おかえりなさいと、小さな声で。
庭に植えている檸檬の花が今日やっと咲いた。
毎日の日課、朝ごはんの前の庭の水やりは兄弟と当番制になっている。
今日は末っ子の鈴九の番だった。
鈴九は花が咲いているのを見つけてすぐ、朝ごはんを作っていた僕と次男の葉色に報告をしに来た。
最近買ったばかりの白い上着の袖と腹の部分が泥で汚れていて、おまけに頭に花びらまでついていた。庭ではしゃいでこけたのだろうか。
上着は脱がせて、軽く手洗いしてから洗濯機に入れた。漂白剤もいるだろうか。流石に長袖1枚では今日は寒いので、クローゼットの中から別の上着をだしてはしゃいでいる鈴九に着せた。桜色のものだった。
頭に花びらがついてることを教えると、恥ずかしそうに手で頭を軽くはたいた。
花びらがそれでも落ちなかったので、取ってやった。
僕と次男の葉色は鈴九に引っ張られて庭へ出た。灰色の鳥が走る僕らに驚いて屋根へ逃げていった。
1輪だけ、白い花が咲いていた。
どのくらいで実がなるの。
葉色が花を見上げながら聞いてきた。
さぁ、どのくらいだろうか。
1週間くらいかな。
もうちょっとかかるんじゃないか。
そっか。結構かかるんだね。
しばらく花を眺めてから台所へ戻った。
朝食用のハムが火を消し忘れたフライパンの上で黒くなっていた。
今日の朝ごはんのおかずは、そのせいで野菜ばかりとなってしまった。葉色は肉と魚より野菜が好きなたちなのでご機嫌そうにトーストの上にトマトのスライスとキャベツの千切り、チーズをかけたものを美味しそうに食べていたが、鈴九は、そんな葉色とは対照的に野菜が嫌いなのでトーストを何ものせすに渋い顔で頬張っていた。
仕方なくイチゴジャムを出してやったら、嬉しそうにパンにたっぷりつけた。
野菜も食べろよ。
そう言ったら、渋々蓮根の煮物を少しとミニトマトを1個だけ食べた。
台所で洗い物をしていたら、玄関の鈴を鳴らす音が聞こえた。居間で折り紙をしていた葉色と鈴九に出てくれ、と頼んだ。
一、二分して、小窓くらいの大きさの白い箱を2人で運んできた。宅急便だったらしい。
これ、開けていい。
いいよ。
最後の皿を洗い終わった頃に居間から歓声が聞こえた。何かいい物が入っていたのだろうか。
居間行ってみると、2人は箱の中を覗き込んでいた。
何が入ってたの。
そう聞きながら覗き込んだ。中には、色とりどりのジャム瓶が入っている。窓からの光に硝子瓶が乱反射して綺麗だ。
赤、黄、ピンク、緑、赤…
苺のジャム、檸檬の砂糖漬け、桃のジャム、緑は…野菜の詰め物だ。この赤は…なんだろう。
マッサだって。
ああ、…赤パプリカと塩の、だっけ。
鈴九が露骨に嫌そうな顔をした。
おいしいの、それ。
おいしいよ。
えぇ、嘘だぁ。
嘘じゃないよ。食わず嫌いは良くないよ、鈴九。
差出人には父の名が記されていた。父はこの家に子供を置いて、母と2人で首都に働きに出ている。ここら、周りに森と小麦畑しかないような場所では到底、子供を3人も養えるような仕事はないのだ。
箱の中の一番底に、4通封筒が入っていた。手紙だろう。僕のと葉色のと、鈴九のと、…誰あてのだろう。宛のところが空白の、真っ白な封筒が入っていた。
とりあえず、白い封筒は開けずに上着のポケットにしまっておくことにした。
二人とも嬉しそうに手紙を読んでいた。なかなか帰ってこれない両親からの手紙だ。前会ったのはもう二年も前だ。嬉しくないはずがない。勿論、僕も嬉しい。4回ほど読み返した。
昼過ぎから雨が降り出した。3人で急いで庭に干していた布団と衣類をとりこんだ。
朝は晴れていたのに。
葉色が窓から雨に打たれている草花を見ながら言った。
山は天気が変わりやすいからね。
今日は友達と遊ぶ予定だったのに。
友達?学校の?
