰めてみたものの、効果は薄い」
ルイーゼの問いかけに、俺は否定の言葉を述べる。
「それでは……いかがされるのです?」
ルイ―ゼの代わりに訊こうと思ったのか、エリィが口を開いた。精神的苦痛に耐性があるのなら、やるべきことは、ひとつしかない。
「実力行使だな」
「なら、私もいく」
「……わかった。じゃあ、さきに部屋に行って、あいつに目隠しをしておいてくれ。俺は少し準備してからいく」
ルイーゼは部屋を出て、クルトのもとへ向かう。手荒な真似は避けたかったが、口を割らないならば仕方がない。
暗い。眼前に広がる一寸先も分からないほどの暗闇は、まさに漆黒と呼ぶにふさわしい――のはクルトの視界だけだ。ルイーゼが彼に目隠しをしているため、部屋で光っている電球も、彼にとっては意味を成さない。後ろで結んであった腕は、今は両端のひじ掛けにそれぞれ縛り付けられている。
「クルト君」
俺の問いかけに、彼は顔を向けて応えた。視覚を遮断されている今、ほかの感覚が研ぎ澄まされているはずだ。
「俺は、あくまでも平和的に解決したいと思ってる。さきほどの提案、承諾してくれないか?」
「同じことをなんども言わせないでくれ」
「さっきは言いそびれたが、俺は軍人だ。この国の利益のためならば、いくらでもこの手を血に染める覚悟で生きている」
そう言い放ちながら、俺は持ってきたトレイの上に置いてある刃物類を動かして音を立てる。ガチャガチャと金属音を立てる方向を、クルトは見つめている。裏世界に身を置いている彼なら、この音が自分にとって害をなすものであることはわかっているだろう。だが、確かめようはない。頭の中ではそう理解しているが、実際には視認していない。“わかっているのに、確かめられない”という恐怖を、彼は今全身で感じているのだ。
「国のためという言い訳をして、こんな残酷な手段に訴えると」
「君たちほどではない。少なくとも、無辜の市民を犠牲に金を稼いでいるような畜生どもとは、そもそも方向性が違う」
「……友人っていうのは、ジェラルド、お前のことだったのか?」
「その通り。それと、俺はジェラルドではなく、ロイだ。……クルト君、これが最後のチャンスとなる。ルーカスの居場所を教えてほしい。そうすれば、君は情報の整合性が確認され次第、政府によって保護される」
「俺のリーダーは、ボスただひとりだ。政府の犬の言うことなんざ聞くわけないだろう」
怯えるような素振りを見せるものの、あくまでもクルトは退かない。彼が味方だったら、どれほど頼もしかっただろうか。
俺は一息ついた後、彼の右腕に思い切り肘を振り下ろした。彼の右手の甲が鈍い音をあげる。
「――っ!!」
突如として襲ってきた痛みに、彼は息をのんだ。
「ルーカスはどこにいる?」
感情を込めず、ただ同じ音をくり返す蓄音機のように、俺は彼に再び問う。
「結局……力ずくか」
「ルーカスはどこにいる?」
「知らない」
左腕の甲に肘を突き立てる。二度目の激痛に、彼は悲鳴をあげた。
「人員のスカウトをするぐらいの地位にいるのなら、知っているはずだ。……ルーカスはどこにいる?」
「……知らないと言っているだろう!」
右の壁に設置してある蛇口からホースを引っ張り、彼の口に突っ込むと、ルイ―ゼは栓を思い切り開く。大量の水が彼の口内に容赦なく注がれ、口の僅かな隙間や、鼻から水が噴き出してきた。十秒ほど続け、ルイ―ゼに合図して栓を閉めてもらい、ホースを引き抜く。
「ルーカスはどこにいる?」
激しくせき込みながら、クルトは必死で言葉を紡ぐ。
「俺は何も知らな――」
言葉を言い終わるのを待たず、再び同じことをくり返す。今度は二度。
「ルーカスはどこにいる?」
クルトは息をするのに精一杯のようで、返事をしない。俺はホースを右に投げ、代わりに小型のナイフと取り出した。
「ボスは……俺たちにとって絶対の存在だ……。彼の失望を買うような真似は……しない」
期待外れの答えを聞き、俺は彼の目隠しを取った。ルイ―ゼに指示し、彼女にクルトの頭を手で固定してもらう。
「あくまでも、人を売りさばくようなくそったれをかばうのか。なら、その代償を払ってもらわないとな」
「何を――」
「目を刺す。抉らないだけありがたく思え」
その言葉に耳にすると、彼は目を見開かせた。そんな反応もお構いなしに、俺はナイフの切っ先を少しずつ彼の右目へと近づけていく。二十センチメートル、十センチメートル、七センチメートル、五センチメートル……彼の右目の瞳は、ナイフを捉えて離さない。徐々に視線は中央へと寄っていき――クルトの右目に刺さった。ゆっくり、ゆっくりと、柔らかな眼球に刃が差し込まれていく。彼の絶叫が部屋にこだまするが、誰も助けになど来ない。右目が使い物にならなくなったことを確認すると、俺はそっとナイフを引き抜いた。
