ささやかな祝宴
「イーリスの勝利を願って」
大将が乾杯の音頭を取るのは、異様な光景だった。航空兵器が存在しない大陸、さらにその中でも内陸の国であるイーリスでは、海軍の戦力は貿易を行う他国の港に必要最低限配備されている程度。陸軍の将軍が、実質イーリス軍の頂点に位置していた。権力では首相に及ばないが、それでも、国内のナンバーツーだ。
全員が席につくと、大将の家の広間でささやかな宴が始まった。ミディレルでの戦いを制した<五つ子>の祝勝会みたいなものだった。とは言っても、参加者は大将と<五つ子>のみ。デイヴは本を読みたいとか言っていたが、大将の誘いと訊くと、さすがに無礼だと思ったのか、渋々承諾した。
「ヴィクス。兵士からの報告では、一・三キロメートルほど離れた敵を狙撃したらしいじゃないか。見事な腕前だ」
俺の向かい側で料理を食べていた大将が言った。彼の右に座っているヴィクスは三十九歳。五十八歳の大将と話しているだけで、なにやら極秘の会談でも行っているかのような雰囲気が醸し出されている。
「ありがとうございます」
ヴィクスはそう言いつつ、フォークとナイフで器用にステーキを口に運んだ。
「長距離狙撃では風や湿度、標的との距離など、さまざまな計算が必要になります」
「自然を味方につけるわけだな」
グラスに注がれていたワインに口をつけると、大将は言った。
「はい。一キロを超える狙撃は、経験豊富な狙撃手であっても決して楽なものではありません。隊長……ロヴァンスもそのことは熟知しています」
名前を呼ばれ、振れた右手に持っていたナイフが皿に当たった。やはり、第二の名前で呼ばれるのは慣れない。ヴィクスは腹が減っているとここに来る前に話していたが、そんなに食事に集中したいのか。彼の皿を見ると、すでにステーキは無くなっていた。手を上げると、燕尾服を着た初老の男性が隅から近づいてきた。ヴィクスが追加のステーキを注文する。
「そうか。お前はヴィクスから狙撃の訓練を受けているんだったな」
一通りの技術は、すでにヴィクスから教わっていた。だが、彼の言う通り、流動的に変化する環境を制して長距離の狙撃を決めるのは困難であり、そこには最終的に運が絡む。
「自分は、まだ一キロ以上の狙撃を決めたことがありません。だからこそ、ヴィクスの言うことはよくわかります」
俺はナイフとフォークを置いた。
「成功も失敗も、けっきょくは可能性の問題です。その可能性を少しでも成功へ近づけるため、日夜訓練しています」
「頼もしいな。だが、ときには休息も必要だ。目的地に急ぐからといって、連日行軍を続けるような軍隊は敵に容易く蹴散らされてしまう。必ず、メリハリをつけることを忘れるな」
大将のワインを飲むペースが上がっていた。どうやら酔っているようだ。
「こういう状況だからこそ、冷静に物事を見極めにゃならん。それに、お前たちは若い。ちょっとくらい羽目を外して遊ぶくらいがちょうどいい」
「だってよ。ヴィクス」
俺の右に座っていたラーヴィが、やや赤い顔で息巻く。こいつも明らかに酔っている。大将の「若い」という言葉を受け、ヴィクスの歳をからかいたかったのだろう。
「そうだな。メリハリをつけて遊ぶとしよう。遊び人の誰かと違ってな」
ラーヴィは顔をゆでだこのように赤くすると、それを冷ますかのように足されたワインを一気に飲み干した。元々血気盛んな性格というのもあり、関係者からはさまざまな彼の“武勇伝”が訊こえてくる。ひとりで十人のチンピラを撃退しただの、地元にある居酒屋を制覇しただの、燃えている家に単身突っ込んで女性を救出しただの、その内容はさまざまだった。もちろん、それは大将も承知していた。
「一本取られたな」
俺は横で彼に言った。
「お前の場合は、遊びに割いている時間を仕事に少しでも回したほうがいいかもしれないな、ラーヴィ」
「まあ……善処しますよ」
笑いが広間を包む。
「そういえば、クルス州の居酒屋を制覇したのだろう? どこの酒がいちばんだ?」
「バッカスですね。あそこの赤ワインはかなりの上物です」
「そうか。では、今度休暇を利用して行ってみるか。そのときは、お前も同行してくれ」
「了解しました。飲み比べといきましょう」
ラーヴィと大将がにやりと笑った。
話がひと段落し、みなが食事を終えた頃、ラーヴィの隣に座っていたルヴィアが口を開いた。
「大将、大分酔っていらっしゃるようですが、大丈夫ですか?」
大将に視線を向けると、彼の側にはワインのボトルまで置かれていた。いつもは冷静沈着で、カリスマを遺憾なく発揮している彼の酔った姿を見られるのは稀有だった。飲みの席では、大将はほとんど酒を飲まない。