ううん、…猫。
葉色は、あまり人と仲良くなることが得意じゃない。その代わりなのか、動物とはよく遊んでいる。どうも、好かれやすいらしい。少し前までトカゲとよく遊んでいたけど、冬眠してしまったらしい。
猫って、子猫?
うん。
親猫は一緒にいた?
いなかった。…多分、捨て猫だと思う。
子猫を家に連れてくることになった。この時期に外で濡れたら風邪をひいてしまうから、雨宿りさせたい、そう葉色が言い出したからだ。
僕も鈴九も賛成した。葉色の珍しい頼みだ。断る理由もなかった。
僕と葉色で猫を探しに行くことになった。鈴九も行きたいと騒いだけど、家に一人はいなければならないのだ。夜ご飯のデザートに牛乳プリンを出すことで妥協してくれた。
子猫は、もう今は僕らくらいしか遊びにこない、廃れた公園のベンチの下にいた。だいたいここの公園にいつもいるらしい。黒と茶色の斑が背中に入った白い猫だった。
毛布に包んで家に連れて帰った。僕が持つと言ったのだけれど、葉色は自分が持つと言って聞かなかった。脇に傘を挟んで、両手で子猫をあぶなっかしく抱えている。
傘を取って、葉色を僕の傘に入れた。
子猫は葉色の腕の中で大人しくしていた。
子猫を家に連れて帰った。
水を吸って冷えた猫を包んでいた毛布を取替えて暖炉の前で暖めた。
鈴九と葉色はずっとそのそばから離れず、子猫を見つめている。子猫は安心したのか、無防備に眠っている。葉色の言っていたとおり元々飼い猫だったのだろう。
台所に行って、ミルクを弱火で暖めた。猫舌、という言葉があるくらいだからぬるい方がいいのだろうか。湯冷めしたお風呂くらいの温度になったところで火を止めた。
居間戻ると、鈴九と葉色も子猫と一緒に寝ていた。
暖炉の炎が炭酸が弾けたような音を時々出している。
二人と一匹は、ぐっすり寝ているようで、起きる気配がない。
着ていた毛糸の上着を二人にかけた。
布団は昼過ぎに降った雨で濡れたものと猫をくるんでいたもの、今くるんでいるものですべてなのだ。
ミルクはあとで暖めなおそう。
暖かくて、柔らかいものが頬に当たって目が覚めた。
目を開けると、丸い目が六つ、僕をのぞき込んでいた。頬に当たっていたのは子猫の肉球だった。元気そうでよかった。
どうやら寝てしまっていたらしい。僕の上には子猫にまかれていたはずの毛布がかかっていた。
子猫はすっかり回復したらしく、僕の顔に前足をぺたぺたやって遊んでいる。
あぁ、子猫、よくなったんだ。よかったね。
…ぁ、うん。…そうだね。
葉色が申し訳なさそうな声をだした。何かやらかしたのか。よく見ると鈴九はそっぽに視線を巡らせながら目をパチパチしている。隠し事をしている時の鈴九の癖だ。
どうしたの。
…えーとね…。
…なにかしたの。
………あのね、猫が。
鈴九が破れた手紙をおずおずと出した。上着のポケットに入れてた白い封筒だった。
封筒はぼろぼろになっていたが、幸い、中身は破れてなさそうだった。
仕方なく、中の手紙を取り出して内容を確認することにした。別の人に宛ててある物だったら、封筒を取替えて送り返すつもりだった。
明後日、2人で帰ります。
パパとママより
手紙には、真ん中に大きな字でそう書かれていた。
葉色と鈴九は、それを後ろから覗き込んで、目を見開いていた。
嘘だぁ。
嬉しそうな声でそう呟いたのが、聞こえた。
箱の差し出し日を急いで確認した。
二日前だ。
つまり、
その時、玄関の鈴が、鳴った。