正直にいうと長期間拘束して尋問を行っているわけでもないような相手に、このような強硬手段に打って出ることは、極力避けたかった。だが、タイミングが悪かった。そのひとことに尽きる。悠長に構えていられないというこの状況は、クルトだけでなく、ほかでもない俺にも、強烈な焦燥感をかき立たてていた。
「俺は、目的の達成するためなら手段を選ばない」
ぐったりと首を垂れているクルトは、右目を刺し貫かれてから、まったく動こうとしない。
「それでも……お前は軍人なのか? 確かに俺は罪人だ。だが、こんな法を逸脱するようなことをして、ただで済むのかよ……」
普通なら、この男の言う通りだ。軍人も、警察官も、守るべき規則があって、初めて機能する。統制なき武力など、そこらの武装組織やチンピラと変わらない。だが、俺という存在は、人権だの、倫理的思考だのといった、世の中のきれいごととは相容れないような状況で“誕生した”。何より、俺はどうあっても最後には死ぬ運命。それは変わらない。死ぬとわかっているからこそ、任務に立ちはだかる脅威を排除するためなら、悪魔や死神と罵られる覚悟はできている。
「俺も秩序の外側の人間だ。人道的と言う言葉は、今の俺にはない」
「……」
「どうしても、答えるつもりはないんだな?」
これが最後の問いになる――そう決意し、俺はナイフを握り直した。
「……」
クルトは答えない。沈黙は、大抵は肯定を意味する――つまり、話さないということだ。俺は懐から、さきほどとは別の写真を取り出し、彼の前で見せた。
「……ボス?」
彼の言う通り、その写真には、ロントに居城を構える犯罪組織の親玉、ルーカス・リーが映っていた。数年前に捜査の過程で運良く撮影できたものだと、ルイ―ゼから聞いている。
「なぜ、これを俺に見せる?」
「これが、お前が彼を見られる最後の機会になるからだ」
クルトの顔が強張る。
「殺すってことか」
「殺さないといっただろう? ――左目にもナイフを突き刺す」
「――っ!」
両目を刺し貫かれるということは、完全な失明を意味する。それは、決して光が差さない、漆黒の世界で一生を過ごすということだ。俺にはその世界が理解できないが、ただ、恐ろしいということはわかる。世の中の大半の人間は、生まれるのと同時に、世界を視認する。春夏秋冬に映ろう景色や、店で食事をしたり、居酒屋で酒を酌み交わしたり、公園で散歩したり立ち話をしたり、そういった何気ない日常の風景が、すべて消え去る。ずっと、眼前に広がる黒一色の世界を見続けるのだ。
「その後は、一生政府の監視の下、牢屋で暮らせ。老衰して、無様に死ぬその瞬間まで、暗闇の世界を心いくまで堪能するといい」
「くっ――!」
俺は左目にさきほどの要領でナイフを近づけていく。クルトの額や首筋からは大量の汗が噴き出している。生命の危機を、身体が認識している証拠だ。彼の抵抗で、椅子が揺れているが、ルイ―ゼが押さえつけている限り問題ない。少しずつ、彼の顔に接近するナイフ。部屋の真上にある電球がナイフを照らし、刀身を反射して眩く光る。
「ロ……ト……」
クルトが、今にも消え入りそうな声で呟いた。その言葉を訊き、俺はナイフを下ろして、優しい口調で彼に問う。
「もう一度言ってくれ」
「ロントの七番地、ロス通りにある赤い屋根の民家だ! 室内の奥にある台所のテーブルの下に階段があって、そこから行ける!」
ついに吐いた。彼の顔は、緊張から解放されたことへの安堵感のせいか、涙に濡れていた。
「民家を隠れ蓑にしていたのね」
「ルイ―ゼ、明日の夜に、こいつの言った場所へ向かう。警察に掛け合ってできるだけ多くの警察官を集めろ。それと、お前の私兵もな」
ルイ―ゼは静かに頷く。俺は彼女に準備するよう促し、部屋から退出させた。残ったのは、俺とクルトだけ。彼は相変わらず泣き続けている。
「安心しろ。もう君を傷つけることはない。ここには医療施設もあるから、まず両手を治療し、完治次第、政府に保護してもらう。いいな?」
すぐに治療を行えるよう、関係者に指示を出してから十数分が経過した。いくら安心させようと言葉を並べ立てても、クルトは泣き止む様子はない。それどころか、嗚咽が激しくなったようにも感じられる。
「おい、お前も大人なら、いい加減泣き止んだらどう――」
「ボス……」
不意に彼は泣くのを止めた。もう嗚咽も聞こえない。少しすると、クルトは静かに顔を上げ、天井を見つめ出した。真っ白で薄汚れた天井を。
医療関係者が部屋へやってくると、彼に担架へ寝転ぶよう促した。クルトはそれを拒否すると、誘導されるがままに、施設の方へと歩き出した。