「心配には及ばない。だが、家族以外の前でこれほど酒を飲むのは久しぶりだ……。<五つ子>といると、どうも安心感があってな」
<五つ子>も大将も、形こそ違うが影響力を持つ。見上げられる立場に身を置いているからこそ、そのようなことを考えず、自分という存在を気兼ねなく出せる場所や存在が必要になる。彼にとっては、その場所が家であり、そして俺たちなのだろう。
「……ルヴィア。養子縁組の話があるのだが」
真剣な表情で大将が訊ねた。全員に驚きの表情が走る。
「それは、いったい?」
「私の知己に、ベネディクト・バラドュールという男がいてな。もう七十七歳になる。大した遺産を持っているんだが、貴族のくせに独身なのだ。さすがに危機感を持ったのか、私に養子縁組で当てはないかと訊かれてな」
「どうして私なのですか?」
ルヴィアが訊ねる。
「君は生まれ故郷がどこだか覚えていないのだろう? 孤児院を出たいま、腰を落ち着けるような、心の拠り所となる場所が必要だ」
いまの戦争が起こる十七年前には、イーリスとガリムのあいだで六日間戦争と呼ばれる戦いがあった。六日で終わったことからつけられた戦争だが、生まれたばかりのルヴィアは家族を戦火で失い、付近にいた修道女に助けられた。
避難場所を探し、いまいる場所が危なくなってはほかの地を転々としていた自身にとって、故郷と呼べる場所はないし、覚えてもいない、というのが彼女の弁だった。
「いますぐ返事を出す必要はない。そうだな、一週間後にはほしい」
「わかりました。大将、お心遣い、ありがとうございます」
ふたりの会話を訊きながら、俺は周囲を見渡す。ヴィクスの隣に座っていたデイヴが、外を見ていた。両脇に分けられた髪が、開け放たれた窓から流れ込む夜風でなびいている。月光が彼の顔を照らし、幻想的な雰囲気を演出していた。
「どうした、デイヴ」
俺の声に彼は振り向いた。
「月がきれいだと思ってね」
椅子を下げて、俺も外を見た。一片の欠けもない、見事な満月だ。カニアの街並みを青白く染め上げている。
「相変わらずのロマンチストだな。お前は」
「月にまつわる童話があるんだ。きっと君も気に入るよ」
ワイングラスを置いて彼を見つめていた大将が口を開いた。
「どのような話なんだ?」
デイヴは一度咳した後、童話の内容を話し始める。
「兎と狐、猿は、ある日道端で老人が倒れているのを見た。彼は心身ともに疲れ果てていて、食べ物を乞うてきた。助けようと決意した三匹は辺りを探し回る。猿は木の実を、狐は魚を見つけて食べさせたけど、まだ老人を助けるには足りない。けれど、兎はなにも見つけてこられなかった。必死で考えた結果、狐と猿の反対を押し切って、兎は老人が起こした火の中に飛び込み、自分を食べさせることに決めたんだ。自らの身を捧げてまで助けようとしてくれた兎に、老人は泣いて感謝した。彼は村に帰ると、ことの経緯を周囲に話していった。心優しい兎の勇気は、何世代にもわたって語り継がれていった」
話し終えたデイヴは大きく息を吐いた。
「……いい話じゃねえかよ」
ラーヴィが大粒の涙を流していた。
「ほかにも、その老人は神様の化けた姿で、兎は功績を評価されて神になったっていうパターンもある。童話は、子どもでもわかるように単純な内容であることが多いけど、だからこそ年齢を問わず心に響くんだ」
俺も目頭が熱くなっていた。デイヴの言う通り、童話は純粋で泣ける話が多い。大人になってからは清濁入り混じった社会を受け入れなくてはならないが、真っ直ぐな心意気があるだけでも、人は変わることができる。
「私も幼いときはよく母に童話を読み訊かされた。童話もそうだが、本は勉強になる」
昔を懐かしむように目を細めながら大将はつぶやくと、その場で立ち上がった。
「さて、そろそろお開きにしよう。明後日からは戦線を国境まで押し戻すための、本格的な反攻作戦が始まる。明日は、各々しっかりと休息を取れ。お前たちの作戦内容はおって連絡する」
了解しました、と俺たちは口をそろえる。今日の戦いは、この戦争の転換点であり、俺たちにとってのスタートラインだ。気を引き締めなくては。
大将は、酔ってときおり歩調を乱しながらも、俺たちを見送るため玄関まで同行した。両開きのドアを開けると、初秋の風が顔を撫でる。周囲の家々の明かりはひとつも点いておらず、街灯が道しるべのように点々としているだけだった。
「ではな、諸君」
玄関が閉まったことを確認し、俺たちはカニアの基地を目指す。明日はそこで休み、夜が明けたらミディレルの前線基地へ出発だ。
暗がりの道を五人で歩いている最中も、デイヴが話していた童話が俺の心の中に残っていた。俺たちは、“老人を助ける兎”ではないのだろうか。




